A Dog's World 

~海外で暮らす・日々の記録・旅の記憶~   

イスラム金融

イスラム銀行(1)コーランの教え

雌牛章: 275~280 (※抜粋)
利息 [リバー] をむさぼる者は、悪魔に取り憑かれて倒れた者がするような起き方しかできないであろう。それは彼らが「商売は利息を取るようなものだ」と言うからである。しかしアッラーは、商売を許し、利息 (高利) を禁じておられる。

あなたがた信仰する者よ、(真の) 信者ならばアッラーを畏れ、利息の残額を帳消しにしなさい。また債務者がもし窮地にあるならば、その目処のつくまで待て。もしあなたがたが分かっているならば、(帳消しにして) 喜捨することがあなたがたのために最も良い。

* * *

と、このように、コーランには記されています。商売は許し (=労働の奨励)、利息を禁じる (=利息そのものと不労所得の禁止)。コーランは人が考えて記したものではなくあくまで神の言葉ですから、ここでどうこう言うつもりはありませんが、預言者たち初期ムスリムグループは、当時まだ地元の有力商人グループと敵対関係にあったでしょうから、この啓示により、借金に苦しむ一般大衆の関心を大いに惹きつけることができたのではないでしょうか。商人の中にも、ムスリムとして元金以外の利子を帳消しにして、その名声を高めた人は多いと思います。

いずれにしても、1400年以上前のアラビア半島の一角で始まった利息の禁止が、21世紀の現代において、近代資本主義に対するアンチテーゼとしてあらためて注目されているわけです。サウジアラビアを初めとする湾岸産油国の莫大なオイルマネーという揺るぎない資本があるからこそ、無利子銀行が成り立つのだ、などとつい考えがちですが、実際には、イスラム銀行 (イスラム金融) の長所は資本の大小にあるのではなく、システムそのものにあると言われます。また、利潤の追求はむしろ奨励されています。

イスラム銀行(2)システム

イスラム銀行 (イスラム金融) は、「融資と利子を禁止」し、「投資と利潤 (儲け) を追求」するシステムを採用しています。そのため、銀行への預金者は、単にお金を預けるのではなく、銀行の資金運用計画の一部資金を負担する投資者として、傍観者ではなく当事者としての立場を求められます (共同事業契約/ムダーラバ)。

資金運用が成功すれば利潤も大きい分、失敗すれば元金すら返ってこない可能性もあるわけです。利潤 (配当) は当事者間で割合が定められるだけで、最終的に投資額の何%が返ってくるかは、当初は明記されません (現代においては元金保証をするケースや、予測利率を事前に定めるケースもあるそうです)。

また、銀行も資金のみを第三者に融資して利子を稼ぐことは禁止されていますから、例えば、タクシー会社に対して車の購入資金を融資するのではなく、銀行が車を買ってからそれをリースするという形を取ります (預金者も含めて共同事業契約を結ぶ)。

タクシー会社は一生懸命商売をして、利益のなかから一定の割合の金額を銀行に還元し続け、さらに預金者にも利益が配当されることで、イスラム金融システムが成り立ちます。銀行にとっても、預金者にとっても、投資先の審査は極めて重要な意味を持ちます。

ちなみに、イスラムの教義に反する業種、養豚業とかアルコール製造業は、当然投資先としては除外されます。たぶんパチンコ屋もダメでしょう (コーランで賭け事は禁止されています)。不動産投資は手堅い物件として人気があるようですが、土地転がしのようなマネーゲームに陥るものは禁止。先物取引も実体がないのでダメ。もちろん貸金業なんて以ての外。

イスラム金融の特徴は、銀行、預金者 (投資者)、事業実施者 (投資先) の三者がそれぞれ共同事業者としてリスクを負うところです。そうしないと預金者が不労所得を得ることになってしまうので仕方ないのかもしれませんが、個人的には、銀行に預けて元本が保証されないなんて、と少々びびってしまいます。いずれにしても、銀行が勝手にバンバン対外融資をして結局貸し倒れになってしまい、そのツケが知らぬ間に預金者に跳ね返ってくる、ということがないので、その点は明快です。

さて、1970年代以降、原油価格の歴史的高騰とイスラム回帰という時流を背景に、イスラム金融制度が名実ともに実践され始めたわけですが、当初は無利子銀行という特異な目で見られていたイスラム銀行も、現在では国際通貨基金 (IMF) などの国際金融機関も認める金融システムとなり、イスラム圏以外でも「無視できない存在」から、もはや「積極的に活用していくもの」となりました。果たして21世紀はイスラムの世紀になるのでしょうか。

下図は自分なりに理解したつもりで作ったものです、合っているかなあ・・・。金融商品には、損益分担型 (ムダーラバ他)、商品取引型 (ムラーバハ他)、債権 (スクーク) などがあります。

イスラム銀行(3)所有と労働

中東、特に湾岸産油国で働いたことがある人なら、「アラブ人=勤勉」というイメージを持っている人はほとんどいないでしょう。個人的にも、むしろアラブ人は「労働=悪」と考える人が多いのではないかと感じる時があります。

