A Dog's World 

~海外で暮らす・日々の記録・旅の記憶~   

ちゃんぽんを食べて高麗人を学ぶ

うちのアパートからほど近いミラバッドバザール周辺には、ハングルの看板を掲げたレストランやスーパーマーケットがたくさんあります。

ウズベキスタンには朝鮮系住民が多数住んでいることは以前から聞いていましたが、バザールにもキムチっぽい漬物コーナーがあるなど、文化的にも根付いている様子が見て取れます。

ククス (ククシ) という朝鮮冷麺もウズベキスタンの夏の料理としてすっかり定着しており、この夏は自分も何度もいただきました (⇒コチラ)。

さて、ウズベキスタン料理が続いていた今日この頃、たまにはアジア系の料理が食べたいな、でも中華のお腹じゃないなと、そう考えて行った先が、「マヤ・セミヤ (моя семья=私の家族/ロシア語)」。(⇒マップ)

最初に表通りの入り口を開けようとしたら鍵がかかっていて、内部も暗いし、一旦あきらめて出直そうかと思ったのですが、なんだか裏手に人の気配があったので回り込んでみると、ちゃんとやっていました。裏口から通され2階へ。

メニューはロシア語ですが、写真もあるので注文は問題ないでしょう。おなじみの料理がひととおりそろっています。

この日は久しぶりにちゃんぽんをいただきました。具材はあまり期待していなかったのですが、思っていた以上にエビ・イカ・ムール貝が入っていました。

これまで淡水魚のフライは食べたことがありましたが、ちゃんとした海のシーフードミックスは、ウズベキスタンに来て初めてです。

無料の前菜も4皿来たし、これで6万スム/720円 (+税金15%) は、外国料理 (しかも魚介系) としてはコスパがいいなと思いました。スープは激辛ではありませんが、それなりに大辛。

スープの甘さ (砂糖) が少しだけ気になりましたが (辛いのに甘い・・・)、麺よしスープ良し具材良し、なかなか満足度の高い一品でした。次に行ったらチャジャンミョンを食べよう。

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さてさて、本題はここから。自分は不勉強で今回初めて知りましたが、ロシアや中央アジアに住む朝鮮系住民を、「高麗人」と言います。

高麗人は、18世紀末から19世紀初めにかけ、朝鮮半島からロシア極東沿海州に移住し、ソ連時代にスターリンによって中央アジアへ強制移住させられた人々です。

現在この地域に約50万人の高麗人が住んでおり、ウズベキスタンが198,000人で第1位、以下、ロシア125,000人、カザフスタン105,000人などと続いていきます (Wikipediaより)。

ウズベキスタンでは高麗人の多くが農村地域に居住し、首都タシケントには6万人ほどだそう (2017年)。

タシケントにはソウル公園 (Toshkentdagi Seul milliy bog'i) があり、強制移住から80年の節目である2017年には記念碑も建てられました。

Wikipediaに加え、あれこれ研究論文など探してざっくり読みしましたが、その歴史はなかなかに理不尽かつ過酷。ざっとまとめてみると:

・19世紀初頭、朝鮮人移民 (第1期761家族5310人) が沿海州 (清の領土) に移住。
・1860年、北京条約により沿海州はロシアに割譲。
・1904年、日露戦争勃発 (日本の勝利)。
・1907年、ロシアで朝鮮人排斥法制定、朝鮮人農場主の土地没収。
・1910年、日本が朝鮮半島を併合。
・1917年、ロシア革命勃発、十月革命を経てロシア内戦へ。
・1922年、ソヴィエト連邦樹立。
・1923年、ソ連国内の高麗人人口が10万人に達し、翌年から人口抑制策が。
・1925年、日ソ基本条約で両国の国交が回復、しかし互いに仮想敵国のまま。
・1931年、満州事変、翌年に満州国建国。
・1930年代、スターリンによる大粛清 (大規模な政治的弾圧)。
・1937年、高麗人は対日協力の疑いで中央アジアに集団追放 (強制移住)。

・移住先は農耕に不向きな乾燥地帯で (居住移転の自由はなし)、ソ連政府の資金援助もなく、1938年までに少なくとも4万人が死亡。
・高麗人コルホーズ (集団農場) は灌漑施設を設置するなど工夫を重ね、農業生産において優れた成果を上げたため、これにより「社会主義労働英雄」の称号を206人が得た。
・この驚くべき成功は「農業生産力拡充を狙ったソ連政府の選択」「同族の結束」「ソ連の迫害から生き延びるため」といった研究があるが、高麗人の「ソヴィエト人民になりたい (市民権がほしい)」という積極的な指向が根本にあったと考えられる。
・スターリンの死後、1956年7月に特別移住民の居住制限が解除され、高麗人に移転の自由が与えられた。コルホーズの統廃合による悪影響もあり、高麗人たちはコルホーズを離れ都市近隣に居所を移し、「コボンジル」に専念していった。

※コボンジルとは高麗人が始めた特殊な農業行為で、より生産性の高い遠方の土地に15~20人 (親族中心の小共同体) で移動し、半年ほど土地を借りタマネギなどを栽培、収穫物の一部で耕作地の賃料を払うというもの。1960年代から1980年代にかけて、ソ連全土の市場に出回るタマネギの70%をコボンジルが生産していたと言われる (ソ連政府はこの行為に目をつぶっていた)。1985年にコボンジルはあらためて合法化されたが、ソ連崩壊後は国境を横断する経済システムとなってしまったため、その多くはなくなった。

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ソ連崩壊以降、1993年にロシアで高麗人の名誉回復に関する法律が制定されるなど、高麗人の先行きには明るい兆しも見えました。

逆に中央アジア各国では、公式文書をロシア語から自国語に転換し、コルホーズの代表や管理が地元民族中心に再編されるなど、あらためて阻害が生じています。

言語的にも宗教的にも現地人との同化は難しく、歴史に翻弄されながらもなんとか地位を確立し、この地で生き抜いてきた高麗人ですが、まだまだ問題は現在進行形です。

アイデンティティの問題も深刻。祖父の祖国はロシア極東沿海州、現在の祖国は中央アジア、歴史的な祖国は朝鮮半島と、3つの祖国を持つとも言える高麗人。

居場所が複数あるとも言えるし、逆にどこに住んだとしても、現地コミュニティーからは外様として差別され得る危うさがあります。

2014年は約3万人の高麗人 (ウズベキスタンなど中央アジア国籍) が韓国で主に肉体労働に従事していたそうですが (短期就業ビザ、在外同胞ビザ、永住ビザ)、韓国語を話せないことから、トラブルや賃金未払いも多かったそうです。

彼らの心の中心にある「祖国」とは、いったいどこなのでしよう。