A Dog's World 

~海外で暮らす・日々の記録・旅の記憶~   

サウジアラビアの生活まとめ1

(サウジアラビア 1990年代)

砂漠で洪水

リヤドに赴任してすぐの12月半ば、日本からの出張者を連れ、車3台でいつもの「赤い砂漠コース」へ。赤い砂漠が横たわる景色を十分に堪能してもらった後は、さらに車で土漠の奥に分け入りました。土地が浸食されてできた奇怪な景観を楽しんでもらおうと考えたのです。

進む道は人工的に作られたものではありません。長い年月をかけ、水によって浸食されたもので、くねくねと曲がり、両側には20メートルほどの崖が切り立っています。言ってみれば谷底を走っているのですが、砂漠地帯に独特の「ワジ (ワーディ)」つまり「涸れ川」なので、水は流れておらず、平らで砂利が敷き詰められた感じは道路としてちょうど良い具合のものです。

その日は、珍しく雨が降り出しそうな曇り空でした。若干不安を感じつつも、そんなワジの道を走っていると、案の定、最初の一粒が来ました。「ああ、雨か」と思ったのもつかの間、あっという間に、それこそ一瞬で、我々の車列は豪雨に包まれてしまいました。

ヒョウまじりの土砂降りで、ワイパーを使っても前方が真っ白でまったく何も見えません。こんな雨は日本でも経験したことがありませんでした。先頭車両がハザードランプを出し、ゆっくりとその場に止まりました。

5分ほど止まって様子を見ていると、雨足は急速に衰えてきたものの、一方で、ワジに一気に水が流れ始め、5cm、10cmと刻一刻、水かさが増してきました。両側の崖の上からは水が滝のように流れ込んでいます。

恐怖にかられた我々は、あわてて車を方向転換し、もと来た道をそろりそろりと引き返し始めました。泥でにごった水が流れているため、地面の状態がまったくわかりません。エンジン下部を岩にこすってしまったらそれこそ閉じこめられてしまいます。

そうやっている間にも水かさはどんどん増え、20cmくらいの濁流になったときは、「ついに車を乗り捨てか」という最悪のシナリオが頭をよぎりましたが、ほどなく見覚えのあるカーブにさしかかり、ようやく「助かった」と思いました。そのカーブを曲がれば土地が少し高くなっていたはずです。

しかし、実際にそこを曲がってみると、確かに小高くなっていて一時的に水は回避できたものの、もう1本、幅30メートルほどの濁流を渡らなくてはなりませんでした。そこさえ抜けられればもう水はありませんが、流れに入ってみると、水かさが40cmはあります。これでは我々の車は走れません。

川の向こうでは大型トラックがこちらの様子をうかがっていました。仕方なく水かさが減るのを待っていましたが、2時間待っても期待したほど水位は下がりません。そうこうしているうちに辺りはだんだん夕闇に包まれてきました。

「もうこうなったら度胸で渡るしかない」そうみんなで気勢を上げると、1台、また1台とワジの濁った急流を横断していきました。どの車も水中の岩にぶつかることがなかったのは相当ラッキーだったと思います。

それにしても、砂漠で洪水って本当にあるんですね。自分が体験するとは夢にも思いませんでした。

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褒めてはいけない

中東だけでなく、東南アジア諸国にも土着の迷信として、邪視、凶眼 (Evil Eye) という考え方があります。悪魔に見つめられるとそのものに厄災が降りかかるというもので、悪魔とはすなわち邪視を持つ者です。

そこから転じて、他人を褒めることも妬みや恨みに通じるので、邪視と同じ事になると言われています。つまり、他人や他人の持ち物を褒めたりすると、その人・物が不幸に見舞われるのだそうです。

ある方が自宅にアラブ人の若夫婦を招いたとき、「奥さんきれいですねぇ」と褒めると、「悪いことが起きるからそういうことは言わないでくれ」と真顔で言われたそうです。ベールを被っていて顔なんか見れなかったから冗談でそう言ったのに、とぼやいていました。

もちろん、イスラムではこういった土着の信仰とか迷信を徹底的に否定しているのですが、やはり人々の生活の中にはこのような話が綿々と受け継がれているのですね。

もうひとつ、サウジ人の持ち物を褒めてはいけない、という話。ある日本人が、職場でサウジ人の腕時計を見て「金ピカでカッコイイね」と褒めました。サウジ人は若干躊躇しつつも、「だったらどうぞ」とにこやかに腕時計を差し出したそうです。

