A Dog's World 

~海外で暮らす・日々の記録・旅の記憶~   

アラビア語から考えるアラブ文化

アラブのIBM

初めての中東勤務を目前に控えていた頃、アラブのIBMには要注意とよく先輩たちから聞かされました。「I=インシャーアッラー」「B=ボクラ」「M=マアレーシュ」の3つの言葉は、外国人がアラブ諸国で生活する際、必ずストレスを感じるものだと言われています。

インシャーアッラー
「インシャーアッラー」は直訳すれば「もし神が望むなら」という意味で、約束などをする際、かならず最後に付け加えられるひと言です。イスラムにおいては、約束とは一種の未来予測と考えられており、それはすでに神の領分であり、人間が軽々しく口にするものではないとされています。

例えば、明日会う約束を取り付けたとしても、それまでの間、お互いの身に何が起こるかわかりません。もしかしたらどちらかが入院するかもしれないし、場所に向かう途中で車が故障するかもしれません。確かに、言われてみればその通りなのですが、インシャーアッラーと言われると、それは約束のキャンセルや遅刻を公然と認めているような気がしてなりません。

アラブ人に言わせれば、実はこれはかなりポジティブな意味で、むしろ「神もそう望むだろう」くらいの意味があると強調する人も多いのですが、実際には遅刻などしょっちゅうですし、やけにインシャーアッラーを強く言っていたなぁと思ったら、案の定約束をすっぽかされた、などということも日常茶飯事でした。

たまにこちらが嫌みのつもりでインシャーアッラーと言うと、「お前はムスリムじゃないからその言葉は使うな」と怒られたりしました。タクシーに乗って行き先を告げてもインシャーアッラー。「途中で事故でも起こすの?」と心の中で悪態をつくハメになります。コピーをとってきてと頼んでも「インシャーアッラー」 うーん、見事といえば見事ですが・・・。

サウジアラビアでは、車の保険をかけない人がたくさんいました。決してお金をケチっているのではなく、保険をかけるということは、将来事故を起こすことを予測していることになるので、イスラムの教義に合わない、というのが理由でした。徹底していますね。

ボクラ
「ボクラ」は「明日」という意味です。フスハー (正則アラビア語) で言うと明日は「ガドゥ」ですが、普通はみんなボクラを使っています。

アラブ諸国では、いろいろと手続きに時間がかかります。滞在ビザの取得、郵便荷物の引き取り、IDカード作成、銀行口座開設等々、とにかくこちらが早く済ませたいと思っても、なかなかすんなりと事が運びません。

そのため関係窓口に何度も通うことになりますが、そこでたいてい言われるのがこの言葉です。しかし係官も、明日という単語を特別な根拠があって言っているわけではありません。

つまり、「少なくとも今日は終わらない、いつになるかわからないけれど、明日も来てみれば?」くらいの意味で使っているのかなと、途中で気づきました。もっと良くいえば、「明日、希望を持ってやって来るべし」ということ。

もし1週間かかるのであれば最初から「7日後に来い」と言ってくれれば良いのに、「明日」と言われたらこちらも7日間毎日通わなくてはなりません。本当に迷惑な言葉です。変に希望を持ってしまうこちらも悪いのですが。

だいたいにおいて、「ボクラ、インシャーアッラー」と合わせ技で言われますが、これを聞くと心底ガックリでした。

(※Bは「バクシーシ」だと言う人もいます。「チップ」転じて単に金をせびること、あるいは賄賂の意、特にエジプト)

マアレーシュ
「マアレーシュ」は「Maa Alayhi Shay (何事もない)」から来ているようですが、意味としては「大したことではない」という感じです。

使われ方としては、例えば道でドンと人にぶつかられたとき、ぶつかった方がこれを言います。つまり「今あんたにぶつかったけど大したことじゃないから許してくれるよね」と言っているのです。遅刻してきた人がこれを言ったら「遅れちゃったけど大したことじゃないから気にしないよね」ということです。

アラビア語には「アースィフ (ゴメンね)」というちゃんとした謝罪の言葉があるのですが、日常、この言葉を聞くことはほとんどありません。遅刻の場合は約束の段階でインシャーアッラーと言っているでしょうから、そもそも詫びる必要はありません。

一度、エジプトで運転手が人混みの中を徐行運転しているとき (カイロは人口過密と交通渋滞でそんな所ばかりでした)、少し強めにドンと人にぶつかってしまいました。その人は思わずよろめいてその場に転んでしまいましたが、あわててその人に駆け寄った運転手はひと言「マアレーシュ」。

