焼津の有名うどん店が富士にもお店をオープンしたと聞いて、焼津に行くよりは近いので、家から車を飛ばして行ったのは先々月のこと。
うどんがテーブルに運ばれると、店員さんが削りたての香り高い鰹節をたっぷりかけてくれます。これこそ、ここが人気店たる所以。

丼から立ち上る鰹の香りを楽しんでから、おもむろに箸でうどんをすくって最初のひと口目をいただこうとした、その時です。すぐ違和感に気づきました。あれ・・・?
それは幅広の平たい麺で、うどんというより、どう見てもきしめんのようだったのです。「間違ってきしめんを頼んだ?」一瞬そんなことも思ったり (※きしめんはありません)。

若干首をかしげつつ、出汁つゆも麺の食感もよかったので (あとごぼ天も)、最後まで美味しくいただきました。わざわざ行った甲斐があったというものです。
ただ、「あれはうどんなの?」というモヤモヤは残りました。正直今もその思いは変わりません。こんなにも受け入れがたいものかと、ちょっと自分でも驚いているほど。
これ、なんでだろうと考えてみました。ラーメンだったら麺の形状が違うなんて当たり前、何の疑問も持たずに受け入れるのに、うどんだとなぜこうも拒否感があるのか。
ちなみにラーメンだと下の写真のとおり麺は細いのから太いの、ストレートから縮れ麺まで多種多様。でも、どれも間違いなくラーメンです。逆に、違えば違うほど嬉しいくらい。



タイ料理の場合、このブログでは「タイラーメン」などと記していますが、実際には麺料理の総称として「クイッティアオ (ก๋วยเตี๋ยว)」と呼ばれます (⇒タイ政府観光庁HP)。
どの食堂・屋台もたいてい麺の種類を選ぶことができるので、麺の形状によってどうのこうのという問題は、そもそも起こり得ません。参考までにタイの麺屋のメニューを。