日本人は断り切れずに腕時計を受け取り、後日、仕方ないので同じくらいの値段の時計を贈るハメになりました。なんでも、褒められたら「くれ」ということになるので、言われた方は太っ腹なところを見せなければならないんだそうです。一種のプライドでしょうか。面倒くさいシステムですね。

預言者 (ナビー)

コーランによれば、人類は元々ひとつの共同体でした。しかし争いによって分裂してしまったため、神はおのおのの共同体に預言者をつかわして、争いを裁決し、人々に正しい信仰と行為規範を伝えさせました。そのような預言者として、アダムをはじめ、ノア、アブラハム、イサク、ロト、ヨセフ、モーセ、ダビデ、ソロモン、ザカリヤ、(洗礼者) ヨハネ、イエスなどの聖書的人物や、アード族、サムード族、ミデヤン族につかわされた者など、28人の名があげられています。そして最後の預言者として登場するのがムハンマドです。
イスラムでは、ムハンマド以降の預言者はいっさい認められません。伝承によれば、預言者 (ナビー) の数は12万4000人、使徒 (ラスール) の数が315人ないし313人、下された啓典の数が104とも言われています。それにしても、イスラム教徒、ユダヤ教徒、キリスト教徒は、旧約聖書を共有する同じ啓典の民であるとお互いに認めあっているはずなのに、今日のこの憎しみあいは一体どうしたことでしょう。日々、宗教の功罪について考えさせられています。ちなみに神から言葉を預かる「預」言者です。「予」言者ではありません。

旧約聖書の登場人物の名前はアラビア語でも残っており、現代でもこの名前を持つ者が少なくありません。アーダム (アダム)、ハウワー (イブ)、イブラヒーム (アブラハム)、ムーサー (モーセ)、イスハーク (イサク)、ヤアクーブ (ヤコブ)、ジブリール (ガブリエル)、ミカイール (ミカエル)、ヌーフ (ノア)、スレイマーン (ソロモン)、ダウード (ダビデ)、ヤヒヤー (ヨハネ)、ブトゥルス (ペテロ)、ユーセフ (ヨセフ)、マルヤム (マリア)、イーサー (イエス) 等々。職場にダウードさんという方がいて、みんなが彼のことを 「デイビッド」 と呼んでいたので、ちょっとかっこいいなと思いました。

アラブの祖

日本人がどこから来たのか、いまだ定説がさだまらないように、アラブもまた、その起源については伝承が語るのみです。

サウジアラビア人の友人によれば、ノアの子孫であるカフターンを祖とするヤマン族が、紀元前8世紀ころからイエメンのハドラマウトに一連の古代南アラビア王国を建設し、その4氏族がアラビア半島の各地に広がっていったそうです。友人の属するイーサー一族は、このカフターン直系の4氏族にまでさかのぼれるそうです。

時を同じくして、北アラブについても、アッシリアの碑文にその名が見られます。北アラブはその後中継貿易によって繁栄し、ナバタイ、パルミラ両王国を建設しました。逆に、南アラブの王国は4世紀に崩壊し、アラビア半島ではしだいに北アラブの文化と言語が支配的になっていったそうです。

南北アラブの区別は、イスラム時代の初期まで政治的・社会的に重要な意味を持っていましたが、アッバース朝が成立すると、ほとんど意味をなさなくなったとのことです。

なお、シバの女王といえばイエメンだと理解していたのですが、エチオピアに残る伝承では、シバの女王は紀元前1000年頃、イエメン、スーダン、エチオピアに広がる大エチオピア帝国の支配者だったとのことです。シバの女王がエルサレムのソロモン大王のもとを訪れ、そこで身ごもった子供がエチオピアの祖、メネリク1世であると言い伝えられています。現代エチオピア人も、自分たちがアフリカというよりはアラブの系統に属していると考えているようです。

不浄な左手

イスラム諸国では、左手は不浄なものです。まぁ、簡単に言うと、トイレでお尻を洗うときに左手を使うから、ということのようです。世界的に見たら、トイレの大を紙で始末する日本人の方が珍しいそうですが、イスラム諸国では水を使います。

トイレにトイレットペーパーは設置されておらず、シャワーのような蛇口がついた水道と、小さな手桶があります。大のあと、手桶からチョロチョロと尾てい骨あたりに水を流し、左手でキュキュッと洗います。

私もウォシュレットを使って以降、紙では決して得られない爽快感にすっかり水洗い大好き派になりましたが、中東にいた当時も、さすがに手で洗うのは抵抗を感じていて、ならばせめてと、それまで右手で拭いていたのを、左手に変えることにしました。最初はやはりなかなか難しいと感じましたが、がんばって左手使用を続けていたら、数ヶ月もするとようやく自然な感じで左手が動くようになりました。