それで済んでしまうんですから、エジプト人は心が広いのでしょう。それでも相手の怒りが収まらないときは「マアレーシュって言っているだろ!(ボオッラック・マアレーシュ:エジプト方言」などという少々荒っぽい言葉が投げつけられたりもします (うちの運転手でしたが)。

これで社会がうまいこと回っているのですから (ホント?)、外国人が口をはさむことではありませんね。

以上、悪名高いアラブのIBMでしたが、個人的には3つの言葉はどれもアラブの文化を象徴しているように思えて、これを言われるとどちらかといえばニヤニヤしながらおもしろ半分で聞いていました。

スタンナ(ちょっと待って)のポーズ

「待て」はアラビア語で「スタンナ」ですが、その時必ず右手を前に出し、つぼみのように手の指をすぼめ、相手に意思表示します。「スタンナ=待って」「スタンナ・シュワイ=ちょっと待って」。指は上向き。5本指で何かをつまむ感じです。これが何かと便利で、毎日の生活の中でとにかく頻繁に使っていました。

習慣とは恐ろしいもので、日本に帰って会社にいるときも、「ちょっと待って」と言うのと同時に、この手が思わず出てしまいました。知っている人はニヤリとしてくれましたが、知らない人は「なにそれ?」とか思っていたことでしょう。

アラブの挨拶

イスラム教の聖典コーランには「挨拶を受けたときにはもっと丁寧な挨拶を返せ」と記されています。そのため彼らは挨拶の語句をそのまま相手に返すようなことはしません。

「アッサラーム・アライクム (平安があなたの上にあれ)」に対しては「ワ・アライクムッサラーム (そしてあなたの上にも平安あれ)」と返すのが一般的です。

また「おはよう」には「サバーハルハイル(良い朝)」「サバーハンヌール(光の朝)」「サバーハルフル("フル"という花の朝)」「サバーハルワルド(薔薇の朝)」など、いろいろな言い方があります。

ちなみに、ヘブライ語でこんにちはは「シャローム (平和)」です。イスラム教徒とユダヤ教徒、争いに明け暮れる人たち双方の挨拶が「平和」というのは、何かの皮肉でしょうか。
他には「マルハバ (こんにちは)」「マルハブテーン (返答/マルハバ×2の意)」、「アハラン・ワ・サハラン (ようこそ)」「アハラン・ビーク (返答)」なども日常的に使われます。

もちろん挨拶の後には「カイファ・ハーラック (元気?)」「カイファ・サッハタック (体の具合はどう?)」など決まり文句がひと通り続いていきます。

挨拶とともに相手の健康状態や家族の近況をたずねるのは、実はエチオピアも同じで、セム語圏というのは挨拶にかなり時間をかける地域なのかもしれません。

そういえば英語だって「Hello, How are you?」くらいはセットで言いますから、これに比べると日本語はずいぶんあっさりしています。「こんにちは、元気ですか」なんて言うとやはりちょっと不自然ですね。猪木かと。

一度、サウジアラビア人と仕事の進め方をめぐり口論になったことがあります。いくつもある教室に机とイスを運び入れる必要があって、次の授業の予定を考えたらすぐにでも作業を始めなければなりませんでした。

若いサウジ人教員たちは「本部に外国人ワーカー増援部隊を送ってもらうようレターを書くべきだ」と主張し、我々日本人は「今からサウジ人と日本人で一緒にやればすむことだ」と返しました。

結局、3日かけて現場ですべての作業を終えたのですが、箸より重いものを持ったことがない (?) サウジ人たちはよほど腹に据えかねたのか、1人が代表して自分のオフィスに苦情を言ってきました。

彼の文句はそのうちどんどん飛び火して、しまいには「あなたはアラビア語で “アッサラーム・アライクム” と言うけれど、本当はムスリム (イスラム教徒) ではないあなたが口にしてはいけないんだ」と感情むき出しでたたみかけてきました。

「力仕事は外国人ワーカーがやること」というサウジ人の主張は幼稚すぎて怒る気にもなれませんでしたが、この挨拶に関するひと言には「へぇ、そういう考え方もあるんだ」とちょっと驚きました。

何年かしてヨルダンに赴任しましたが、ヨルダンでは「アッサラーム・アライクム」はちょっとフォーマルな感じがするのか、普段はヨルダン人同士でも「マルハバ」と言っているのをよく聞きました。

アラビア語の習字

アラビア語は漢字やひらがなと並んで、習字のできる文字としてその美しさを誇っています。昔から多くの書家が生まれ、下のライオンやコウノトリなどが書かれてきました。主にコーランの語句が使用されます。

