エジプトの歴史はいつから?
エジプトの歴史は王国時代 (紀元前3200年~前343年)、ヘレニズム時代 (前332年~前30年)、ローマとビザンチン帝国支配の時代 (前30年~後638年)、イスラム王朝時代 (642年~1517年)、オスマントルコ支配の時代 (1517年~1882年)、イギリスの植民地時代 (1882年~1952年)、そして現在の独立国家エジプトの時代になります。
王国時代に建設されたピラミッドやツタンカーメンのマスク、クレオパトラの自殺によって王国時代が終焉したことなど、世界史の教科書にも載っていて、日本人にもなじみ深い話題です。
エジプトに赴任してすぐ、職場のスタッフが「エジプトの歴史についてレクチャーしてあげよう」と言って、我々日本人を一室に集めました。ピラミッドやツタンカーメンなど想像するだけでわくわくしてきます。どんな特別な話がきけるのだろうと期待して耳を傾けていました。
しかし意外にもスタッフの第一声は、「エジプトの歴史は1952年のエジプト革命に始まる」というもの。我々は黙りこくってしまいました。続けて、ナセルの功績、中東戦争での勝利、イスラエルとの電撃的和平合意などが矢継ぎ早に語られ、アラブ諸国の中でエジプトがいかに重要な立場にいるかを説明されました。
一通り話が終わった後に、恐る恐る「あのぉ、エジプトの歴史と言えばピラミッドですが?」とたずねると、「それは遠い過去の話、誇りには思うが現在のエジプトとは関係ない」と一刀両断されてしまいました。
赴任する前、出張や旅行でエジプトには5回行きましたが、その度に「なんだかクセのある人たちだなぁ」と違和感を覚えていましたが、これでますます違和感が増幅されました。
確かにナセルはバンドン会議 (アジア・アフリカ会議/1955年) 当時は非同盟諸国の旗手であり、スエズ国有化宣言で勃発した第2次中東戦争 (1956年) を乗り切った後、アラブ諸国の英雄になったことは事実です。サダトもイスラエルとの和平を実現し (1979年調印)、ノーベル平和賞を受賞しました。
しかしそれ以降は、アラブ連盟からの追放に加え、オイルマネーで潤った湾岸諸国への出稼ぎによる国内労働力の空洞化 (いわゆる頭脳流出)、経済自由化政策による貧富の差の拡大、イスラム過激派の台頭など国内問題が山積し、国力は衰退の一途をたどっているとしか思えません。
せっかく5000年以上の歴史があるのに、戦後わずか30~40年の栄光 (それもすでに過去のもの) に固執する姿は、いささか哀しいものがありました。
ルクソール事件
エジプトに赴任して5ヶ月ほどたったとき、ルクソール近郊のハトシェプスト女王葬祭殿でテロ事件が起こりました。数十名の旅行者が犠牲になるなど、かつてない凶悪な事件は、当然カイロの日本人にもすぐに連絡が入りました。その日はインターネットで関連ニュースを読みあさり、全容を知れば知るほど、わき上がる怒りは大きなものになっていきました。
翌日、やるせない気持ちで出勤すると、ほどなくエジプト人スタッフから、話したいことがあるから集まってくれと言われました。そこで、我々日本人は自分の耳を疑うことになります。おもむろに口を開いたマネージャーからは、昨日のテロ事件のことが話されました。
「あれはイスラム教徒がやったことではない、すべてアメリカとイスラエルの陰謀である、なぜなら、イスラム教徒はあんな残酷なことはしないから」 淡々と語るマネージャーの顔を見ながら、我々はあきれて反論する気にもなれず、ただ押し黙るしかありませんでした。
それからしばらくの間、周りのエジプト人から何度も何度も同じようなことを言われました。最初は、イスラム擁護の立場から弁解として発言しているのかとも思いましたが、どうもほとんどのエジプト人は本気でこう考えていたようです。
ルクソール事件直後から外国人観光客は10分の1に激減、貴重な観光収入はほとんど途絶えてしまいました。観光地では多くの人が店をたたみ、カイロでもタクシーの数が激減、ホテルは客が入らず、レストランも閉店が相次ぎました。
テロの翌日から観光キャンペーンを始めた政府側も、無神経なところがあります。テレビをつければルクソールの映像が流れていて、曰く、「今がもっとも安全」 …こんな対応をしているから、それから2年間ほとんど観光客が来なかったんだと思います。
仕方なく、観光地ではエジプト人優遇キャンペーンを始めました。遺跡の入場料やホテル代をぐんと安く設定したのです。それまでは、観光地のホテルにはひとつの宿泊料金しかありませんでした。外国人もエジプト人も同じ宿泊料金です。
