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ヨルダンのイスラーム

ヨルダン人女性の人権

2001年11月、ヨルダン人権擁護委員会は民事上の女性の権利に関する提言をまとめ、首相府に提出しました。特に、女性の離婚に関する権利については、大幅な改善を要求しました。

シャリーア (イスラム法) では、夫が離婚を希望する場合、妻にその意志を伝えるか、離婚証明書を妻に郵送すれば離婚が成立する一方で、妻が離婚を希望しても、3年から4年の裁判が必要で、かつ離婚が成立しないケースもたくさんあります。

今回の提言では、慰謝料を支払うことによって、妻も離婚する権利を得ることを求めています。その他には、結婚年齢を現在の女性15才、男性16才から、双方とも18才に引き上げるよう提言しています。

しかしこの点は、各州知事にある程度裁量権をもたせることで、女性が乱暴されその犯人と結婚せざるを得なくなる状況 (刑法308条) にも対処できるよう配慮されています。

また、男性が2人目の妻をめとる場合に、夫は事前に1人目の妻に知らせること、そして2人目の妻にはすでに1人妻がいることを伝えなければならないことなども盛り込まれています。同委員会によれば、これらの提言はすべてイスラム法にのっとって作成されたとのこと。

中東では、夫が妻の不倫現場を見てしまった場合、その場で妻を殺害してもある意味当然であると受け止められる風潮があります。これを「Honour Crime (一族の名誉を守るための犯罪)」と呼び、ヨルダンの場合は刑法340条、そしてそれを補足すると解釈できる97、98条によって、このようなケースは夫側に禁固6ヶ月以上1年未満が科せられることになっています。

ヨルダン人権擁護委員会は、年間20から25名の女性が Honour Crime によって殺害され、ほとんどの場合夫には禁固6ヶ月が言い渡されている現状を憂慮し、その是正案を議会に提出しました。

是正案の中では、殺人犯である夫の禁固刑を5年以上7年未満に引き上げること、そして刑法340条を男性だけでなく女性にも適用することを要求しています。以前にもこのような改善策が議会に提言されましたが、当時の内閣が全員男性だったこともあってか、「イスラム社会の女性のモラルを破壊しようとする西側とシオニストの陰謀だ」と一蹴されたそうです。

2002年5月、ヨルダンの新聞に載った記事です。
『バルカ地区警察は Honour Crime により、24歳のマルヤムという女性が殺されたことを発表しました。加害者はマルヤムの兄です。兄の申し立てによれば、マルヤムは夫が仕事のため毎週何日か家を空ける際、妹に男性との情事の場として部屋を使わせていたそうです。妹の妊娠によって家族がこの事実に気がつき「Family Honour (家族の名誉)」のため、兄がマルヤムを殺害するに至りました。妹は現在女性刑務所に収監されていますが、これも彼女の身を守るためだそうです。同種の犯罪では、この年マルヤムはヨルダンで5人目の犠牲者となってしまいました』

一夫多妻

ヒジュラ暦3年 (西暦624年)、前年の雪辱を果たすべく、マッカ側は3000人の兵を率いてマディーナの預言者ムハンマドとムスリム軍に攻め入りました。この時、ムスリム軍は700人の兵のうち、74名の戦死者をだす結果となりました (オホドの戦役)。

オホドの戦役後、預言者に下されたのが「婦人章 (スーラトゥ・アンニサーア)」です。第3、4節には次のように記されています。

『あなたがたがもし孤児の女たちに対し公正にしてやれそうにもないならば、あなたがたが良いと思う2人、3人または4人の女をめとれ。だが公平にしてやれそうにもないならば、ただ1人だけめとるか、またはあなたがたの右手が所有する者 (奴隷の女) で我慢しておきなさい。そして結婚に際しては女にマフルを贈り物として与えなさい』

これが良く知られる、イスラムの一夫多妻制の元になった啓示です。これにより、当時多くの孤児と寡婦が救済されたと言います。しかし、一夫多妻は夫側にかなりの金銭的負担がかかるので、少なくとも現代イスラム社会では、王族や豪商をのぞいて、それほど一般的とは言えないようです。

またコーランには、異教徒との結婚についても記されています。男性イスラム教徒は、同じ啓典の民であるキリスト教徒およびユダヤ教徒の女性とは結婚できます。それ以外の、とくに多神教徒との結婚は許されません。

男性がイスラム以外に改宗することは許されませんから、その女性は、イスラムかクリスチャンに改宗する必要があります。では、女性イスラム教徒の場合はというと、これはもうイスラム教徒の男性と結婚する以外ありません。したがって、イスラム教徒の女性と結婚を望む男性は、イスラムに改宗しなければならないのです。

