A Dog's World 

~海外で暮らす・日々の記録・旅の記憶~   

アムステルダム中央駅

大正3年12月18日は東京駅が完成した日。東京駅はオランダのアムステルダム中央駅のデザインを模したとも言われています。

中東・アフリカに住んでいた時は日本との行き来に北回りを利用することも多く (まだエミレーツがそれほど充実していない頃)、パリ、ロンドン、フランクフルトなどとともに、アムステルダムも定番ルートのひとつでした。

自分もアムステルダムには何度かトランジット泊しましたが、ギュッとコンパクトな街並みといろんな人種が闊歩するオープンな雰囲気に、すっかり好きな街のひとつになりました。エチオピア勤務時代はオランダのNGOに来てもらって一緒に仕事もしたので、オランダ人には好印象しかありません。(⇒過去記事:オランダの写真)

2008年にオランダの極右政党の党首が反イスラム短編映画をネット公開した時は、自身はサウジアラビアにいました。その時に書いた、ちょっとだけイスラム側を擁護するものを、なんとなく再録 (ブログ引っ越しの際に削除していたもの)。

オランダの政治家が・・・

あーあ、またこんなことやってる・・・。

オランダ右派政治家の反イスラム映画、オンラインで物議 (Wired Vision 2008年3月31日)
オランダの右派政治家が制作した問題の反イスラム映画が、3月27日 (米国時間) にオンライン公開され、視聴回数300万以上を記録した。続報によると、映画を公開したサイトは28日、公開を停止した。現在、該当ページには「スタッフに対する脅威が深刻なため」掲載を停止するという掲示がある。翻訳時点での閲覧回数は約420万。

物議を醸している映画『Fitna』(アラビア語で「不和」あるいは「試練」を意味する) は、イスラム教の聖典コーランの言葉と、テロリストの攻撃の生々しい映像を並列させている。オランダ極右政党の党首は、自ら映画監督となって制作した17分の動画を、過激な映像配信で知られるニュースサイトで公開した。

この行為に対して、オランダ政府や多くの国際団体が強い懸念を表明していたが、同氏は耳を貸さなかった。映画を作った同氏は、1月に行なわれたFox Newsとのインタビュー中で、「イスラム文化やそのイデオロギー、宗教には大きな問題がある」と感じると語っている。オランダの首相は映画を非難し、この映画はイスラム教と暴力を同一視するという間違いを犯していると語った。

オランダ:極右党首の反イスラム発言、裁判所が容認の判断 (毎日新聞 2008年4月8日)
オランダの裁判所は7日、同国の極右政党の党首が、イスラム教をファシズムになぞらえた発言について、「言論の自由」として容認する判断を下した。イスラム教徒が司法判断に反発を強めるのは必至だ。

イスラム移民排斥を訴える同党首は3月末、反イスラムの短編映画「Fitna」をインターネット上で公開。映画は米同時多発テロ (2001年)、マドリード列車爆破テロ (2004年) などの凄惨な映像を多用し、イスラム教の聖典コーランの章句を、過激派によるテロとむすびつけようとしている。イスラム諸国から非難の声が上がり、国連や欧州連合 (EU) が批判した。

在オランダ・イスラム教徒団体は映画の公開禁止を求めると共に、イスラムをファシズムと同一視する同党首の発言を「違法」として撤回を要求していた。これに対しハーグ地裁は、「国会議員 (である同党首) は見解を表明できなければならない。発言は違法とはみなされない。重要なのは言論の自由の権利だ」として訴えを退けた。

イスラム教と「表現の自由」をめぐっては、2005年にデンマーク紙がイスラム教の預言者ムハンマドの風刺漫画を掲載。イスラム教徒の猛反発を招き、世界のイスラム教国で激しい抗議デモが行われた。

* * *

たぶん、このショートフィルムの言っていることは、イスラム全体の中のある側面を切り取ったという意味では、決して否定はできません。ただ、イスラム原理主義者に限定して批判するならまだしも、イスラム全体を野蛮な侵略者として印象づけようとしているので、ちょっと政治的に過ぎるなと思うわけです。