公務員の給与が2万円もないのに、1泊100ドルのホテルにエジプト人が泊まれるわけありません。例えば外国人1泊100ドルのところ、エジプト人は100ポンド (3200円) くらいにしていたと思います。
一応ホテルの部屋は埋まるようになりましたが、それから何が起こったか。ある時期、現地紙に「観光地を破壊するエジプト人」という告発記事が連載されました。観光地のホテルや遺跡で、あまりにもエジプト人観光客のマナーが悪く、物を壊したり汚したり、手がつけられない状態になっているというものでした。
インタビューに対して、「あのテロのおかげで高級ホテルに泊まることができた、あれは良かったと思う」と答える人も何人かいました。実際、これがエジプト人の本音なんだと思うと、本当に悲しくなったものです。
エジプト人の性格
エジプト人とひと口に言っても、ナイル上流のヌビア地方から地中海に面したアレキサンドリア、またシナイ半島の遊牧民まで、単純にひと括りにはできない多様性を持っています。
そこで、「エジプトはナイルの賜 (ミスル・ヘバトゥンニール)」という格言に基づき、ナイル川沿いに暮らしてきた人たちを大きな意味でエジプト人と括ることにして、彼らの性格を分析してみたいと思います。
ナイル川は、アスワンハイダムが造られるまで、毎年洪水を起こしていました。洪水のたびに河岸の集落はダメージを受けますが、それが下流に肥沃な土をもたらし、農民はまた1年間畑作ができるようになります。
これを数千年に渡って繰り返してきた人々は、「ナイル川の洪水は、時期は前後するけれど必ず起こる」という「事実」を学びました。
これはつまり、「事態はいつか必ず好転する」ということであり、その信念に基づき、「何もせず、楽観的に事態の推移を待つ」性格が形成されていきました。
エジプトの歴史は、支配と抑圧の歴史でもあります。王朝時代はひと握りの王族による大多数の民衆の支配。続いてローマ帝国、ビザンチン、イスラム、オスマントルコ、イギリスと、常にエジプト民衆は他者からの支配を受け続けました。
これほどまで長い間、反乱も起きずに (実際には幾度かあったかもしれませんが)、他者による支配が続いたのは、こうしたエジプト人の「抑圧に耐え抜けばいつか事態は好転する」という確固たる精神力、ポジティブシンキングが影響していたのではないでしょうか。
その結果、数千年の時を耐え、20世紀になってついに真の独立を勝ち得たわけですから、本当に大したものです。日本人とは時間の流れ方が違いすぎると言わざるを得ません。
* * *
例えばサウジアラビアでは、計画というものは有って無きがごとしでした。これは、計画という考え方がイスラムの教義に合致しないからです。
コーラン第18章23~24節には、「何事においても "私は明日それをするのです" などと言ってはならない、"アッラーが御好みになるのなら (インシャーアッラー)" と付け加えずには」と記されています。
そのため、イスラム教徒は何か将来のことに言及したときには必ず最後に「インシャーアッラー」と言うのですが、これでは端から計画遂行や期限の厳守など望むべくもありません。
もちろん、インシャーアッラーはあくまで謙虚な気持ちであって、むしろボジティブな意味にとってあげるべきなのですが、サウジアラビアでの仕事は、とにかく物事が計画通りに進まず苦労しました。
計画が予定通り進まないのは、同じイスラム教国であるエジプトも同じなのですが、エジプト側と一緒に仕事を進めていく上で一番の障害となったのは、エジプト側が負担すべき約束が履行されないことでした。
それは人の配置であったり予算の確保だったりしますが、もともと予算が少ないことに加え、なにしろ彼らは「じっと待っていればそのうち事態が好転する」という信念の持ち主です。「待っていればそのうち日本側が全部やってくれる」という考え方になるのは、当然の帰結でしょう。
日本人はなんとしても計画の期限を守ろうとするし、また予算も単一年度で使い切らなくてはなりません。我慢くらべをするにしてもこちらの時間は限られているわけで、その辺りのせめぎ合いが本当にストレスでした。
また、エジプトはイスラエルと単独和平に踏み切るなど、欧米諸国にとっては中東の模範生です。さらに、スエズ運河があるためヨーロッパ諸国にとっては生命線とも言える地政学上の重要国家であり、その結果、莫大な援助資金や技術協力が集まって、さながら援助の万国博覧会でした。
黙っていてもエジプトに援助したい国はたくさんありますから、日本がエジプト側に対して最後通告的に「約束を守ってくれないと援助を止める」と言っても、あまり効果は期待できませんでした。