昨年、左手をケガしてしばらく使えないことがあって、仕方なく15年振りくらいに右手で始末しましたが、久々の右手は、やはりうまく動きませんでした。

ちなみに、イスラム諸国では食事 (手づかみ) や握手が右手なのはもちろん、何か物を渡すときも右手です。左手に持っていたらわざわざ右手に持ち替えて渡します。私もすっかりこの癖がついてしまって、左手で物を渡されたりすると微妙に違和感があったりします。

お酒

ご存じの通り、イスラム教ではお酒が禁じられています。コーラン第5章90節には 「信仰する者よ、誠に酒と賭矢、偶像と占い矢は、忌み嫌われる悪魔の業である。これを避けなさい」 と記されています。一方で、第47章15節には 「主を畏れる者に約束されている楽園を描いてみよう。そこには腐ることのない水をたたえる川、味の変わることのない乳の川、飲む者に快い美酒の川、純良な蜜の川がある」 と記されています。

つまり、お酒を完全に否定しているのではなく、あくまで現世において飲酒を禁止するということのようです。こんな書き方をされたら余計に期待がふくらんで、試しに飲んでみようという輩が現れてもおかしくありませんね。サウジアラビアでも、オーデコロンを飲んだ若者19人が亡くなるという事件がありました。なんとも哀れです。

コーランに飲酒禁止と書かれている以上、当時アラビア半島にはかなりの左党がいたとみて良いのではないでしょうか。アラビア半島にはジャーヒリーヤ時代 (イスラム以前の無明時代) からカイナという歌い女がおり、酒場に所属したり流浪の酒売り人に従って歩き、売春を行っていたそうです。

コーランに書かれているお酒は「ハムル」というもので、一般的にはワインとされています。ブドウの産地である北アラビアでつくられたワインが、酒売り人によってアラビア半島まで広がっていたのでしょうか。

また古来より、イラクやシリアを中心にナツメヤシのお酒がつくられていたことはよく知られています。それを「アラク」といい、水で割ると白く濁るお酒としてご存じの方も多いでしょう。

東南アジアやスペイン、ポルトガルにも同じもの (ただし原料は様々) があり、なんと江戸時代の日本にも「阿刺吉 (阿刺基)」などという名前でオランダから渡来していたそうです。

ジン

イスラム教では、人間の霊魂が死後に現世を徘徊する、いわゆる幽霊の存在は否定されています。しかし、人間と同様、アッラーにより創造された思考力ある生物として「ジン (ジンニー)」の存在は広く信じられています。

精霊、霊鬼などとも訳されるジンは、アラブの俗信として古くからその存在が認められており、コーランの中でも多様な記述を見ることができます。

ジンは普段は不可視ですが、変幻自在にその姿を変え、奇怪な動物の姿、特に蛇の形をとって人前に姿を現すことが多いとされます。知力・体力ともに人間より優れ、悪性のものから善性のものまで様々なジンが存在しますが、善性のジン (もちろんイスラム教徒) に啓発された人間は、詩人、占い師、説教師など、ムスリム社会にとって益をもたらすと考えられてきました。

長く空けておいた家にはジンが住みつくという考え方も根強く、職場のスタッフも長旅からの帰宅時には必ず玄関で「アッサラーム・アレイコム」と言ってから中に入るという人がいました。こうするとジンが家を出ていくのだそうです。

なお、流れ星は悪いジンに対してアッラーが下した天罰の一撃だそうです。アラビア語で 「気が狂った」 は 「マジュヌーン」 と言い 「ジンにとりつかれた状態」 をさします。

イスラムのお墓

イスラムでは、キリスト教と同じく死者は土葬にされ、天国に行くか地獄に行くかの「最後の審判」を待つことになります。つまり死というものは通過点であって、それで全てが終わったわけではないと考えられています。

そういった考えに立ってのことなのか、イスラム教徒のお墓は質素というかとてもあっさりしています。遺体の頭をメッカの方角に向けて埋葬し、軽く土盛りをしたら頭の部分にレンガとか棒をおいて終わり。

お墓参りもあまりしないそうですし、20年ほどたったらブルドーザーで地面をならして整地したりもします。おそらくお墓参りというスタイルは「偶像崇拝」に通じる部分があって、それであまり推奨されないのかもしれませんが、それにしても日本人の感覚では信じられないほどぞんざいな扱いです。