このことについて知人のヨルダン人女性は、イスラムでは必ずしも男女が平等ではないと言います。ただし、彼女はそれを嘆くわけでもなく、淡々と受け止めているようでした。

イスラム教徒の結婚

ある年、職場で立て続けに2名が婚約をしました。そこで、かねてから疑問に思っていたことをいくつかたずねてみました。まずはマフル (結納金品) について。

他のアラブ諸国と同じように、ヨルダンでも結婚するとき男性から女性にマフルが渡されます。マフルは結婚式の席で渡すものと、その後の人生の中で渡していくものに分けられます。

現金、宝飾品、生活用品、土地や家の所有権などさまざまなものが考えられますが、ファミリーの格式や花嫁の学歴などによって、マフルの金額や内容は千差万別です (女性の容姿も大いに関係あるのだとか)。

結婚式には裁判所から結婚登録人が出席し、花嫁、花婿、両家の父親 (保証人) とともに、マフルが記された書面にサインをします。この書面には法的な拘束力があるので、結婚とはまさに契約なのだそうです。

特筆すべきは、離婚の際の慰謝料が、結婚の時点ですでに決められていることです。男性から離婚を申し立てた場合、女性側に額面通りのものを渡されなければなりません。そのため、離婚を防ごうと莫大な金額を書き込む花嫁の父もいます。もちろん、花嫁にそれだけの価値 (←嫌な言い方ですね) がある場合ですが。

スタッフの1人から、「うちの妹は慰謝料に純金3キロと約束させたよ」と聞いたときは、思わず旦那さんに同情してしまいました。ちなみに今回結婚する当人にマフルはいくらかたずねたら、そこはどうしても言ってくれませんでした。まあ当然か。

結婚後の夫婦の姓については、お互いファミリーネームの変更はないとのことでした。パスポートも、ヨルダン人女性は結婚しても氏名は変わりません。自分の名、父親の名、ファミリーネームの順番で記されます。

ただし、パスポートの中に「Wife of Mr.XXX」と付記されるそうです。なお、生まれた子供は必ず父親のファミリーネームを名乗ります。日本では夫婦どちらかが変更しなければならないと言うと、「ファミリーネームをなぜ捨てられるんだ」と不思議がられてしまいました。言われてみれば確かにそうですよね。

また、ヨルダン内務省は、男子が結婚すると「家族手帳」を発給します。色はブルーですが、形やサイズはパスポートそっくりです。まず夫のページがあり、続いて妻、子供のページがあります。夫と妻のページには顔写真も入っています。子供のパスポート申請や、遺産分与の時に使うそうです。

ちなみに、以前の手帳には妻のページが4人分あったそうですが、現在は1人分しかありません。相当お金持ちでないと複数の妻帯は難しいですし、昨今は社会的にも一夫多妻に対する批判がよく聞かれますので、そのあたりの事情を考慮して、妻のページ数が減ったのかもしれません。

イスラム教徒の離婚

イスラム社会における離婚は、男性側に生ずる義務の大きさもあって、普通考えられているほど簡単なものではありません。結婚する時にも多額のマフルを支払いますが、もし離婚をすると男性はかなりの慰謝料を支払うことになります。

女性は離婚後4ヶ月は再婚ができないので (妊娠していないかどうかの確認期間) その間の女性の生活費を、そして将来にわたって子供の養育費を支払わねばなりません。

多くの場合、離婚宣言は男性から一方的にされるそうですが、コーランでは、3回目の離婚宣言をするまでは正式な離婚にはならないとされています。

つまり、1度や2度、かっとなって離婚を口走ったとしても、少し冷静になって考え直せということらしいのです。

イスラム以前は、男性から女性に対し「お前の背中は私の母さんの背中だ」というきつい一言 (離婚宣言) があったそうですが、イスラム時代になってこれは禁句となりました。

うっかりこれを言ってしまったら、それを取り消すためには2ヶ月の断食と貧者60人に食事を振る舞わなければならなかったそうです。

ある日、ヨルダン人の家に招待されました。食事をいただいた後にくつろいでいると、隣家のご主人がやって来ました。なかなか恰幅の良い人で、トーブという湾岸諸国特有の服を着ています。

日本人を生で見るのは初めてとのことで、丁寧なあいさつをしてくれました。聞けば軍隊の将校として、クウェートをはじめ湾岸諸国に30年住んでいたそうです。そしてなんと、これまでに7人の女性と結婚したのだそうです。