ライオンの造形は第4代カリフのアリー (在位656〜661) に結びつけて用いられました。コウノトリは「ビスミッラーヒ・アッラフマーニ・アッラヒーム (慈悲深く慈愛あまねくアッラーの名において)」という文章です。

自分も学生時代に少しアラビア語の習字の練習をしました。習字用のペンは、細い木 (竹の割り箸) の先を平たく削って使いました。英語用のレタリングペン (万年筆の先が平たくなっているもの) でも書けないことはありませんが、アラビア語の場合、そもそも右から書くのと、特に習字の時はペン先を大きく前後2方向に大きく動かすので、やはり木 (竹) の方が書きやすいです。

今も文房具屋で、(先の平たい) 蛍光ペンを試し書きする時、ついアラビア語を書いてしまう自分です。

ヨルダン人の名前

ヨルダン人に限らず、アラブ人イスラム教徒の男性の名前は宗教に関連したものがほとんどです。ムハンマド、フセイン、アリーなど預言者やカリフの名前は特に人気があります。

また、アブドゥ+アッラーでアブドゥッラー (神の僕)、アッラーの部分を99あるとされる神の形容詞に代えてアブドゥルアズィーズ (親愛なる神の僕)、アブドゥルカリーム (寛大なる神の僕)、アブドゥッラフマーン (慈悲深き神の僕) などもポピュラーです。

ハミダ (賞賛する) という動詞 (3語根:H-M-D) から派生して、ムハンマド、アハマド、ハマド、ハマーダ、ハミード、マフムード、モヒーミードなど似たような名前ができます。

アラブでは同じ名前が多く、我々が聞くと「どのムハンマド?」といつも戸惑ってしまいます。これまでも「石を投げればムハンマドにあたる」ということはよく聞いていました。

確かに多いとは感じていましたが、実際に統計をとったことはなく、まぁ半分は冗談かと思っていました。ところが、ヨルダンの新聞にある職業訓練校の合格者2,732人の氏名が発表されたので、これ幸いとムハンマドの数を数えてみました。

結果、驚くなかれ、そこには334人のムハンマドがいたのでした。その割合は実に12.2%。やはりムハンマドという名前は永遠の定番なのです。

ムハンマドに次いで、イブラーヒーム、アハマド、マフムード、フセイン、ハーリド、アリー、オマルといった名前が目立ちました。

ヨルダン人女性の名前にはどんなものがあるか、これも新聞からピックアップしてみました。大学検定試験合格者なので、全員18〜20才です。

まずリストをぱっと見て目立ったのは「ヌール」でした。光という意味を持つこの名前は、今でも国民に人気のある、前国王の4人目の奥さんの名前でもあります。

それから順不同ですが、ラニア、ハラ、ムナ、ラナ、サーラ、ラシャ、アラ、ヘバ、ディマ、ディナ、ハダ、ラバ、メースなど、短めの名前が目立ちました。

あとは定番のファーティマ (預言者ムハンマドの夫人として高名)、ライラ (夜)、サバーハ (朝)、ヤスミン (ジャスミン)、ゼーナ (良い)、アミーラ (プリンセス)、イマーン (信仰)、サウサン (ユリ) なども、たくさんいました。

ヨルダン人女性の顔立ちはスペインやイタリアなどちょっと濃い感じのヨーロッパ人とあまり見分けがつきませんから、もう少しヨーロッパ風の名前があるかと思いましたが、そういうものはありませんでした。

やはり日本人でも "佐藤スーザン"、"田中マーガレット" などと聞くと少し気恥ずかしさを覚えますから、ヨルダン人もきっとそうなのでしょう。また、今後は、現国王のお妃の名前であるラニアがヌールを抜くかもしれません。

また、男性は子供が産まれるとアボ+子供の名前で「○○の親父」という呼び方をされます。アボワリードなら「ワリードの親父」となりとても親近感のある呼び方です。

女性ならウンム+子供の名前で「○○のお母さん」。でも、女性はこう呼ばれると「歳をとった」と感じる人もいるそうなので、親しくないかぎり、本名で呼んだ方が良さそうです。

アザーン

イスラム教徒は1日5回、メッカの方向に向かって礼拝をします。アザーンとは、この礼拝の呼びかけのことです。

アラビア語
アッラーフ・アクバルッラーフ・アクバル ×2
アシュハド・アン・ラー・イラーハ・イッラッラー ×2
アシュハド・アンナ・ムハンマダン・ラスールッラー ×2
ハイヤ・アラッサラー ×2
ハイヤ・アラル・ファラー ×2
アッラーフ・アクバルッラーフ・アクバル ×1
ラー・イラーハ・イッラッラー ×1