サウジアラビアの首都リヤドで初めてイスラムの墓地を見たときは、カルチャーショックもいいところでした。広い墓地の一角はすでに相当な年月がたっているのか、土盛りもほとんどなくなり、白骨がちらほら露出していました。「ぎゃっ、踏んじゃった!」 一緒に見に行った人が飛び上がりました。どこの部分か小さな骨片を踏んでいたのに気がついたからです。

世界は広い。故に宗教、文化、死生観など、星の数ほど違いがあるのは当たり前。しかし、この埋葬スタイルは仏教とか神道系の日本人にはやっぱり理解しがたいものがあると思います。ちなみに「異文化交流」というものは「理解し合う」のではなく「そういう文化もあるんだと知ること」なんでしょうね。そうでも思わないとやってらんない…。

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ビジネス感覚

サウジアラビア人は本当にビジネスが好きで、職場のスタッフもほとんどは副業として何かやっていました。生地や雑貨をあつかう小さなお店を持っている人もいれば、リヤド郊外の砂漠に土地を買ってヒツジの繁殖にいそしむ人もいました。

ある時、スタッフの1人が真っ青な顔をして職場に現れました。悲愴の面もちで近寄りがたく、しばらく誰も声をかけられませんでした。そのうち1人が「一体どうしたんだ」とたずねると、120万円出して買ったタカが死んでしまったとのことでした。彼は血統書付きのタカを繁殖して一儲けを企んでいたのです。親戚からもお金を借り、タカの飼育環境も整えた矢先、買ってからわずか2週間後のことだったそうです。

やはり簡単な儲け話はないということでしょうか。ヒツジを繁殖して少額ながらコツコツ稼いでいるスタッフは、「あいつはちょっと欲張りすぎた」と言っていました。まさにハイリスクハイリターンですね。

リヤドの町を車で走っていると、信号待ちの時に子供がティッシュペーパーを持って寄ってくることがあります。「こんな金持ちの国でも、こんな可哀想な子供がいるのか」とショックを受ける人もいますが、実はこれ、ビジネスの教育なのだそうです。

親は子供にティッシュペーパーを渡す。子供は路上でそれを1リヤル (約30円) くらいで売る。小遣い稼ぎにもなるし、商売の厳しさも身に付くわけです。こうして子供の時からビジネスのなんたるかを勉強していく人たちですから、日本人がアラブ商人に勝とうなんてどだい無理な話かも知れません。

俗に言う「インパキ・レバシリ」。インド・パキスタンの商人もなかなかのやり手ですが、レバノン・シリアのアラブ商人もすごいということを言っています。もっとも、そのアラブ商人すら一目置くのがユダヤ商人です。ユダヤ商人は、自分も儲けますが必ず相手にも儲けさせてくれるということで、実はアラブ人にとっては一番商売をしたい相手のようです。

20世紀初頭から、政治的に接触はタブーとされていた両者ですが、経済は政治よりも強し、といったところでしょうか。

管理民族

「アジア=農耕民族」「ヨーロッパ=狩猟民族」とは良く言われることです。中東に赴任するまでは、なんとなく世界の全ての地域がどちらかに属するものと思っていました。しかし、アラブ人はとてもこの2つにあてはめることはできません。あえて言うならば「管理民族」です。

遊牧民の仕事は、第一にヒツジやラクダの群れを管理することです。草を食べすぎないよう適度に移動し続けること、どこかに行ってしまわないよう常に見張っていること、他者とのテリトリーの調整、間引きや繁殖の調整などなど。

また、古来アラブ人は体力を使わずに頭で儲けることが最良という考え方を持っています。つまりビジネスマンですね。実際、シルクロードを使って中世東西世界の物流を担っていたのは、他でもないアラブ・ムスリム商人たちでした (他にもキャラバン隊を警護したり通行税を課すなどもした)。

現代に目を移すと、アラビア湾岸諸国では莫大な石油収入を利用して世界的に投資・投機を進めるとともに、国内においては労働力のほとんどを出稼ぎ労働者でまかなっています。

所得水準の高さから、一般庶民であっても東南アジアからの出稼ぎ人たちを使用人として雇うのは普通ですし、こうして資産や外国人労働者を管理することで快適な生活を享受しているわけです。管理する対象が変わっただけで、本質は昔も今も変わりません。

ただし、まったく何もせずに儲けるのはイスラム教ではいけないことだとされていて、イスラム系の銀行では預金に利子がつきません。そんなところに預ける人っているのかなと、最初は思いました。