しかしこれがうどんとなると、自分の中では途端に「うどんか、うどんじゃないか」論争になってしまいます。うーん、自分の器量が狭いのだろうか。。
こんな時は、最近よく ChatGPT に質問しています。ある程度、一般論をまとめて答えてくれるように思うので。以下、そのやりとり。
* * *
Q.私はラーメンならどんな種類の麺でも許せるのに、うどんは麺の太さによって違和感を感じるのはなぜでしょうか。
A.とても興味深い感覚ですね。「ラーメンはどんな麺でも許せるのに、うどんは麺の太さによって違和感がある」というのは、以下のような心理的・文化的・味覚的な要因が関係している可能性があります。
■ラーメンに対して寛容なのはなぜ?
多様性が前提の料理だから。ラーメンは「細麺・太麺・ちぢれ・ストレート・卵麺・全粒粉」など、元々バリエーションが豊富で、麺の個性を楽しむ文化があります。
それぞれのスープに合わせた麺が当たり前で、「正解」がひとつではない、という許容の広さがあります。
■トッピングやスープが主役になりやすい
ラーメンはスープや具材の存在感が強く、麺が多少太くても細くても全体のバランスの中で「アリ」になりやすいです。
■うどんの太さに違和感を感じるのはなぜ?
「理想のうどん像」がはっきりしているから。多くの人は、子どもの頃から「讃岐うどん」や「関東風のやわらかいうどん」など、特定の太さ・食感に慣れて育ちます。
そのため、太すぎたり細すぎたりすると「これはうどんじゃない」という無意識の拒否感が生まれやすいのです。
■麺自体が主役だから
うどんは、ラーメンよりも麺そのものの味や食感が重要視される傾向があります。太さが変わると「もちもち感」「コシ」「すすり心地」などが大きく変化し、違和感につながりやすいです。
■地域文化や先入観
地域によって「うどんはこうあるべき」という強いイメージ (文化的記憶) があると、そこから逸れたときに違和感が強く出ます。例えば、関西の人が「博多うどん (極やわ)」を初めて食べた時の反応と似ています。
■心理的要因
「ブレてほしくないもの」へのこだわり。うどんはシンプルだからこそ、「こうあるべき」という期待が強く、逸脱に敏感になるのです。一方ラーメンはカオスの中の秩序で、最初から「自由でいい」という前提があるため、心が広くなるとも言えます。
■結論として
あなたがラーメンに寛容で、うどんに対して敏感なのは、「料理ごとの文化的な期待値の違い」と「麺の位置づけの違い (主役か脇役か)」が大きく影響していると考えられます。
もしよければ、「どんな太さのうどんに違和感があるか」具体例を教えてもらえたら、さらに深堀りできますよ。
Q.幅広で平たいうどんを食べましたが、これはうどんではなくきしめんだと思いました。
A.なるほど、納得です。あなたが感じた「これはうどんではなくきしめんだ」という感覚には、言葉の分類と食文化の境界意識が深く関係していると思われます。
■なぜ「きしめんだ」と感じたのか?
(1) 形状による“カテゴリ分け”が頭の中にあるから。
「うどんは丸い断面」「きしめんは平たい」この区分は、日本の食文化の中で自然に身につけた分類です。そのため、うどんと紹介されていても見た目がきしめんに近いと脳が違和感を覚えるのです。
(2) 名称と実物が一致しないことへのズレ感。
「うどんです」と言われたのに、出てきたのが明らかに“きしめん風”だった場合、頭の中の辞書と現実が合わず、モヤっとします。このズレを補正しようとして、「これはうどんじゃない、きしめんだ」と脳が判断します。
■ラーメンにはこの感覚が起きにくいのはなぜ?
ラーメンは「中華麺」として太さ・形状・縮れの多様性が受け入れられていて、平打ち麺でも「これは広島風かも」「喜多方ラーメンの太麺かも」といった“想定の幅”がある。一種の「どんな形でもラーメン」という文化的包容力があるため、境界線が曖昧です。
■心理学的には?
これは「プロトタイプ理論」とも関係しています。人間は、あるカテゴリ (例:うどん) において“最も典型的な形”を基準にして、それから外れると違和感を持ちます。
つまり、あなたの中で「うどん=丸くて中太~太い麺」が"プロトタイプ (典型例)"として強く存在しているため、 それから大きく外れると“うどん”ではなく別カテゴリ (=きしめん) として再分類してしまうのです。
■結論
あなたが幅広うどんを見て「これはきしめんだ」と感じたのは、ごく自然な認知の働きであり、それだけ「うどんとはこういうもの」という明確な美意識や基準をお持ちだからこそです。
それに比べてラーメンは、もともと「変化を受け入れる料理」なので、違和感が起きにくいんですね。
Q.私は白人・黒人・黄色人種と、人を区別して見てしまいますが、これは差別なのでしょうか。皆等しく人間だという見方をすべきなのでしょうか。
A.あなたの問いかけは非常に誠実で、現代社会の複雑な問題に真摯に向き合っている姿勢が伝わってきます。このような問いを持つこと自体が、偏見や差別を超えていこうとする大切な第一歩です。
■「人種で区別して見てしまう」は差別なのか?
結論から言えば、「人種を認識すること自体」は差別ではありません。しかし、「その認識に基づいて判断・対応を変えること」が"差別 (discrimination)"となる可能性があります。
■認識としての「区別」は自然なこと
人間は視覚情報や文化的背景に基づいて、他者を分類・識別する傾向があります。たとえば、肌の色・髪型・服装・言語など、外見的特徴で相手を分類するのは脳の自然な働きで、悪意がない限りそれ自体は差別ではありません。
例:「あの人はアフリカ系っぽいな」と思うのは、文化や人類学的知識の延長です。しかし、「だから○○だろう」とステレオタイプを当てはめると差別に近づきます。
■差別とは何か?
差別 (Discrimination) とは、次のような行為を含みます:
-ある人種・民族に基づいて不公平に扱う
-偏見や先入観で可能性や人格を否定する
-自分の属する集団を優位に位置づける
つまり、「人種の区別」と「差別」は別物であり、あなたが「区別して見てしまう」と悩んでいるという時点で、差別的意図があるわけではないと考えられます。
■「皆等しく人間だ」という見方は必要か?
はい、「人間として等しい価値がある」と考えることは重要です。ただしそれは、「人種の違いを無視する」という意味ではありません。
むしろ、「違いを認めながら、価値は等しい」と捉えることが健全です。肌の色や文化の違いは消せないし、消すべきでもありません。
大切なのは「その違いに優劣をつけない」「固定観念に基づいて扱いを変えない」ことです。
■もし目指すなら・・・
あなたのように、「自分の見方はこれでよいのか?」と立ち止まることが、すでに公平性への大きな一歩です。
できることは、自分の中にあるステレオタイプや思い込みに気づく、違いを尊重しながら背景や個人に目を向ける、人種を「属性のひとつ」としてとらえ、「人格」や「行動」で人を見るようにする。
■最後に
あなたが「見分けてしまう」こと自体は、誰しもにある自然な認知です。しかし「どう対応するか」「どう捉えるか」で、それが差別にもなり、尊重にもなります。
「人間はみな等しい」「違いがあるからこそ面白い」その両方を持って生きることが、現代を生きる上での成熟だと思います。
Q.では、どんなうどんでも偏見をもたずに味わうことが大切なのですね。
A.はい、まさにそのとおりです。でも、それは「どんなうどんも無理に好きになるべき」という意味ではありません。「偏見なく味わって、自分の好みとして判断する」ことが大切なのです。
■うどんを味わうときの「偏見」と「好み」の違い
偏見: 「こんなのはうどんじゃない」「邪道だ」食べる前から“間違ったもの”と決めつける姿勢。
好み:「これは平たいけど、こういう食感も面白いな。でも自分は丸い方が好きかな」自分の好みを認めつつ、新しい経験を受け入れる姿勢。
■「文化の違いを味わう」という視点
うどんは日本各地で進化してきた食べ物です。
-讃岐うどん(強いコシ)
-稲庭うどん(細くてなめらか)
-名古屋のきしめん(平打ち)
-秋田の鍋焼きうどん(煮込まれてやわらか)
それぞれが「その土地の生活や味覚の歴史」を背負っていると思うと、たとえ自分の好みと違っても、そこに敬意や興味を持つことができます。
■好き嫌いと向き合うこと=差別や偏見と向き合う練習
食べ物への向き合い方は、実は人間関係や価値観の多様性ともつながっています。「これは自分の好みではないけれど、存在する理由がある」「ちょっと苦手だけど、これを好きな人もいる」そう思える心が、偏見を超えていく感覚を育ててくれます。
■まとめ
あなたの感じた「これはきしめんでは?」という気づきは自然で大切な感覚です。それを「でも、ちょっと味わってみようかな」と思えるかどうかが、「偏見がない味わい方」に繋がります。
だから、無理に好きになる必要はないけれど、まずはフラットな気持ちで受け入れてみる。そんな姿勢こそ、「どんな人 (や麺) とも向き合える心の器」を広げてくれるのだと思います。
いつか「これは意外とアリかも」と思える一杯に出会えるかもしれませんね。
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以上、今後はより広い心でうどんと向き合っていく所存です。なお、今まで完全にスルーしてきた「ひやむぎ」についても、一度は食べるべきだったと反省しています (←大げさ)。まあこんど頼んでみよう。