A Dog's World 

~海外で暮らす・日々の記録・旅の記憶~   

エジプトの観光・娯楽

ギザの大ピラミッド

エジプトが嫌い嫌いと言いながら、なんだかんだで旅行5回、挙げ句の果てに3年間カイロで暮らすことになってしまいました。エジプト人 (カイロ人) については、口を開けば不満と文句しか出てきませんが、古代エジプト王朝の遺跡については、やはり一生に一度は見る価値のある、素晴らしいものだと認めざるを得ません。

カイロから車で30分ほど走るとギザに着きますが、車窓から見えるピラミッドは徐々にその大きさを増していき、メナハウス・オベロイホテルの手前に来た時には、異様な大きさとなって目の前に広がります。

初めて見た時は、その常軌を逸した大きに思わずアハハと笑ってしまいました。人間、わけがわからなくなると、なんだか笑ってしまうものなんですね。ちなみに、周囲の構造物との対比とか、最初にドーンと目に飛び込んでくるからとか、いろいろな理由があると思いますが、メナハウスの手前から見るピラミッドが、感覚的に一番大きく見えました。

もっとピラミッドに近づくと、見上げる目線とピラミッドの傾斜角が一致してくるためかあまり大きな面積として映らないので、逆にその大きさがよくわかりません。しかし遠目にはレンガブロックを積み重ねたように見えたピラミッドの1個1個の石が、実は1mくらいあることに気づくと、如何に大きな建造物かということがわかりました。

ピラミッドは王の墓であると言われていますが、底辺の四隅がぴったり東西南北に合わされていることから、他にも何か目的があったのではないかと言われています。大通廊に「大予言」が記されているという専門家もいます (学研の "ムー" だけど)。

少なくとも内部にはいろいろな部屋が作られ、そこにさまざまな財宝 (副葬品) が隠されていたようです。入口は完璧にふさがれましたが、多くのピラミッドには盗掘の穴が開けられました。

現在ではその穴を利用して、ギザのクフ王のピラミッド内部にも入ることができます。盗掘のために作られた狭い通路をくぐり抜け、大通廊に出ると一気に天井が高くなります。大通廊は傾斜がきつく、内部は酸欠気味なので上っていく時はかなりの息苦しさを感じました。

大通廊を上りきると、王の玄室があります。ガランとした殺風景な空間で、ポツンと石棺が横たえられています。自分が行った時は、石棺の周りで10人くらいの白人の集団が手をつないで輪になって「ム~、ム~」とハミングしていました。

何事かと思ってその場に近づき石棺の中をちらっとのぞいてみると、中に1人横たわって「うーん、うーん」とうなりながもぞもぞ動いていました。ピラミッドパワーが欲しかったのでしょうか。

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サッカラの階段ピラミッド(カイロ郊外)

カイロ近郊で、ギザのピラミッドに次いで有名なのがサッカラの「階段ピラミッド」です。これはエジプト第3王朝ジェセル王のピラミッドで、紀元前2700年ごろ建造されました。

その設計は、最古の建築家でのちにエジプトで神格化されたイムヘテプによるものです。このピラミッドは最古の記念碑ともいうべき王墓であり、エジプトでもとくに古い石造建築のひとつです。

ピラミッド周辺にはマスタバ (アラビア語で “ベンチ”) と呼ばれる墳墓群があり、内部はヒエログリフによる膨大なテキストの彫刻とともに、漁や牧畜の様子など当時の生活を記録したレリーフで埋め尽くされています。

カイロとその近郊では、サッカラのレリーフが一番美しいと思いました。

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ダハシュールの屈折ピラミッド(カイロ郊外)

ダハシュールには第4王朝初代国王スネフルのピラミッドがあります。「屈折ピラミッド」として知られていますが、その名の通り底辺から傾斜角約54度で積まれていた石は、途中から約42度と急に緩やかになっています。

なぜ屈折なのか、それは石組みの技術力の問題だったそうです (他にも諸説あり)。砂を上からサラサラと落とすと、砂の山ができます。その傾斜角が、自然にできる限界の角度です。それ以上傾斜角を大きく、つまりとがらせようとすると、積み上げ方に工夫が必要になります。