離婚や死別もあって、今は2人の奥さん、5人の子供と暮らしていますが、それぞれに家を建て、悠々自適の生活だそうです。アラブ各国の女性と結婚しましたが、生活習慣などヨルダンと違う部分も多く、それが離婚の原因になったこともあったそうです。

とくに5人目のシリア人の奥さんの場合、突然の来客をとても嫌い、そこがヨルダン人の彼とはもっとも相容れない部分だったそうです。結果、6人目、7人目の奥さんは地元ヨルダンとパレスチナから娶ったのだそうです。

天国で会いましょう

職場でパソコンの画面をにらんでいたとき、ある年配のスタッフがひょっこり顔を出しました。曰く、「あなたはいつも難しい顔をしていて見るに耐えない、1時間働いたら10分休憩しなくてはいけない、ついては、私の話を聞いてはくれまいか」とのこと。どうも彼は、イスラムのことを話したいようでした。

「あなたはいい人だ。私の話をわかってくれると思う。最後の審判の時に、あいつは同じ職場にいたのにイスラムのことを何も教えてくれなかった、なんてことを言わないでほしいんだ。あいつはイスラムを教えてくれた、いい奴だったと証言してほしいんだ。そうしたらまた天国で会えるからさ」

その後も少し、イスラムの話が続きました。彼の顔は真剣でした。真剣な割には動機が不純なような気もしますが。

コーランにはこの世の終末が生々しく描写されています。本来、人間はすべてイスラム教徒であり、最後の審判の日、人類は1人残らず墓からあばき出され、生前の信仰や行為によって天国行きあるいは地獄行きを宣告されるそうです。

そのため火葬は厳禁。お墓に土葬され、じっと最後の審判を待つわけです。地元の人のお葬式に行ったときは、この復活思想も手伝ってかとてもさっぱりしたある意味和やかな雰囲気さえ漂っていました。死は終わりではなく単なる通過地点なのでしょうか。

ただ、実際のところみんながどこまで本気で信じているのかやや疑問に感じたので、何人かにたずねてみました。すると、「コーランに書かれているからそうなんだ」「みんな信じているからたぶんそうだろう」「よくわからないがウソだとは誰も言えない」などと、全面的に肯定とは言えないまでも、否定的な意見はありませんでした。

なお、コーランの中では天国 (ジャンナ) について「こんこんと湧き出る泉のほとり、緑したたる木陰でうるわしい乙女にかしずかれ、美味しい食べ物やお酒を存分に味わい、そして神の姿を見る」と記されています。

これを文字通りに解釈する人と、比喩表現ととらえる人と、様々な立場があるそうです。いずれにしても、なんとなく「男性天国」といった趣があるような。。

ジハード (聖戦)

一般的に、宗教とは心の平安や暴力の放棄を説いたものであるという認識が強いと思います。これはキリスト教の「右の頬を打たれたら…」という一節や、殺生を禁じた仏教思想によるものでしょう。

しかし、イスラム教についてはご存じのとおり、「ジハード」という言葉もあります。コーラン雌牛章第190、191節には次のとおり記されています。

『あなたがたに戦いを挑む者があれば、アッラーの道のために戦いなさい。だが侵略的であってはならない。本当にアッラーは侵略者を愛さない。彼らに会えば、どこでもこれを殺しなさい。あなたがたを追放したところから、かれらを追放しなさい。本当に迫害は殺害よりもっと悪い。だが聖なるモスクの近くでは、彼らが戦わない限り戦ってはならない。もし戦うならばこれを殺しなさい。これは不信心者への応報である』

これを読むと、パレスチナ問題の政治的解決などあり得ないのではないかと感じます。イスラム原理主義者に言わせれば、現在の世の中はダール・アルハルブ (争いの世界) であり、イスラムの主権が確立されたダール・アルイスラーム (イスラム世界) になるまで、ジハード (聖戦) が必要なのだそうです。

これには、直接戦闘員 (ムジャーヒディーン) としての参加だけでなく、資金や物資の提供など様々な形での参加があります。ジハードでの戦死者は、シャヒード (殉教者) として天国行きが約束されているのだそうです。

アラビア語は、基本的にアルファベット3つからなる動詞が変化して、関連した別の意味の動詞や名詞になります。シーン、ハー、ダールの3語根でシャヒダ (目撃する、証言する、証明する) という動詞になり、そこからシャハーダ (証明書、証言、証拠、殉教、信仰の告白) という名詞ができます。

証人はシャーヒド、殉教者はシャヒード、また殉教するという動詞はシャヒダの第10形受動態 (ウストゥシュヒダ) といった具合です。証明書と殉教が同じ語源の単語だと言われても、日本人にはなかなかぴんと来ません。