しかし、コーランを読み解けば、そこには根本的に勤労の精神が記されているのだそうです。イラクのシーア派ウラマー (イスラム学者、宗教指導者)、ムハンマド・バーキル・アッサドル (以下、サドル師) の思想から、それを拾い出してみます。

サドル師は1935年のイラクに生まれ、「イスラム経済論」や「イスラム哲学」など後世に多大な影響を与えた著作を残しました。現代イラクにおけるイスラム思想革新の中心人物で、現存するシーア派系イスラム政治組織の思想的基礎をつくった天才です。

1950~1960年代にシーア派ウラマー界の共産主義・世俗主義に対する危機感を反映して、資本主義や社会主義を超越した新たなイスラム社会の再編を主張し、法学者による政府・立法機関への指導とその制度化の必要性を訴えました。

1968年のバース党政権成立でイスラム運動とサドル師に対する弾圧が強まりますが、イランで反国王運動が起こるとこれを積極的に支持し、その結果、1980年、時の為政者によって処刑され、45才という若さでこの世を去りました。

サドル師のイスラム経済論は、「神の所有」と「労働は信仰」という理念に基づいています。そしてイスラム銀行 (イスラム金融) は、イスラム経済論全体の中での一側面が具現化したものです。以下、師の論点です。

神の所有
資本主義においては、自由経済の原理に基づき、他者に許される所有の自由と衝突しない限り、あらゆる個人に天然資源と富の所有が認められている。マルクス主義は、労働者が労働の対象とした物資に対して所有権を持つことを、彼の労働が物資の中に生産した交換価値に基づいて正当化している。

しかしイスラムにおいては、すべてを所有するのは神であり、人間は絶対的な所有権を持たない。富とはアッラーの富であり、アッラーこそは真の所有者である。人間は地上における彼の代理人であり、大地とそこにある資源、富の管理者にすぎない。

人間は「所有」によって、神の代理として「責任ある管理」をする役目を担うのであり、それらを退蔵し経済的に活かさないのであれば、所有は認められない。

労働は信仰
イスラムは思想的に労働と生産を奨励しており、それらに高い価値を認め、人間的名誉、信仰の質、はては知性の高さとまで結びつけている。このような尺度・評価で計られる労働は、人間がそれによって報われる信仰箇条となった。

自らの糧を求めて働く労働者は、働きのない信者よりも神のもとでは上位に立ち、怠惰に身をまかせ労働を侮る者は、人間性を欠く者と見なされ蔑視の対象となる。

労働は信仰の体現であり、結果として得られる富もまた、それ自体が目的ではあり得ず、信仰の手段である。そして、人間を取り囲む天然の資源については、労働こそが私的所有その他の権利の基礎なのである。

* * *

あれ?これを読むと、アラブ人は相当勤勉でないと納得できませんね。だったら、イスラムにおける「労働」とは一体何でしょう。まず、日本人にとっての労働は、ほとんど「肉体労働」と同義語ではないでしょうか。つまりは「生産」。何にしても、手足を動かし額に汗して働く、というのが基本です。

そのため、この尺度においてはどうしても「アラブ人は働かない」という風に見えてしまいます。日本人にとっては「頭脳労働」もありはありですが、どちらかというとステータスが低いような気がします。江戸時代に「士農工商」と商人が一番下位に置かれた歴史もあります。侍は別にして、農民と技術者 (工) は生産者であり、商人よりも格上なのです。

それに比べて、砂漠気候で耕作には全く向かない荒れ地ばかりを持ち、天然資源も発見されていなかったアラビア半島では、長らく、都市間を結ぶ交易事業が、地域社会の経済発展の基礎となりました。預言者ムハンマドも、ラクダを駆り交易に従事していたそうです。中世、シルクロードを通じて東西世界の物流や異文化交流を担ったアラブ商人としての誇りは、脈々と現代にも受け継がれているように見えます。

サドル師も、当時の地域の太守による交換書簡を引用し、「敢えて行くこともできない遠隔地や人里離れた場所から、陸路、海路、平地、山地を通って商品を輸入する商人」を、技術者 (生産者) と同じく有用の徒であると論じています。「安く買い叩いて、他で高く売る」などと言うとイメージが悪いですが、アラブ人にとって流通業は、歴史ある尊敬すべき職種なのです。

資本主義の最大の問題点は、物質文明をもてはやすあまり、所有する富の量が当人の人格や社会的地位を計る尺度となってしまい、富を増やすことそのものが目的となってしまったことではないでしょうか。

イスラム経済においては、まず信仰としての労働があり、富は後からついてくるものです。さらに、得た富は絶えず社会に還元しなければなりません。それは時に喜捨 (ザカート) という形をとり、持たざる者たちへの施しという行為に現れます。「金は天下の回りもの」。これなどは、イスラム経済の核心をついた言葉です。日本においても先人は、ちゃんと経済の本質を見抜いていたのです。

もうひとつ、「アラブ人は勤勉か」という疑問に関しては、肉体労働ではなく、株式投資や不動産投資といった、リスク覚悟で頭を使って儲けることに関しては、日本人よりもよほどマメで、嗅覚も鋭いということは確かだと思います。なにしろ、イスラム銀行に預金していることそのものが、すでにビジネス (投資) なんですから。

※数年前に書いたものを編集再録しました。