相手の自立を促すためには、相応の責任分担をしてもらう方が、オーナーシップの醸成という点からも望ましいというのは自明の理ですが、それがエジプト人相手だと、途端に空論に変わってしまいました。真に自立の必要性を考えていたエジプト人が当時どれほどいたか。
諸条件の元に「何もせずに待つ」という性格に拍車がかかってしまったことは、長い目で見れば決して得策ではないと思います。しかし、こちらが思う「長い目」がせいぜい50年なのに対し、彼らのそれはきっと千年単位でしょうから、これはもう最初から勝負になりませんね。
タクシードライバーとの戦い1
カイロのタクシーは料金がとても安く抑えられています。料金メーターはついているものの、初乗りが20円くらいから始まり、走ってもそれほどメーターは上がりません。安いのは良いのですが、逆に安すぎて、メーター通りのお金を満足して受け取る運転手などいません。現地人でも多少は割り増しして払うと聞きました。
タクシーの値段は、乗る人の国籍、タクシーを拾う場所、行き先などによってピンキリです。そのため、タクシーの乗り方にはちょっとしたコツがありました。まず、ホテルの前に止まっているタクシーはかなり高いので、少しホテルから離れて流しのタクシーを拾うこと。ホテル前のタクシーは、その権利と引き替えにホテル側にいくらか取られているそうです。
自宅の近くにあったフラメンコホテルだと最低6ポンド (190円) から、ラムセスヒルトンだと最低10ポンド (320円) から交渉が始まりました。流しを拾えば2~3ポンドで行ける距離でもです。
また、行き先が観光名所だと、観光客と思われてその分高い料金を言われます。通りの名前とか駅の名前を言って、そこで降りて少し歩くようにした方が断然安くすみます。
ガイドブックには「タクシー料金は乗る前に交渉すること」と書かれていることが多いのですが、必ずしもそうではありません。
目的地を告げてタクシーに乗り込んだら、後は運転手が何を言おうが到着まで料金については無視し続け、着いたら車を降りて窓の外から相場の額を渡し足早にその場を去る、という上級者向けの技があります。
メーター料金にいくらか足して払ったとしても、運転手は必ず「これじゃあ少ないよ」と文句を言うでしょうが、本当に相場以下だったら、運転手はタクシーを降りて追いかけてきます。追いかけてこなかったら、一応満足できる額だったということです。
あれは初めてエジプトに旅行した時だったでしょうか、ホテルから考古学博物館に行くためタクシーに乗りました。こちらは見るからに日本人の旅行者、しかも行き先は観光名所です。運転手は終始ご機嫌で、鼻歌交じりに運転していました。
博物館に着くと、メーターは1.5ポンド (50円)。タクシーを降り、窓の外から2ポンド渡すと、運転手の顔がみるみる険しくなっていきました。「冗談だろ!?」と運転手は大声を出しました。もっとよこせとすごい剣幕です。
それを無視し、タクシーを背にして歩き出すと、しばらく罵声が聞こえていましたが、そのうちタクシーは行ってしまったようです。その時は「勝った」と思いましたが、あそこまで罵倒されるとちょっと気分が悪いので、次に同じルートでタクシーに乗った時に3ポンド渡したら、今度は満面の笑みで「シュクラン (ありがとう)」と言われました。
多すぎたのかな、、難しいな。。(相場を吊り上げてはいけないので)
タクシードライバーとの戦い2
カイロでは、外国人の中でもとくに日本人はたくさんお金を払うとみんな信じているようで、タクシーに乗るとまず「日本人か?」と聞かれます。
ここでうっかり「Yes」と答えると (うっかりと言ったって事実そうなんだけど)、途端に運転手は上機嫌になって「日本は素晴らしい、日本人は友達だ」などと話しかけてきます。
道中「あれが○○○で、あっちは○○○だ」などとにわかガイドを始め、そしてタクシーを降りる時、「友達なんだからもっとバクシーシをくれ」としつこく催促されることになります。
「中国人と言えば安くなる」と言っていた人もいましたが、そこまでウソをつくのは、個人的には抵抗があります。
効果が高いのは、「イザイヤック (How are you)」から始まって一通りの挨拶とおべんちゃらをアラビア語、しかもカイロ方言で話しかけることです。そうして自分はエジプトに長期間滞在していることを強調すると、向こうは「こいつは知っている奴だ」と思って、それほどしつこく金、金と言わなくなります。
そのかわり、「タクシーでは食えないんだ、仕事を紹介してくれ」などとしつこく言われ、別の意味で鬱陶しい思いをすることになることもありますが。