サウジアラビアにいた時、一度職場に水を2カートン買って持っていきました。車のトランクから出して職場の玄関に置くと、すぐに受付のサウジ人スタッフが「バングラデシュ人 (職場の労働者) を呼んできてあげる」と声をかけてきました。
車を駐車場に止め、その場に戻ってくると、まだ誰も来ていません。2階の自分のオフィスに運ぶだけですから、わざわざ人を呼ぶほどのことではありませんし、何よりいつ来るかわからない人を待ち続けるよりは、自分で運べばすぐに終わることだと思い、おもむろに水を抱え上げて運びはじめました。

階段を上っている途中、声をかけてくれた人が戻ってきましたが、結局誰も連れてきていなかったので「自分で運ぶからもういいよ」とひと声かけると、彼は私の方をじっと見て小さな声で「ファッラーフ (農民)」とつぶやきました。

農民とはすなわち、頭を使わずに体を使って働く人のことです (そもそも誤解がありますが…)。「力自慢の能なし野郎」といったところでしょうか。

「自ら体を動かさずに、国を発展させることができるのか」というテーマは時々サウジ人スタッフと議論しましたが、実際問題、サウジアラビアなど湾岸産油国はそうやって国を発展させてきたわけですから、正直こちらはぐうの音も出ませんでした。

「石油はいつかなくなる」というのがこちらの精一杯の反論でしたが、ある日新聞で「石油埋蔵量はあと160年分」という記事を見てガックリときました。さらに、実はサウジアラビアには他にも金を含めて天然資源の鉱脈が無数にあるそうで、今採掘しないのは市場価格を破壊するだけだからとのことでした。はぁ~、神様って不公平だ…。

ベドウィンの歯ブラシ

毎日の生活におなじみの歯ブラシ。世界各地にその土地特有の歯ブラシがあったりしますが、サウジアラビアでは 「ミスワーク (Miswak)」 が昔から用いられてきました。これはサウジアラビア、スーダン、エジプト南部など乾燥地域に生える特殊な木 (Arak Tree/Salvadora Persica) の根っこで、茶色い表皮をむいて少し歯で噛むと簡単にほぐれ、いかにもブラシといった見た目になります。口に入れるとハッカのようなややピリッとくる風味があって、なかなかオツな味がします。

ミスワークについてはこれまでに世界各地で研究が行われ、実際に虫歯予防や歯垢を落とす薬効成分が含まれていることがわかっています。WHOが虫歯予防にミスワークの使用を奨励していたり (1986年、2000年)、サウジアラビアでもキングサウド大学の研究グループが調査結果の発表を行うなど、近年ますますその価値が再評価されています。なんでもミスワークには19の薬効成分があり、歯ブラシに歯磨き粉をつけて使用するのと遜色ない効果が得られるのだとか。歯ブラシと違って奥まで届きやすい形状なのも好ポイント。

サウジアラビアではミスワークをくわえながら出歩く人も多いのですが、カイロやアンマンの町中ではほとんど見かけませんでした。このようなベドウィンの伝統文化もアラビア半島の周辺国ではすたれつつあるのかなと感じたものです。確かに、日本でも爪楊枝をくわえながら歩いているおじさんの姿はあまり格好の良いものではありませんし。

ミスワークは直径5mm~15mmくらい、長さ15cm前後にカットされて売られています (100円しないくらい)。太さはお好みのものを。ミスワークは歯をゴシゴシこすったり、単にパクッとくわえていたり、まさに爪楊枝感覚で使われます。1日使ったら、ブラシ部分を一晩水につけておけば、翌日はまた爽やかな使い心地が復活しているはずです。中にはローズウォーターにつけると良いという人もいます。2~3日使えばさすがにボロボロになってくるので、ナイフで削って新しい部分を出しますが、柔らかいので簡単に削れます。

ミスワークの効能は他にも口臭予防、消化を助ける、喉の調子を整える、頭痛を和らげる、記憶力を高めるなどなど、いいことずくめのようです。

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自由って何?

何かとイスラムの戒律が厳しいサウジアラビア。サウジアラビア人自身は息苦しいと感じることはないのかとたずねたところ、「自由って何だ、アメリカのようにすべてが自由だったらそれは自由ではなく堕落だ、規制があって初めて自由の価値があるのだ」とキッパリ言われてしまいました。
アラブ人は何かにつけてアメリカとイスラエルの悪口を言いますが、ここでもアメリカを引き合いに出していました。私はまだアメリカには行ったことがありませんが、「アメリカ=自由の国」という漠然とした良いイメージを持っています。

しかし、イスラム原理主義に傾倒して過激派に転じていくのは、むしろアメリカなど先進国に留学したインテリ組なんだそうです。犯罪の多発、薬物の乱用、所得格差、人種差別、過剰な飽食など、先進国社会の負の部分を目の当たりにして、何かが間違っていると感じ、その結果イスラムの探求に拍車がかかるのだと聞きました。本当に、自由って何なんでしょうね。

