みんなが同じ人種、同じ言葉を話す日本で生活する際、日々のコミュニケーションがすべてにおいて問題ないと言うつもりはありません。それでも海外生活とくらべてみれば、ほとんどの物事は予想 (期待) の範囲で進んでいくと信じています。
多少曖昧な物言いであっても、日本人ならではの阿吽の呼吸があります。むしろ、とくに否定はあまりはっきり言わないところに、日本人の美徳があるともいえます。自分としても、きっとその方が良いのだろうなと、未だに思うわけです。
しかし近年は、日本でも人々の考え方や行動が多様性に満ちています。いや、多様性 (個性) は昔からあったのでしょうが、当時は同調圧力により異物は排除、近年はそれらを認めるべきという社会になったということでしょう。
個人的に意識しているのが、日本では「イエス・バット (Yes, but)」だけれど、海外では「ノー・バット (No, but)」であるべしということ。これは他者に何かリクエストされた際、「いいですよ、でも条件があります」と言うのと、「ダメです、でも条件がそろえばOK」という違い。
自分は日本人との会話では自然とイエス・バットになっているように思います。まずは言下に否定しないことが日本的だなと。そして日本人は、最後までちゃんと話を聞いてくれます。日本語の構造上、最後まで聞かないと否定か肯定かわからないことも多いので、みんな話を最後まで聞く習慣がついています。当然、OKの条件も伝わるわけです。
ただしこれ、OKが前提の時なら問題ないのですが、可能性があまりない時でもこの様に言ってしまうのは、明確に否定はしないけれど、そこは阿吽の呼吸でニュアンスを読み取ってくれよと願ってしまう、古い日本人の悪い (ずるい) 考え方なのかもしれません。
海外では、基本はノー・バットです。もしイエス・バットで言ってしまうと、彼らの頭にはイエスだけが残り、バット以降は忘れ去られてしまうからです。そして往々にして条件が整えられず、リクエストは叶えられません。すると大抵の人は、「イエスと言ったじゃないか」とクレームしてきます。なのでリスク管理という意味でもノー・バットが必須。
ここ数年は、日本人とのやりとりでも、とくにノーの可能性が高い場合、最初にはっきり言った方がいいということも増えてきたように感じます。あるいはそれを求められるというか。「結局のところ、ノーなの?イエスなの?」と聞かれ、ノーと言い切るのはなかなか勇気がいることですが。
新型コロナ以降、コミュニケーションは直接的な会話よりもテキストのやりとり (Eメールなど) がずいぶん増えました。そして丁寧に長い文章を書いても、意外とみんな最後までは読んでくれないのだということに、最近ようやく気がつきました。
とくに内容がノーの場合、最初にしっかりわかるように書かないとダメだなあと。期待させるような (どちらとも取れるような) ことを書いても罪作りなだけです。期待していたのに願いが叶わなかった方が、ダメージが大きいのかな、やはり。そしてふと思い出すわけです。その昔、アラブ人は嘘つきと呼ばれていたことを。
砂漠で迷った異国の旅人に、「オアシスはすぐそこだ」と親切に教えてくれるアラビア遊牧民。その言葉に期待して旅人は炎天下の砂漠を一歩また一歩と進むのですが、いつまでたってもオアシスなんて出てきやしません。そこで旅人は憤慨するわけです。だまされた、あいつらは嘘つきだと。
でもこれこそ、遊牧民の優しさなんです。「近くにオアシスなんてないよ」と言われたら、旅人は絶望し、きっとその場にへたり込んでしまうでしょう。もしかしたらそこで力尽きてしまうかも。嘘だったとしても、旅人にとっては希望となったはずです。それを繰り返していけば、いつかオアシスにたどり着くかもしれません。
同様のケースは、自分が中東にいた時、何度か経験しました。「◯◯に行きたい」と言って場所をたずねると、知らないと言う人は滅多におらず、たいていは「ああ、ここをまっすぐ行って次を右に曲がったらすぐだよ」なんて、さも知っている顔で答えてくれるのですが、ぜんぜんたどり着かなかったこともよくありました。
当時はこういう目にあっても別に腹も立たず、「まあアラブ人だからな、これも優しさだからな」と、自らに言い聞かせたことは言うまでもありません。「本当にそこにあるの?」なんて聞いたって、どうせ答えは「インシャーアッラー」だったし。
あれ? ということは、アラブ人と日本人は似ているのかな。まずは否定しない、知らないと言わない、相手に希望を持たせる。嘘ではなく優しさ。うん、(昔の) 日本人と同じかも。「インシャーアッラー」という言葉は含蓄があるな。
ということで、過去記事「アラブのIBM」を再録。いま読んでも当時のイライラした日々をありありと思い出しますが、今だからこそ、あれはあれで懐かしいと思える自分がいます。
ちなみに国民のほとんどがイスラム教徒のウズベキスタンですが、「インシャーアッラー」ってぜんぜん聞かないなと思いスタッフに聞いてみたところ、同じ意味 (God will) の「フド・ホフラサ (xudo hohlasa)」というフレーズを使っているそうです。基本的にはポジティブな意味だそうですが、あまり当てにならないことの方が多いかもとのこと。アラブと同じですね。
アラブのIBM
初めての中東勤務を目前に控えていた頃、アラブのIBMには要注意とよく先輩たちから聞かされました。「I=インシャーアッラー」「B=ボクラ」「M=マアレーシュ」の3つの言葉は、外国人がアラブ諸国で生活する際、必ずストレスを感じるものだと言われています。
■インシャーアッラー