一度、家まで近いのにタクシーを使ったことがありました。メーターは0.9ポンド (29円)。さすがに1ポンドきっかりだと悪いかなと思って、0.1ポンドコインを足して払いました。
タクシー運転手は急に不機嫌になって、「なんだこれは、少なすぎるだろ」と声を荒げてきましたが、それを聞いてこちらもムカッときました。
少なくともメーター以上は払っているのに、なんでそんな言われ方をされなければらないのか。メーターを指さし「これはいくらだ、言ってみろ」とついつい語気を強めてしまいました。
こちらのアラビア語に多少の驚きを見せつつ、向こうも負けじと「1.5ポンド (ギニー・ワンヌッス) よこせ」と声を張ります。「この距離でそんなに払えるか」「みんなもっと払うぞ」「昨日は1ポンドしか払わなかった (←口からでまかせ)」「おまえ日本人じゃないのか」「だからどうした」
などと応酬を繰り返していると、「じゃあ1.25ポンド(ギニー・ワッルブゥ) よこせ」と言ってきました。その高飛車のもの言いがますます頭に来て、とてもではありませんがあと0.15ポンド (5円) 追加する気にはなれませんでした。
結局20分以上言い合いをして、最後は向こうがあきらめて行ってしまいました。家に上がってからしばらくは鼻息が荒かったのですが、その日の夜、ふと我に返り、「たった5円のことで何をしてるんだか…」とかなり落ち込んだのでした。
タクシードライバーにエジプト人の良心を見た話
あまりタクシーの悪口ばかり言っても仕方ないので、良い思い出もひとつ。あれは初めてエジプト旅行に行ったときのこと。考古学博物館を見た後、カイロ市内を観光しながらひたすらてくてく歩き、ムハンマドアリーモスクにたどり着きました。
カイロの地理を知っている方なら、これがけっこうな距離だということがおわかりでしょう。モスクには1時間ほどいましたが、さすがにまた歩いて帰る気にはなれませんでした。暑さはまだしも、あまりにも排気ガスがひどいからです。しかしサイフを確認すると、12ポンド (390円) しかありませんでした。ホテルまで戻れるか微妙なところです。
ガイドブックを取り出し、「こことここが距離○kmで値段は○ポンドだったから…」と計算をしてから、まぁなんとかいけるだろうとふんで、タクシーをつかまえました。最悪、メーターが12ポンドになったら事情を話してそこで降りれば良いと考えました。
タクシーに乗り込み運転手に「ザマレク」と伝えると、走り出してまず運転手がたずねてきたのは、「町の中心部は渋滞がひどいから迂回して良いか」ということでした。わざわざ聞いてくるくらいですから、だまそうとしているわけではなさそうです。渋滞中も料金は時間で加算されるため、迂回の距離加算分とは相殺でしょう。「マーシ (いいよ)」と答えました。
しばらく走っていると、水道橋が見えてきました。地図を取り出して道を確認すると、かなりの遠回りで、いったん目的地から遠ざかるようなルートです。「ちょっと遠回りすぎない?」と言うと、運転手は「でもこっちの方が時間はだいぶ短いよ」と答えました。
メーターが12ポンドになってどうせ途中で降りるなら、少しでも目的地に近づいておきたいと思っていたので、この選択は失敗だったかなと少し後悔しました。また、迂回路といえども、結局みんな同じことを考えるので、それほどスイスイと走れたわけでもありませんでした。
とにかくメーターはジワジワと加算されていきます。8ポンドを超えたあたりでもうメーターから目が離せなくなり、10ポンドになって、ついにおずおずと運転手に事情を話しました。サイフを広げ「ごめん、12ポンドしかないんだ、12になったら降りるよ」と伝えると、運転手は「本当にないの? うーん」と考え込んでしまいました。
ほどなくメーターは12ポンドになり、「ここでいいよ、止めて」と言ったのですが、運転手は黙ったまま車を走らせ続けます。そうしてメーターが15ポンドを越えたところでようやくタクシーは止まり、おもむろに運転手が口を開きました。「ここならザマレクまで歩きやすいから」 サラッと言ってのける彼の、なんと格好良かったことか。
彼は嫌な顔ひとつせず12ポンドを受け取ると、あっという間に走り去って行きました。エジプト人というのは概して強い者 (権力者や金持ち) には反発するけれど、弱者にはとことん優しいなあと、しみじみ思いました。
後でよく考えたら、ホテルまで行ってもらってそこで全額払えばよかったんですけどね。部屋にお金はあったので。お互いに気がつきませんでした。行き先をザマレク (地区名) ではなくホテル名で言っていたらまた違っていたのかも。
エジプトはアラブか?