湾岸危機

1990年8月2日、イラク軍がクウェートに侵攻しました。サウジアラビア国内メディアはそのことには一切ふれず、またCNNなどの衛星放送受信も禁止されていたため、周囲では2日ほど何の話題にもなりませんでした。

東京本社からもとくに情報提供はなく、8月4日になってようやく「大変なことが起きてるらしい」という噂が飛び込んできました。ある日本人が、欧米人の集合住宅に行って衛星放送を見せてもらったところ、イラクのクウェート侵攻のニュースで持ちきりだったと言うのです。

翌日、5日の国内新聞に関連記事が出ました。アラブ各国の外相が集まり、イラク・クウェート問題について緊急会議が開催されるというニュースでした。この時点でも、イラクの軍事侵攻の詳細はまったく報道されておらず、職場のサウジ人にたずねても、「ニュースが少なくてよく分からない」という返事ばかりでした。

8月7日、ついに我々は招集され、緊急会議となりました。聞かされた報告は想像を遙かに超えて緊迫したものでした。クウェートで何が起こっているか、各国、特にアメリカの対応はどうか、今後どんなことが起こりえるのか。

もっとも驚かされたのが、「日本の商社は9日に○○社と□□社、12日までには他の全ての駐在員が出国します」という報告でした。これには集められた全員が顔を見合わせ「エッ!?」と絶句。

のんびりムードが消失し、一気に「最悪のシナリオ」をみんなが考え始めました。「我々はどうなるんだ」「飛行機は手配しているのか」語気を強めた質問が矢継ぎ早に繰り出されました。

我々の仕事は少し特殊で、出国するためにはサウジ政府と日本の外務省両方の許可が必要でした。そのため東京本社が「帰ってこい」と言っても簡単には帰れません。「出国できるか不透明だがとりあえず飛行機の予約をする」ということが確認され、会議は終わりました。

我々の出国についてサウジ政府は、「首都リヤドにまで危機がせまっている状況にはないが、やむを得ない」と理解を示してくれました。一方、日本の外務省は、「現地からは問題ないと聞いている、出国 (避難帰国) は許可できない」というものでした。

最終的には「特別休暇」という名目で出国することができましたが、最後まで「避難帰国」という言葉は使えなかったようです。当時、我々は総勢30名くらいの大所帯でした。一度に飛行機を確保するのは無理なので、8月15日から18日にかけて分散し出国しました。

家財道具や銀行口座もそのまま、このまま帰れなくなったらという一抹の不安はあったものの、とりあえず出国できたことにほっと胸をなで下ろしました。帰国すると日本はお盆の真っ最中。イラクやクウェートの話など、遠い遠い異国の地の昔話のようです。結局日本には1ヶ月ちょっといましたが、平和すぎる日本にほんの少し違和感を持った日々でした。

9月下旬、現地からの「危険はなくなった (最初から危険ではないと言っていた)」という督促に基づき、我々はまたリヤドに戻ることになりました。確かに、この間とくにリヤドで何か騒ぎがあったわけではなく、相変わらずアラブ諸国は対策会議に追われているものの何も解決策を見出せず、ただアメリカを中心とした国際社会がイラクに対する経済制裁を発動するなど、その包囲網をジワジワと縮めている状況でした。

そうこうしているうちに、「1月15日」という期限が設けられました。この日までにイラク軍がクウェートから撤退しないと、多国籍軍がイラクに軍事攻撃をかけるというものでした。その日から新聞には「あと○日」という時計のマークがつくようになり、11月、12月と決定打のないまま、次第に緊迫感が高まっていきました。

12月も押しつまり、ますます戦争の機運が高まってきました。職場では防毒マスクの注文書が回り、そこにはマスタードガスの特徴、症状などが詳細に記されていました。もう戦争不可避のムードが圧倒的に支配している中、東京本社も飛行機の予約に動いてくれていましたが、1月7日以降は極めて予約が取りにくい状況とのことでした。

フライトの数がぐっと減り、チケット代は高騰。本当は飛行機代が安く確実に席が取れる1月早々に、随伴家族くらいは出国させたかったようですが、結局、家族10数名分の席が1月9日出発でなんとか確保できました。

男性20名分は14日に予約は入れたものの、長い長いウエイティングリストと聞かされました。9日に家族をみんなで送り出した後、非常に重苦しい雰囲気に包まれたことを思い出します。