ギザのクフ王のピラミッドは、傾斜が自然の角度よりもだいぶとがっています。それだけ石組みに高い技術力があったということです。

ところが屈折ピラミッドは、ある高さで傾斜角が緩くなっています。石をできるだけ鋭角で積んでいくはずが、きっと途中で挫折してしまったんですね。上の方の緩やかな傾斜は、自然にできる角度とほとんど同じだそうです。

ピラミッド造成技術は、クフ王のピラミッドがひとつの頂点です。これは紀元前2530年頃のことで、今から4500年も前のことです。クフ王以降は、紀元前1600年頃までピラミッドが造られたそうですが、後期になるほど規模や技術力は低くなっていきました。4500年前に技術のひとつのピークがあったという事実には驚愕するばかりです。

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アスワン旅情

アスワンの魅力を伝えるのは難しい。ルクソールのように偉大な遺跡があるわけでもなく、ナイルデルタのように緑が豊かでもない。もちろん刺激と喧騒に満ちたカイロとは比ぶべくもない。とにかく何もない。ただナイル川があるだけ。

観光といってもナイル川でファルーカ (帆掛け船) に乗るくらいしかないが、しかしそれが実に良い。夕方、太陽が沈みかけた頃、ファルーカの上で風の涼しさを感じるのが心地良い。ナイルの水をさわると思いの外冷たく、その時、自分は確かにエジプトにいるのだと実感するのが良い。

カイロやルクソールで、現実離れした古代遺跡のボリューム感にリアリティーを失いそうになったら、アスワンに来るのが良い。そこで初めて、等身大のエジプトに触れることができる。

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シナイ山のご来光

シナイ山に登りご来光をおがんだのは、個人的にエジプト観光のひとつのハイライトでした。子供の頃から親しんできた旧約聖書。その中でもモーセの出エジプト記は、スペクタクルシーンや示唆に富んだ物語がふんだんに盛り込まれ、単純に読み物として面白いものでした。

出エジプト記は、研究家によれば紀元前13世紀頃の出来事であったと言われます。すべてが真実の出来事だとは思いませんが、十戒にまつわる何らかのストーリーがシナイ山で紡ぎ出されたのだと考えると、静かな興奮を覚えました。

十戒の配列にはいくつか解釈がありますが、ユダヤ教では、(1)序文、(2)ヤハウェ以外の神々を信仰したり偶像崇拝をしてはいけない、(3)神の名をみだりによんではいけない、(4)安息日をまもらなくてはいけない、(5)父と母を敬うこと、(6)殺してはならない、(7)姦淫してはならない、(8)盗んではならない、(9)偽証してはならない、(10)隣人の財産や妻を欲してはならない、となっています。

十戒はヘブライ人の律法の基礎になり、その思想はキリスト教にも引き継がれるわけですから、現在世界の多くで信奉されている道徳観は元を正せば十戒に行き着くことになります。十戒がなかったら、あるいは十戒のストーリーが聖書という形で現世に伝えられなかったら、今の世界はかなり違ったものになっていたのだろうかと考えると、非常に感慨深いものがあります。

ご来光ツアーに参加した我々は、午前2時にホテルを出発しました。バスでシナイ山のふもとに到着したら、9合目までの道のりを歩きにするかラクダに乗るか決めます。登山といっても、実際にはつづら折りの急坂をひたすら歩いていくちょっときつめのハイキングといった感じで、それほど大変とは思いませんでした。逆に、ラクダに乗った人は、乗り心地の悪さと凍てつく寒さにまいったそうです。

午前4時、9合目から最後の石段に向かいました。約600段ある石段は、誰もが歩かなくてはならない最後の難関です。足をひきずりながらようやく頂上に着くと、すでに何十人も観光客 (巡礼者) が朝日のご来光をいまかいまかと待っていました。