コーランを「殺しのライセンス」と言ってみたり、イスラムはナチズムや共産主義と等しい侵略だとか、キャンペーンの標語風に「イスラム化を防げ」とか。イスラム原理主義者の過激なテロ活動は、実は普通のイスラム教徒にとってもはた迷惑な行為ですから、こんな対立をあおるようなフィルムを作るより、むしろ穏健派 (というより普通の大多数) のムスリムと手を取り合って、テロ撲滅キャンペーンでもすれば良いのにと思います。結局、票集めなんでしょうね。

オランダは移民を積極的に受け入れてきた寛容の国です。現在、約100万人までふくれ上がったムスリムコミュニティーが、オランダの文化や生活習慣をあまり受け入れず、頑なにイスラムの戒律を守ろうとするのは、オランダにとっては計算外だったでしょう (女性のスカーフ着用だけでもヨーロッパでは深刻な対立論点になり得ます)。

「おいおい、受け入れてやったんだから、お前らも妥協して少しはこっちに歩み寄れよ」と言いたい気持ちはわかります。2004年のテオ・ファン・ゴッホ事件以来、イスラムに対する警戒感が一気に広まったのも事実です。ただ、憎しみを忘れることはできないにしても、あえて憎しみをあおる必要もないでしょう。早期に事態が収束するよう期待します。

* * *

世界中で物議を醸している、オランダの政治家が作ったイスラム批判のショートフィルムに対し、真っ先に不快感を表明したマレーシアやインドネシアなどと違って、サウジアラビア政府は比較的静観の構えです。大人ですね。

ただし、YouTube にたくさんアップされている動画はしっかりブロックされていて、基本的には見ることができません。政府としては世論を刺激したくないというのが本音でしょうから、おそらく意図的に、これまでニュースとして大々的に報じられることはありませんでした。自分が気がつかなかっただけかな?。でも、職場でも全く話題に上らなかったし。

14日付の現地英字紙 Arab News に、本件に関連した記事が載りました。世界中のムスリムコミュニティーでオランダ製品の不買運動が起きていることや、オランダ人の3割がフィルムを見ていてそのうち2割くらいは制作者の行動を評価したことなどが、現状報告的に淡々と記されていました。

また、フィルム制作者の政治家が2月にイギリスの新聞のインタビューを受けた時、以下のように発言していることを紹介しています。ちなみに彼はこの3年間、危険を避けるため警察の保護を受けながら生活しているそうです。

「私はイスラム教の伝統や文化、思想を問題視しているんだ。ムスリム (イスラム教徒) の人たちともめているわけではない」
「オランダでコーランを禁止したい。オランダにこれ以上モスクや神学校、イマーム (イスラム神学者、イスラム指導者) はいらない」
「すべてのムスリムがテロリストではないが、ほとんどすべてのテロリストはムスリムだ」

この発言を読んで、個人的にもっとも違和感があるのが、イスラムとムスリムの評価です。彼は、「イスラム (コーラン) は間違っている。しかし愚かな人間 (ムスリム) はそれに従ってしまう」と言っているんだと思います。

しかし自分は、「イスラム (コーラン) は正しい。しかし愚かな人間 (ムスリム) は間違って解釈してしまう」という考え方のほうが正しいのではないかと思います。これまでにも何人ものムスリムの友人から、「人間がイスラムの全てを理解することは無理。時には間違った解釈から間違った行動に出る者もいる」とも聞いてきました。

少なくとも、世界中で13億の人たちがコーランを「絶対的なもの」として信じているわけですから、そこを頭から否定しちゃダメでしょ、とは思いますね。政治家ならばなおさらです。

自分は別にムスリムではありませんが (アダムとイブがムスリムである以上、人類はみんなムスリムなんだそうですが・・・)、聖書やコーランは読み物としてなかなか面白いので、普段ヒマな時にペラペラとめくったりしています。