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湾岸戦争

1月12日、いよいよ期限が目前に迫ってきました。日本政府はこの時点でも「戦争はない」と言っていたようですが、結果はご存知のとおりです。状況を考えれば、仮にイラク軍が撤退を始めたとしても、米軍主導で開戦してしまう可能性すらあったのではないでしょうか。

なぜアメリカがここまで先陣を切ってペルシャ湾くんだりまで来ているのか、それは「その後」を睨んでいるからです。この楽勝の戦争を主導することで、今後アメリカは湾岸産油国に対し大いに発言権を増すことができるでしょう。まさにアメリカの国益にかなった戦争です。

ということで、またもや「特別休暇」という名目をいただき、我々は1月13日夜8時、リヤド国際空港に向かいました。実は我々の予約はまだウエイティングリストでしたが、「出発の6時間前に空港に来たらなんとかなる」という情報を信じ、かつて経験したことがないほど満杯に混み合う空港のチェックインカウンターに列を作りました。

あちらこちらで悲鳴や怒号が上がっていました。チケットがあっても乗れない人、札束を見せて「なんとかしろ」と迫る人、「もうこれで死ぬんだ」と泣き叫ぶ女性。そんな光景を目の当たりにし、修羅場とはこういうことなのかな、などとぼんやり考える自分。

2時間ほど待った後、急に、「よしOK!荷物を前に出して!」と号令がかかりました。一気に20人分の荷物を前に押しだしベルトコンベアに乗せると、ほどなく全員の搭乗券が発行されました。

そこから出国手続きの長い列に並び、パスポートチェックと荷物検査を終え、搭乗ゲートにたどり着いた時には、すでに午前0時を回っていました。「あと2時間で出発だ」とようやく少しほっとして、みんなとコーヒーで乾杯しました。

しかし午前2時になっても3時になっても搭乗のアナウンスがありません。どうやら、我々のカイロ行きの飛行機だけでなく、他もすべて止まっているようでした。一度、電光掲示板ですべてのフライトに「キャンセル」という表示も出ました。

ターミナルの照明が落ちたときは本当に真っ青になりましたが、もうあとは成り行きに任せるしかありません。そのままぐったりと待つこと2時間、ついに搭乗が開始されると、明け方5時過ぎ、ようやく飛行機は我々を乗せてカイロに飛び立ったのでした。

1月14日朝10時頃、我々はカイロのシェラトンホテルにチェックインしました。カイロのホテルはどこも湾岸諸国から避難してきた人たちで一杯で、ようやくここが取れたそうです。みんな少し仮眠を取り、夕方集合して今後の対策を練りました。

そもそも、リヤドから1000km西に離れた、つまりスカッドミサイルの射程圏外にあるジェッダへ避難する案はなかったのかというと、「紛争当事国においては国内移動しても避難したことにならない、避難するなら国外へ」という会社の規定がありました。

そして、「第三国へ避難する場合、滞在期間は最大2週間」という規定もありました。我々がカイロからリヤドに帰ることができるのは、「戦争が起きず2週間以内にすべてが解決する」か、「戦争が始まり2週間以内に多国籍軍が完全勝利する」という条件でした。

いずれにしろ、イラク軍撤退の期限はこの日の夜12時です。まずはそこでアメリカがどう出るかにかかっていました。夕食をすませた後、不安な気持ちを抱えたままベッドに入りました。

「リンリーン!」 突然、けたたましい電話のベルで起こされました。時間は午前3時。電話に出ると、「開戦した!テレビ!」と言われました。急いでテレビをつけると、CNNでブッシュ大統領の開戦演説が映し出されていました。「開戦するにしても早すぎる」一瞬そう思いましたが、どうせやるならイラク軍が撤退する素振りを見せないうちにという、よく考えれば当然のタイミングだったかもしれません。

これでリヤドに帰れる可能性はかなり少なくなりました。イラク軍も徹底抗戦するでしょうし、とても2週間で戦争が終わるとは思えませんでした。30分ほどテレビを見ていましたが、「ブッシュめ・・・」と悪態をついて、また眠ることにしました。

朝、再びみんなで集合、今後の対応策を話し合いました。飛行機会社をいくつか調べたら、カイロは中東の軍事拠点でもあるので、隣国が戦争に突入したからにはカイロ国際空港も当局の指揮下に置かれ、民間航空機の発着がかなり制限される、とのことでした。

実際、すでに19日以降のカイロ乗り入れ中止を発表した航空会社もあったそうで、もし規定どおり2週間待ったら、そのままカイロにカンヅメになるかもしれないと言われました。最終的には、どうせ帰れそうにないなら、飛行機があるうちに日本に戻った方が良い、という結論に至りました。