空が白みはじめ、ようやく朝日が上るその瞬間を見た時は、三千数百年という時の流れが一瞬にして凝縮されたような錯覚に陥り、ちょっと泣きそうになりました。一心不乱に聖書物語を読んでいた子供の頃の思いが、ひとつ結実した瞬間でした。

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聖カテリーナ修道院

聖カテリーナ修道院は、シナイ半島南部、シナイ山のふもとにある修道院です。6世紀、ビザンチン帝国の皇帝ユスチニアヌス1世によって建設されたもので、以来何世紀もの間、この修道院はキリスト教の巡礼地となり、現在も修道院の役割を果たしています。

シナイ山ご来光ツアーの帰りはだいたいここで朝食のお弁当を食べ、修道院の見学をします。実は一緒に行った人が「見える」人だったのですが、「そこにいる、あ、あそこにも」と言い出して、なるほど今も修道僧の魂が息づいているんだと感心しました。さすがは由緒正しき修道院。

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ベリーダンス

ベリーダンスは、中東・北アフリカのイスラム文化圏に見られる女性舞踊です。Bellyはお腹の意。魅惑的な薄手の衣装を身にまとい、流れるように腕を動かしながら、円を描くように腰をふって踊ります。観客に近づき、上体をそらしながらブルブルと胸を揺さぶるなど、かなり扇情的でエロチックなダンスです。

カイロでは大手のホテルでも見ることができますが、ナイル川ディナークルーズにも必ずベリーダンスショーがついています。カイロで踊るダンサーの数は多く、その腕前と容姿はピンキリですが、職場のエジプト人スタッフと一緒にディナークルーズに行った時は、人気急上昇中のダンサーを見ることができました。

彼女はアルゼンチン育ちのエジプト人ダンサーで、その容姿と踊りのテクニックはもちろん、出し惜しみしないサービス満点のダンスが最高でした。ベリーダンスはもともとエロチックなものですから、ダンサーによって「私はあまり腰も胸もふりませんよ」なんて上品にやられてしまうと、ちょっと気分がそがれてしまいます。

ダンサーは思いっきり腰を振る、そして観客 (の男性) はヒャーヒャーはやし立てて盛り上がる、それこそが正しいベリーダンスの鑑賞スタイルだと思います。芸術ではなく芸能ですからね。(もちろん芸術的ではありますが)

昔、イスタンブールで見たベリーダンスは、ダンサーがファッション誌のモデルのようなスレンダー体型でした。その時は「きれいだなあ」と思いながら見ていましたが、「本家」のエジプトで見ると、ベリーダンスの真髄は「三段腹」がブルブルふるえるところにあるんだとつくづく思います。

どうやらアラブ人はその肉感に色っぽさを感じるようで、若くて細いダンサーが出てきてもいまいち場が盛り上がりません。何度も見ているうちに自分も、ある程度「脂がのった」ダンサーの方がベリーダンスっぽくて良いかなと思うようになりました。

でも最近は外国人観光客に合わせてか、ダンサーのスリム化が進んでいるような気もします。日本人ダンサー「カスミさん」のベリーダンスもよかった。

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バハレーヤ

カイロから南西約300kmのところに、バハレーヤオアシスがあります。バハレーヤは小さな村ですが、温泉が出るため昔から保養地として知られた場所でした。

そんなひなびた村で、古代エジプト時代のお墓が発見されました。自分が行った時はまだ考古学的な検証は進んでおらず、出土品もたいして整理されていませんでした。

ミイラも何体かありましたが、事務所の倉庫に雑然と置かれていただけです。まだ情報が世界にほとんど発信されていない、見つけたてホヤホヤのミイラを見ることができたのは幸いでした。

あれから何年もたちましたが、今頃バハレーヤのミイラはどこにあるのでしょう。カイロ考古学博物館の、できれば良い場所に飾ってあってほしいなぁ。

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エジプト神話

エジプト神話によれば、世界の始まりは原初の水です。その水面へ浮かびでた卵 (他説ではハスの花とも) から、天地の創造者「ラー」が誕生したと伝えられています。ラーはシュー、ゲブ、テフヌト、ヌトの4人の神を生みだしました。シューとテフヌトは大気、ゲブは大地、ヌトは天空となり、ラーがそのすべてを支配しました。