和訳
アッラーは最も偉大なり
我は証言する、アッラーの他に神は無し
我は証言する、ムハンマドはアッラーの預言者なり
さあ、礼拝に来られよ
さあ、喜びの道に来られよ
アッラーは最も偉大なり
アッラーの他に神は無し

これが夜明け、正午、午後、日没、夜の5回、リヤドでもカイロでもアンマンでも、家の近くのモスクから毎日大音量で流れてきたわけです。

上手いアザーンはまだ良いとして、ものすごい適当な時もあり、その時はただの迷惑な騒音にしか聞こえませんでした。モスクからはアザーンだけでなくお説教も聞こえてきたりして、特にラマダン中は毎日だんだん長くなっていくものですから、うるさいったらありませんでした。

中東でのアパート選びは、モスクの位置も考慮に入れつつ慎重にしないとです。とほほ。

詩的な言語

他の言語同様、アラビア語にもたくさんの諺があります。中には韻を踏んだ語呂の良いものがあり、声に出して読むと思わずニヤリとしてしまいます。例えば

「私はジャマル (ラクダ) だと言い、君はジャバル (山) だと言う」
「彼女のハルワ (甘い料理) を食べるなら、そのバルワ (まずさ) を我慢せよ」
「すべてのヒッラ (村) にはイッラ (欠点) がある」

もともとアラビア語は詩的な言語と言われ、特にコーランはきちんと韻を踏んでおり、読み上げてこそその良さがわかると言われています。

コーランは正確に言うと「クルアーン (Qur'aan)」で、動詞の「Qa-Ra-A (読む)」から派生した単語です。その名のとおりアラビア語のままで読んでこそ価値があると言われ、そのため聖書のようには各国語に翻訳されていません。

もちろん、日本も含めてコーランを翻訳した本がいろいろな国にありますが、それはどちらかと言えば文学的な目的で出版されたものであり、宗教書としての取り扱いではありません。

つまり、アラビア語以外の言語でコーランを暗記したとしても、あまり意味はないということです。インドネシアやマレーシアなどアラビア語圏以外でもコーランの暗記大会が開かれますが、それはすなわちアラビア語を暗記するということに他なりません。

日本ムスリム協会では、日本人向けコーランを配布していますが、やはりアラビア語が基本で、横に意味を理解するための和訳が併記されています。

ヤー スィーン
ワルクルアーニル ハキーム
インナカ ラミナル ムルサリーン
アラー スィラーテン ムスタキーム
タンズィーラル アズィーズィ アッラヒーム

これは「ヤースィーン章」の出だしですが、こんな感じできれいに韻を踏んでいます (そうでもない?)。コーラン読誦のCDはたくさん市販されていて、どれも天に響くような良い声です。

アラブと詩歌

近頃サウジアラビアで行われている詩歌コンテストが、グランドムフティ (イスラム最高指導者) アブドゥルアジズ師の怒りをかっています。師は、金曜礼拝の席で次のように語っています。

「これらのコンテストはジャーヒリーヤ時代 (イスラム勃興以前の無明時代) の所業と同じである。人々の心の奥底に隠れた憎悪を感じる。これは子どもたちの心に、大人に対する不信感を植え付けるだろうし、あるいは部族間の不和を引き起こしかねない。つまり、こんなコンテストはやらない方がいいのだ。衛星放送で流すなど言語道断である」

アラビア半島の国々ではこの3年間で衛星放送局が乱立していますが (メジャーなもので15局)、こういった詩歌コンテストはそんな放送局が主催しています。応募されるほとんどの詩は、各部族のプライドや栄光を自慢げに謳ったもの。優勝賞金は少ない大会でも100万リヤル (2400万円) だそうです。

その昔、アラビア半島の部族同士の戦いは、部族代表の詩人が対峙して相手をこき下ろす、あるいは自分の部族の素晴らしさを歌いあげる、その詩の内容によって勝敗が結したと言います。真剣勝負とは言っても、今から考えれば素晴らしく牧歌的ですね。

そして、極めて洗練された文化だったと思います。血を流すことを避け、相手が「まいった」と言えば最後はエールを送り互いに讃え合う。アラブにとって詩歌は文化であり芸術であり、武器でもあったわけです。

イスラム指導者はジャーヒリーヤ時代がお嫌いらしいですが、そういう文化の継承 (復活) という意味ではこの詩歌コンテストも決して悪いことではないと思います。ただ、アラビア半島の人たちは今でも国家より部族 (ファミリー) への帰属意識が強いと言われますから、部族間の融和と完全な国家統合を図りたいお上とは、やはり相容れないんでしょうか。