「インシャーアッラー」は直訳すれば「もし神が望むなら」という意味で、約束などをする際、かならず最後に付け加えられるひと言です。イスラムにおいては、約束とは一種の未来予測と考えられており、それはすでに神の領分であり、人間が軽々しく口にするものではないとされています。
例えば、明日会う約束を取り付けたとしても、それまでの間、お互いの身に何が起こるかわかりません。もしかしたらどちらかが入院するかもしれないし、場所に向かう途中で車が故障するかもしれません。確かに、言われてみればその通りなのですが、インシャーアッラーと言われると、それは約束のキャンセルや遅刻を公然と認めているような気がしてなりません。
アラブ人に言わせれば、実はこれはかなりポジティブな意味で、むしろ「神もそう望むだろう」くらいの意味があると強調する人も多いのですが、実際には遅刻などしょっちゅうですし、やけにインシャーアッラーを強く言っていたなぁと思ったら、案の定約束をすっぽかされた、などということも日常茶飯事でした。
たまにこちらが嫌みのつもりでインシャーアッラーと言うと、「お前はムスリムじゃないからその言葉は使うな」と怒られたりしました。タクシーに乗って行き先を告げてもインシャーアッラー。「途中で事故でも起こすの?」と心の中で悪態をつくハメになります。コピーをとってきてと頼んでも「インシャーアッラー」 うーん、見事といえば見事ですが・・・。
サウジアラビアでは、車の保険をかけない人がたくさんいました。決してお金をケチっているのではなく、保険をかけるということは、将来事故を起こすことを予測していることになるので、イスラムの教義に合わない、というのが理由でした。徹底していますね。
■ボクラ
「ボクラ」は「明日」という意味です。フスハー (正則アラビア語) で言うと明日は「ガドゥ」ですが、普通はみんなボクラを使っています。
アラブ諸国では、いろいろと手続きに時間がかかります。滞在ビザの取得、郵便荷物の引き取り、IDカード作成、銀行口座開設等々、とにかくこちらが早く済ませたいと思っても、なかなかすんなりと事が運びません。
そのため関係窓口に何度も通うことになりますが、そこでたいてい言われるのがこの言葉です。しかし係官も、明日という単語を特別な根拠があって言っているわけではありません。
つまり、「少なくとも今日は終わらない、いつになるかわからないけれど、明日も来てみれば?」くらいの意味で使っているのかなと、途中で気づきました。もっと良くいえば、「明日、希望を持ってやって来るべし」ということ。
もし1週間かかるのであれば最初から「7日後に来い」と言ってくれれば良いのに、「明日」と言われたらこちらも7日間毎日通わなくてはなりません。本当に迷惑な言葉です。変に希望を持ってしまうこちらも悪いのですが。
だいたいにおいて、「ボクラ、インシャーアッラー」と合わせ技で言われますが、これを聞くと心底ガックリでした。
(※Bは「バクシーシ」だと言う人もいます。「チップ」転じて単に金をせびること、あるいは賄賂の意、特にエジプト)
■マアレーシュ
「マアレーシュ」は「Maa Alayhi Shay (何事もない)」から来ているようですが、意味としては「大したことではない」という感じです。
使われ方としては、例えば道でドンと人にぶつかられたとき、ぶつかった方がこれを言います。つまり「今あんたにぶつかったけど大したことじゃないから許してくれるよね」と言っているのです。遅刻してきた人がこれを言ったら「遅れちゃったけど大したことじゃないから気にしないよね」ということです。
アラビア語には「アースィフ (ゴメンね)」というちゃんとした謝罪の言葉があるのですが、日常、この言葉を聞くことはほとんどありません。遅刻の場合は約束の段階でインシャーアッラーと言っているでしょうから、そもそも詫びる必要はありません。
一度、エジプトで運転手が人混みの中を徐行運転しているとき (カイロは人口過密と交通渋滞でそんな所ばかりでした)、少し強めにドンと人にぶつかってしまいました。その人は思わずよろめいてその場に転んでしまいましたが、あわててその人に駆け寄った運転手はひと言「マアレーシュ」。
それで済んでしまうんですから、エジプト人は心が広いのでしょう。それでも相手の怒りが収まらないときは「マアレーシュって言っているだろ!(ボオッラック・マアレーシュ:エジプト方言」などという少々荒っぽい言葉が投げつけられたりもします (うちの運転手でしたが)。
これで社会がうまいこと回っているのですから (ホント?)、外国人が口をはさむことではありませんね。
以上、悪名高いアラブのIBMでしたが、個人的には3つの言葉はどれもアラブの文化を象徴しているように思えて、これを言われるとどちらかといえばニヤニヤしながらおもしろ半分で聞いていました。
* * *(過去記事ここまで)
もしかしたら今の若い人たちは「IBM」と聞いてもピンとこないのでしょうか。同社がパーソナルコンピュータ事業をレノボに売却したのがもう2004年のことだそうですから。IBM ThinkPadもLenovo ThinkPadになりました。
自分はいまThinkPad X270を丸6年使っています。安いノートパソコンは2〜3年で塗装が剥げたりキーボードがヘタったりUSB端子がバカになってきますが、さすがThinkPad、そんなことはまったくなく、まだまだ使い続けられそうです。
4年目にOSが激重になったので内蔵HDDをSSDに換装したところ、また絶好調になりました。正直そろそろ新調したいのですが、新しいのを買う理由もないので、買うタイミングを完全に失っています。