今回のショートフィルムで引用されている箇所をあげてみると、いかに偏った編集がされているかがよくわかります。一応、ムスリムの名誉のために、補足を記しました。

戦利品章: 60
「彼らに対して、あなたのできる限りの (武) 力と、多くのつないだ馬を備えなさい。それによってアッラーの敵、あなたがたの敵に恐怖を与えなさい」
(→9.11テロ、スペインのテロ、イマームの過激発言、テロの遺体のシーンに続く)

実はコーランには、続きの61で以下のように記されています。全編を通じて、基本的には戦いを避けるよう、あるいはムスリムが戦わなくてもすむよう記述されていることは明白なのですが、この辺りが解釈の違いになるんでしょう。
「だが彼らがもし和平に傾いたならば、あなたもそれに傾き、アッラーを信頼しなさい。本当に彼は全聴にして全知であられる」

婦人章: 56
「本当にわが印を信じない者は、やがて火獄に投げ込まれよう。彼らの皮膚が焼け尽きる度に、われは他の皮膚でこれに替え、彼らに (飽くまで) 懲罰を味わわせるであろう」
(→イマームの過激発言、幼児のユダヤ教徒侮蔑発言、爆破テロ、皮膚が焼かれた遺体、反イスラエルデモのシーンに続く)

続きの57を読んでも明らかなように、これは敵の皮膚を焼けと言っているのではなく、ムスリムに対して「こうなりたくなかったら真面目にやれよ」と言っているのだと思います。
「だが信仰して善い行いに励む者には、われは川が下を流れる楽園に入らせ、永遠にその中に住まわせよう。そこで彼らは、純潔な配偶を持ち、われは涼しい影に彼らを入らせるであろう」

ムハンマド章: 4
「あなたがたが不信心な者と (戦場で) まみえる時は、 (彼らの) 首を打ち切れ。彼らの多くを殺すまで (戦い)、(捕虜には) 縄をしっかりかけなさい」
(→テオ・ファン・ゴッホ事件、テロリストによる首切断殺害シーンに続く)

この4はまだ以下のように続いています。これによって、人を殺さなくてもすむようにはなっているのですが・・・。
「その後は戦いが終わるまで、情けを施して放すか、または身代金を取るなりせよ」

婦人章: 89
「彼らは自分が無信仰なように、あなたがたも無信仰になり、(彼らの) 同類になることを望む。だが彼らがアッラーの道に移って来るまでは、彼らの中から (親しい) 友を得てはいけない。もし彼らが背を向けるならば、ところかまわず彼らを捕らえ、見つけ次第彼らを殺せ。彼らの中から決して友や援助者を得てはならない」
(→アフガンあたりの市民の発言、イマームの過激発言シーンに続く)

ヨーロッパに移民したムスリムが現地の生活習慣になじまないのも道理です。ただ、欧米で風紀が著しく乱れているのは確かだし、アル中ともヤクザとも等しく友達として付き合え、と言われても、それは無理な話です。それに、続く90には、以下のように記されています。他の箇所と同じように、ムスリムが戦わなくてもすむように。
「だが、あなたがたと盟約した民に仲間入りした者、またはあなたがたとも自分の人々とも戦わないと心に決めて、あなたのところへやって来る者は別である」

戦利品章: 39
「だから、多神がなくなるまで、また (彼らの) 教えが、凡てアッラーに向けられるようになるまで、彼らと戦え」
(→イスラム教徒による世界征服宣言ともとれる発言をピックアップ)

この39はまだ以下のように続いています。基本的には、敵対しない限り信仰の自由は保障されているというのがメジャーな解釈です。
「だが彼らがもし (敵対を) 止めるならば、本当にアッラーは、彼らの行うことをご存じであられる」

* * *

以上です。まぁ、なんでしょう、キリスト教徒は潜在的にイスラム教徒が怖いんでしょうか。ユダヤ教徒も含めて、同族 (旧約聖書は共通) ゆえに、逆に軋轢が絶えないというか、近親憎悪というか。それぞれに絶対的なものを持っていますからね、それはもめますよ。日本人みたいに、その都度適当に都合良く解釈すれば良いのに、とつくづく思います。「困った時の神頼み」なんて、理想的な言葉じゃないでしょうか?