恋愛詩を解禁すればまた別の展開で盛り上がると思いますけど、さすがにそれは無理でしょうね。アラブの詩は露骨だし。千夜一夜物語なんてその際たるもの (⇒コチラ)。

間違い電話

間違い電話は日常よくあることです。もし日本であれば 「もしもし○○さんですか」 「いいえ違います」 「これは失礼しました」 という一連の会話が滞りなく交わされるでしょう。

しかし中東では、そもそも、もしもしの前に 「アンタ・ミーン (あなたは誰?)」 から始まります。さらに間違い電話の時も、間違ったことをわびる前に、なぜお前が出たのかと言わんばかりにきつい口調になることが多いのはなぜでしょう。こちらが間違い電話だと説明してもなかなか納得せず、最後はたいていガチャッと切られて終わり。

ある日、ヨルダンで仕事の帰り、携帯電話が鳴りました。「アロー (もしもし)」 と言うと、相手はだるそうに 「ジハーズ (機械)」 とだけ言いました (電話交換機のこと?、会社の機械課の誰か?)。

こちらはアロー、アローと言うしかありません。すると向こうも「おや?」と思ったのか、今度は 「フセイン (人の名)」 と一言。石を投げればフセインにあたるというくらい、ありふれた名前です。

「アナー・ヤーバーニー (私は日本人です)、ニムラ・ガラット (番号違いです)」 と言うと、しばらく何かを考え込んでいる様子でした。

そこで電話を切りましたが、その後さらに2回もかかってきました。しかし相手の言うことに何の進歩もなく 「エーシュ・ビッダク (何がしたいのか)」 とたずねてもはっきりしません。

いつも思いますが、これは明らかにコミュニケーション・スキルの教育不足です。「私は○○で、こういう用件で○○さんをお願いします」 などと簡単に伝えるだけで、どれほど社会が円滑にうごくことでしょう。

良く言えばアラブは相手の気持ちを察する文化ですが、実際のところ、不便で仕方ありません。

実は一度だけ、自分が当事者になったことがあります。サウジアラビアからエジプトの知人に電話をかけたとき、たぶん混線したのでしょう、まったく知らないご婦人が電話に出ました。

その時あせって思わず口をついて出た言葉が 「エンティ・ミーン (あなた誰?)」 でした。・・・お恥ずかしい。もちろん、ひと言あやまってから切りましたが。

神にかけて

日本で「神にかけて」「天地神明に誓って」などという表現をすると、逆に胡散臭いと思われたりしがちですが、ヨルダン人は日常会話のなかで「ワッラーヒ」や「オクスィム・ビッラー」という言葉をよく使っています。

これは「神にかけて」という意味で、何かを陳述する場合に用いられます。ただ、この誓いは神に対するもので、誓いを破っても人間がそれを罰することはできないと言われています。これを罰することができるのは神のみですが、それを回避する方法もイスラム法で定められています。

「その贖罪には汝らの家人を養う通常の食事で10名の貧者を養え、またはこれに衣類を支給し、あるいは奴隷を1名解放せよ。これらのことができぬ者は3日間の断食をせよ (コーラン5章89節)」というのが法規定の根拠だそうです。

イスラム教徒にとってはこれこそ「神の寛大さ」なのです。あまりに寛大すぎる気がしないでもありませんが。

おかげさまで

おかげさまで、とは一体誰のおかげでしょう。国語辞典には神仏や人の助けと書いてありますが、自分の場合、普段そこまで意識していないというのが正直なところです。その点、アラビア語ははっきりしています。

「ケーファ・ハーラック (How are you)」に対しては「アルハムド・リッラー (アッラーに讃えあれ=おかげさまで)」という決まり文句があります。

また「ケーファ・ハーラック」は会話の途中に何度言っても良いようで、相手もそれに対して下記のような様々な決まり文句を返します。それぞれ意味はありますが、基本的にどれも「Welcome」という気持ちを表すものです。

アラブ人の会話を聞いていると、たびたびこれらのフレーズが繰り返され、それは大変小気味よく聞こえるものです。

アッラー・ユアーフィーク (アッラーはあなたに健康をさずける)
アッラー・ユハイイーク (アッラーはあなたを長生きさせる)
ハイヤーカッラー (アッラーはあなたを長生きさせた)
アッラー・ユサッリマック (アッラーはあなたを保護する)
サラーマトゥッラー (アッラーの保護)
アッラー・ユバーリク・フィーク (アッラーはあなたを祝福する)
アハラン・ワ・サハラン (ようこそ)
マルハバ (ようこそ)