つまりどちらも神に誓って行われる行為であり、根底には信仰があるということなのでしょう。しかし殉教することが自らの信仰を証明する最善の方法であると言うのならば、それはあまりに悲しいことなのではないでしょうか。

パレスチナ、聖夜の奇跡

イスラム暦の第9月をラマダン (断食月) と言います。この月のある夜 (27日だと信じられています) にコーランが下されたとされ、この日を「ライラトルカドル (Laylat Al-Qadr/みいつの夜)」と呼んでいます。西暦614年頃、この日、預言者ムハンマドはマッカ郊外のヒラー山上の洞窟で最初の啓示を受けました。

「本当にわれはみいつ (神威) の夜にこれ (コーラン) を下した。みいつの夜が何であるかをあなたがたに理解させるものは何か。みいつの夜は千月よりも優る。天使たちと聖霊は、主の許しのもとにすべての神命をもたらして下る。暁の明けるまで、平安である」

この啓示によって、イスラムの歴史が始まったのです。

さて、2000年のラマダン27日夜、あるパレスチナ系武装グループが一堂に会し礼拝を行っていました。それを察知したイスラエル軍は、ヘリコプター2機とコマンド75名による急襲を企てました。
ところが、現場に着かんとしたまさにその時、ヘリ同士がプロペラを接触させ、2機とも墜落してしまったのです。アラブ人はこれを奇跡だと言い、感嘆すると同時に神を畏れました。どちらが正義であったのか、アッラーが決めたからです。

迫害、自爆テロ、報復攻撃。いったい誰が、そして何が正しいのかは、まさに「神のみぞ知る」のではないでしょうか。

エクソシスト

エクソシストといえばあの有名な映画を思い出しますが、ヨルダンで、エクソシストの呪術的治療により命をおとした少女の話が新聞に載りました。

ザルカに住む18才のマリヤムは、胃を患っていました。家族が地元の「シェイク (Witch Doctor=呪術師を尊称でこう呼ぶ)」のもとに彼女を運び込むと、患部に巣くうジンを追い出すためと、シェイクはお香を焚き彼女のお腹を何度も強く蹴りました。

うめくマリヤムを見かねた家族はすぐに彼女を病院に連れて行きましたが、治療の甲斐なく絶命したそうです。

ヨルダンでは毎年数人、同様の事故で命を落とす人がいるそうです。ザルカのシェイクの他にも、ヨルダンには有名なシェイハ (シェイクの女性形) がおり、病気の原因や遺失物の場所などを見事に言い当てるそうです。

シェイクたちはジンの力を借りて不思議な力を発揮しますが、けっして未来の予知・予言はしません。未来を知ることはアッラーの怒りにふれるため、できないのだそうです。

イードの日

アンマンのイード・アルアドハー (犠牲祭) の日は、それまで道ばたの空き地に設けられていたヒツジの市でも、昨日までと違って屠殺が行われており、毛皮は山積み、内蔵が散乱、道路には血が流れ出しています。

イードの日は全世界のイスラム教徒たちによって数百万頭のヒツジが屠殺される日でもあり、アンマンの町でもまさにこれが行われています。こんな血なまぐさい光景を見てしまうと、次にヒツジを食べるとき思わず躊躇してしまいそう。

イードにヒツジを1頭まるごと買うことができた家庭では、イスラムの教えにより、3分の1を自分用に取り、残り3分の2は他者に施しをするそうです。職場のあるヨルダン人は「今年は子供が生まれたのでヒツジを買うお金がない」と大変残念がっていました。

ヒツジを自ら屠殺し、隣近所や貧しい人たちに肉を分け与えるという行為ができないことに、成人男子としてふがいなさを感じていたようです。イスラム教徒も大変ですね。

アンマン郊外に行くと、普段と違って家の外で遊ぶ子供の姿をよく見ました。それまでにも何度か来た道でしたが、この村にはこんなに子供がいたのかと、軽い驚きをおぼえたほどです。

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イードの日は、言ってみれば日本のお正月です。とくに女の子は着飾って、堂々と家の外で遊んでいました。女性を家の中に隠す傾向のあるイスラム教ですが、イードはハレの日の雰囲気が漂っていました。

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丘の上に車を止め、春の景色に見入っていると (この年は2月下旬でした)、たちまち近くにいた子供たちに取り囲まれました。「サウウィルニー (写真撮って!)」と大騒ぎです。

「子供は元気だな」とあたり前のことをあらためて感じたのでした。

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