自分がブログで書くところの「アラブ人」というのは、いつも大体「遊牧アラブ人」であるアラビア湾岸諸国の人たちを指しています。
一番開かれたアラブ世界として、ダントツに外国人旅行者が多く、また外交的にもアラブの代弁者とみなされることから、「エジプト=アラブ」「アラブ=エジプト」と考える人は多いと思いますが、個人的には、エジプトはちょっとアラブとは別世界だなと感じます。
そもそもアラブ人とは誰のことか。「アラビア半島にかつてあるいは現在住み、アラビア語を母語としている人々」というのが一般的な定義ですが、さらに「イスラム教」も重要な要素となっています (レバノンは人口の半分がキリスト教徒ですが)。
この定義によれば、遊牧民と農耕民の区別は意味がないかもしれません。しかし、国民のほとんどが農業に従事しているエジプトと、今でもベドウィンそのもののような精神風土を持っているサウジアラビアでは、体格から考え方まであらゆる面において違いがあります。
エジプトは世界有数の長い歴史を持っています。7世紀にアラビア半島からエジプトに侵入したイスラム戦士たちは、当時エジプトを支配していたビザンチン勢力を追放することに成功、現地に根を下ろしていきました。ここでアラビア半島のアラブ人とエジプト人が同化したという説もありますが、数的に言ってアラブ人の血がまんべんなくエジプト人と混じったとは考えにくいのも事実です。
つまり、大多数のエジプト人は、古代ファラオ時代から続くオリジナルエジプト人の末裔であると言えるのではないでしょうか。そしてそれはとても誇らしいことだと思います。ということで、エジプトはあくまでエジプトであり、アラブとは言い難いものなのです。
最後のお茶会
エジプト離任の前日、会議室のテーブルを囲み、最後にエジプト人スタッフと一緒にお茶を飲みました。「エジプトはどうだった?」 スタッフが口々にたずねてきます。
3年間のエジプト勤務は、仕事・生活ともにあまり良い思い出がありません。正直、文句しか浮かんできませんでしたが、そこは大人の対応で、「すべてが素晴らしかった」とルクソールやシナイ山に旅行した話を身振り手振りを交えて話しました。
スタッフもフンフンとにこやかにうなずいています。しかし、実際にはエジプトがあらゆる面でひどい国 (外国人には暮らしにくい国) だということは、さすがにスタッフもわかっているだろうし、良い話ばかりしたら逆に本音を言わない腹黒い奴だと思われるかもしれないと考えて、「そうだ、ひとつだけ残念なことがある」と最後に切り出しました。
みんな興味津々で身を乗り出してきます。おもむろに、「お札が汚いのはちょっと嫌だったな」とサイフから真っ黒で臭い1ポンド札を取り出し、笑顔で言いました。こうした汚いお札が流通しているのは厳然たる事実で、しかも彼らの目の前に実物を示しています。こちらはみんなが苦笑しながら、「そうだよねえ」と言ってくれるのを期待していたわけです。
ところが、そこからスタッフ同士でちょっとした討論が始まってしまいました。「何かの間違いだ」「いや、お札が汚いのは事実だ」「お札を管理しているのはどこか」「造幣局と財務省の関係は?」「現金流通システムを改善すべきだ」「銀行が古い紙幣の回収を拒んでいる」「政府は何をやっているのだ」などなど、もう喧々囂々。
最終的には、リーダー格のスタッフが、「そのようなお札があなたの手に渡ったことを申し訳なく思う、今後そのようなことが起こらないよう関係機関に申し入れを行いたい」と淡々と発言し、殺伐とした雰囲気のまま最後のお茶会は終わりました。
この時学んだ教訓。エジプト人には、絶対にエジプトの悪口を言ってはいけません。それが曲げようのない事実であっても、例え冗談口調であっても、さらにはエジプト人が発した自虐に同意した言葉であっても、外国人にそう言われると、エジプト人はものすごく気にします。
そして、その指摘を否定しようとして、不毛な議論・口論が始まります。エジプト人もみんなそれなりに社会に対して不平不満はあるのでしょうが、外国人にそういう汚点を突かれるのは嫌なんでしょうね。まあわからないでもありません。