19日、まずカイロからアムステルダムに出ました。これは他にフライトの選択肢がなかったからです。事前に言われた通り、カイロ発着のフライトは極端に減っていました。

アムステルダムではちょうど良い連絡便がなくて、1泊することになりました。そして、なんでアムスから日本に直行便が取れなかったのか不思議ですが、今度はアンカレッジに向かいました。

アンカレッジは数時間のトランジットでしたが、長い時間飛行機に乗っていたはずなのに時間がえらく前に戻っていたりして、いったい今が何日の何時なのかわからなくなってしまいました。

日本に戻ってきたのは1月22日の朝だったかな? もう記憶もおぼろです。それからリヤドに戻ることができたのは、約3ヶ月後のことでした。

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後日、スカッドマップなるものを入手しました。リヤド市内と近郊に落ちたスカッドミサイルが記された地図です。「うわ!10発以上落ちてる」思わず飲んでいたジュースを吹き出してしまいました。

また、パトリオット迎撃ミサイルもそれなりにスカッドに命中していたそうですが、結局ものすごく破片が飛び散るので、打ち落としても住宅街にけっこうな被害が出たそうです。

リヤドの町を車で走ると、以前よりかなり静かでした。1991年4月半ばの段階ではまだあまり外国人は戻ってきておらず、町の雰囲気が元に戻ったのはしばらくしてからです。

そんな中で、繁盛しているお店もありました。写真屋です。目玉商品は、パトリオットミサイルがスカッドを打ち落とす瞬間の写真。地上から爆発点までパトリオットの噴射炎の軌跡がきれいに写されていました。飛ぶように売れていて、これを撮影したカメラマンが大金を手に入れたというのも納得。

ひとつ憂鬱だったのは、イラク軍がクウェートから逃げる時、油田に火を放ったことです。黒煙は気流に乗ってリヤドに到達し、時には曇り空でもないのにうっすら日が陰ることもありました。

その年、サウジアラビア政府はアメリカから大量の武器を購入したことにより、建国以来初の財政赤字になったそうです。イスラムの聖地に米軍を受け入れたことも、国民の不評を買うところとなりました。

その後、リヤドでも米軍や外国人への爆弾テロがありましたが、湾岸戦争において、地域の大国としてサウジアラビアが取った行動は、果たして正しかったのか。もちろん、政治や外交に正解はなく、あるのはただ結果のみです。

写真禁止

イスラム教は偶像崇拝を禁じています。そのため、唯一神アッラーはもちろん、預言者ムハンマド (マホメット) ですら、絵画に描かれることはありません。キリストが絵画や彫刻のモチーフに数限りなく用いられるのとは対照的です。

写真は、おそらく偶像崇拝につながると考えられているのでしょう、戒律の厳しいアラビア湾岸諸国では、人物の写真を撮影することがあまり一般的ではありませんでした。子供の写真をいつもサイフに入れていた人もいましたが、普通の大人は、写真に取られることはかなり嫌がります。

ある時、リヤド工業高校を見学する機会があったので、教室やワークショップで写真を撮ろうとしたら、一部の生徒から「写真には撮らないでくれ」と苦情が来ました。仕方なくその人達にはフレームの外にはずれてもらって撮りましたが、後で同行したスタッフに「やっぱり偶像禁止から写真を毛嫌いしているの?」とたずねてみると、なんとも意外な答えが。

曰く、写真機がサウジアラビアに入ってきたのはそれほど古いことではない、まだ人々は写真に対して「魂を取られる」と信じているふしがある、とのことでした。みんなヒゲ面のおっさんなのに (真面目な人はヒゲを剃らない)、そう考えるとちょっと可愛い感じ?

リヤドでは、町の中も基本的には写真撮影禁止でした。ショッピングセンターなどでもし写真を撮っているのが見つかれば、カメラの没収だけでなく、警察署に連行されてこっぴどく怒られるのは目に見えていました。そこまで危険を冒したくはなかったので、町の写真撮影を決行したのは、離任を目前に控えた8月のある金曜日のことでした。

普通、金曜日の朝はほとんど人が出歩いていません。家を出て、あちこち車を飛ばし、何枚か写真を撮りましたが、本当にもうドキドキでした。Pentax LXとかContax T2とかそれなりのカメラは持っていましたが、最悪、没収されても良いように、一番安いカメラを持って出かけました。結局何事もなく撮影は完了したので、それならもっと良いカメラで撮ればよかったと少し後悔したのでした。

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