その後ゲブとヌトは、セトとオシリスの2人の息子、イシスとネフテュスの2人の娘をもうけました。オシリスは妹イシスを妻としてラーの後継者となり、国民に対して法律、農業、宗教などの文明を説きましたが、弟の邪神セトにねたまれて殺害されます。

セトはオシリスの体を細かくさき肉片をまき散らしましたが、イシスは肉片をみつけて土にうめ、その場所はそれぞれ神聖な場として崇拝されました。イシスはアヌビスの助力をえて、夫オシリスの遺体に防腐処置をほどこしましたが、このためアヌビスは防腐処理 (ミイラ作り) をつかさどる神とされました。

イシスの魔力によって復活したオシリスは、死者の国の王となります。のちに、オシリスが一時的によみがえってイシスに生ませた息子のホルスは、セトとたたかって勝利し、世界を支配しました。オシリスは冥府の支配者として地下世界で生きつづけましたが、ホルスを生んだことによって、死と生あわせ持つ神となりました。

エジプトの神々は、人間の体と動物の頭部をもつ姿で表現されました。ラーの頭部はハヤブサであり、ハヤブサは天空をすばやくかけめぐるところから、ラーの聖鳥とされました。ホルスもハヤブサです。

愛と美の女神ハトホルは、雌牛の頭部で象徴されます。死者の神アヌビスはジャッカルの頭部を持ちますが、これはジャッカルが死者の国とされる砂漠を徘徊する動物だからです。ムトはハゲワシ、トートはトキの頭部を持ちます。プタハは人間の姿をしていますが、アピスとよばれる雄牛の姿で描かれることもあります。

写真はパピルスに描かれた「死者の書」(紀元前1310年頃)。死者となった王室書記フネフェルが、ジャッカルの頭をもつアヌビス神に手をひかれ、心臓の重さをはかる儀式に導かれています。トキの頭をもつトート神がそれを記録。右奥では死と生の神オシリスがイシスおよびネフテュスとともに待っており、42項目の審問を受ける「死者の裁判」ののち、死者の魂に価値があれば永遠の生命が与えられます。

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王家の谷

エジプト観光のハイライト、ルクソール。無数のレリーフに彩られた巨大な神殿にも圧倒されますが、なんと言っても最大の目玉は王家の谷です。王家の谷はその名の通り古代王朝の王たちが自らの墓をつくった秘密の谷です。

近世になってその存在を世界が知るところとなった時には、すでにほとんどの墓は盗掘されていて、それ故1922年のツタンカーメン王墓の発見は世界に大きな驚きをもたらしました。

王家の谷にはエジプト史に名を残すそうそうたる面々の墓があり、副葬されたであろう財宝はすでに失われているものの、内部の装飾には目を見張るものがあります。あらゆる壁という壁にレリーフが施され、エジプト神話や神に導かれる王の物語がこれでもかというほど描かれています。

王家の谷の中でも、ラムセス6世 (だったかな?) の墓の天井に数メートルの大きさで描かれた天空の神ヌトは、今でも目の奥に焼き付いています。

王妃の谷は、王家の谷とは少し離れた場所にあります。ラムセス2世の王妃であるネフェルタリの墓の内部には、王妃や神話の神たちが大胆に描かれています。修復されたとはいえもともとの色を再現したものですから、これらの色鮮やかな絵を遙か三千数百年前に描いた古代エジプト人のイマジネーションの豊かさ、芸術性の高さ、技術的な緻密さに心底驚かされました。

ネフェルタリの墓は、エジプトに残る古代壁画のうちでもっとも美しいものと言われるだけあって、自分がこれまでに見たどんな美術品よりも感銘を受けました。

墓から1歩地上に出れば、そこには荒涼とした灼熱の砂漠 (土漠) が広がるばかりです。王家の谷、王妃の谷には、地下数メートルに広大な宇宙が広がっているのでした。

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