犬とロバ(アラブの悪口)
ブッシュ大統領の電撃的イラク訪問は、ひとりのイラク人記者により、アメリカに対するイラク人の国民感情が露呈してしまった結果となりました。クツを投げつけ 「犬!」 とののしったそうですが、アラブ世界で犬 (カルブ) は最高の侮辱の言葉だと言われています。
学生時代にインドネシア人の友達から、インドネシアでも犬 (アンジン) はひどい侮辱の言葉だと聞きましたから、イスラム圏では全般的に犬はあまり良く思われていないようです。誰彼かまわずシッポを振るところが、イスラム教徒のお気に召さないのでしょうか。もっとも、日本でも犬畜生なんて言葉がありますが。
ただし、これまで長くアラブで生活していますが、実際に犬とののしっている場面に出くわしたことはありません。それよりもよく聞いていたのが 「ホマール (ロバ)」。特にカイロでは日常的に耳にしていました。ロバはエジプト人からあんなにこき使われているにもかかわらず、人間の命令に盲目的に従う様がひどく軽蔑の対象になっています。まったくむくわれませんね。でも、確かにカイロの大通りをてくてく歩くロバ車によって引き起こされる 「ロバ渋滞」 に何度も遭遇し、その度にもうちょっと頭を使って動けよとロバを恨めしく思ったものです (実際にはロバを使う人間の方が悪いんですけどね)。
カイロに赴任してアパートを探していた時のこと、不動産屋の車に同乗して物件を見に行きました。道中はいつものごとく大渋滞。ただでさえ混んでいるのに、右から左から割り込んでくる車が後を絶たず、なかなか前に進めません。不動産屋の顔にイライラがつのっていくのが手に取るようにわかりました。30分ほどのろのろ走った後、少し空いたところで不動産屋がすかさずアクセルを踏み込むと、車は一瞬加速しかけましたが、すぐに右側から車がググッと割り込んできて、中央分離帯の切れ目をめがけて無理矢理Uターンしようとしました。当然そんなに一気に行けるわけもなく、その車はこちらの目の前で真横になったままピタリと止まってしまいました。
不動産屋は40代の品の良さそうな女性で、それまでは車中でも 「カイロは渋滞がひどくて外国人には目が点でしょ」 などと穏やかに話していました。しかしここで怒りがピークに達したのか、やおら窓を開けると左腕を突き上げ 「ホマール!、ヤー、ホマール! (ロバ!、おい、このロバ野郎!)」 と相手をにらみつけ大声で怒鳴りだしたのです。その迫力たるや鬼子母神もかくやという勢い。相手の運転手は肩をすくめただただ正面を見つめるのみ。その車が行きすぎるまで、不動産屋はひたすら罵声を浴びせ続けました。せいぜい1分くらいでしたが、なんだかとても長く恐ろしい時間でした。
サウジアラビアでもやはりロバは禁句です。新聞に載っていた話ですが、ある20代の女性が友人の家にいて夫の出迎えを待っていた時のこと、あまりに遅い夫にイライラして何度も携帯に電話をして文句を言っていると、最後に友達に向かって 「本当に夫は要領が悪くて、ホマールなんだから」 と口走ってしまいました。不幸にも、携帯の通話が切れておらず、その禁句は電話越しに夫の耳にも入ってしまいました。しばらくして彼女の携帯にメールが入り、そこには 「離婚裁判所で会おう」 という夫からのメッセージがあったそうです。おそらくホマールは離婚の条件になり得るほどの罵詈雑言なんでしょう。
ということで、何より名誉を重んずるアラブ人に対して、絶対にホマールやカルブなんて言ってはいけません。ちなみに、エジプト南部 (上エジプト) 出身者のことを 「サイーディー」 といい、田舎者の代名詞になっています。よくノクタ (冗談) の登場人物にされ馬鹿にされていますが、どちらかというと愛すべき存在のようです。悪口なのかどうかはその場の雰囲気によるでしょう。先月リヤドのダウンタウンにあるマスマク城に行った時、エジプト人の入場者にサウジ人の警備員が 「お前はサイーディーか?ガハハ!」 となんだかえらく陽気に話しかけていましたが、たぶん、親愛の情だったのかなと。