世界各国の料理や珍味・ゲテモノの類を、さほど偏見もなく受け入れ喜んで食べる、あるいは一度は食べてみたいと想像を働かせる、そんな「雑食性」においては、日本人ほど積極的な国民は珍しいと思います。
大多数の日本人には宗教的な縛りがないことも影響しているでしょうが、生来の食いしん坊という国民性なのかもしれません。こうした国民性は日本に昔から伝わる料理にも常に変化の風をもたらし、レストラン料理のバリエーションにも如実に現れます。
他店との差別化を図るというビジネス上の戦略もあるでしょうが、やはりそこには独自の味を追求するという向上心や探究心、好奇心や想像力が根底にあるのだと思います。和洋折衷など良いものをどんどん取り入れる節操の無さ (良い意味で) は、まさに日本的です。
例えば醤油ラーメン。一口に醤油ラーメンと言っても、お店によって味わいやトッピングは千差万別。使う出汁から麺の種類も違えば、チャーシューなんてそれこそ各店がしのぎを削っています。消費者もまた敏感ですから、美味しいお店は必ず繁盛します。
一例として、フレンチシェフが作るラーメンも含めて異なる4店の醤油ラーメンの写真を出そうかなと思ったのですが、よく考えたらひとつのお店ですら、複数の醤油ラーメンを出すことがあるのに気がつきました。
静岡市「ここん」のラーメンはどれも個性的な味わいで甲乙つけがたい美味しさです。写真はそれぞれ醤油らぁ麺、鶏ガラ中華そば、濃厚醤油らぁ麺、水出し煮干しかけ。なんと4種の醤油味、加えて他にもラーメン多数。店主の情熱には本当に恐れ入ります。
自分がこれまで住んだ国々 (中東、アフリカ、大洋州、東南アジア) では、日本人とくらべたらほとんどが食に保守的な人たちでした。個別に食事に誘うあるいは仕事で食事会を準備する場合も、その国の食べ物、生まれてからずっと食べているものがベストであって、それ以外をわざわざ食べる必要はない、という反応が当たり前でした。
エチオピア人がいつもインジェラばかりでは飽きてしまうだろうと思い、たまに出張先で中華やイタリアンに誘ったりしましたが、ことごとく断られました。白米ですら「そんな貧相なものは食えない」でした。彼らにとってはインジェラこそが至高です。
■エチオピア料理
インドネシア人の多くはイスラム教徒で食事に制約があるため、外国料理には手を出しづらいというのは理解できましたが、そのあたりほとんど制約がないであろうタイでも、思っていたよりみんなずっと食に保守的でした。
バンコクのタイ人は新しもの好きなので、日本のお寿司もラーメンも、台湾のタピオカミルクティーにも、新規開店には長い行列ができたりします。けれどもやはり結局は、食べ慣れたもの、タイ料理もしくはタイ中華が一番美味しいということでした。
もっと言えば、例えばタイ東北地方 (イサーン) の人なら、基本はイサーン料理ばかり食べているイメージです。タイ料理全般ではなく、自分の出身地の料理。そんな、よりローカルな食の嗜好が見て取れました。
バンコクにはイサーンから出稼ぎに来た労働者がたくさんいて、その分イサーン料理店 (屋台含む) もたくさんありましたから、普通に毎日イサーンのご飯が食べられる環境だと聞きました。
■タイ東北料理
昔から中国人は何でも食べると言われます。それこそ羽の生えたものなら飛行機以外、四足なら机以外すべて食べるとも (←ジョークです)。ムカデはさすがに食べないものの、料理でムカデを型どったものがあり、そこには執念すら感じます。
ただしそれも、すべて中華料理仕立てにした場合です。さらに、中華料理は地方ごとのバリエーションは豊富ながら、その地方の料理で見ると、レシピはかなり固定化されているのではないでしょうか。
ウズベキスタンの場合ですが、中華料理屋のメニューに、例えば「醤油ラーメン」などと漠然とした、半ばオリジナルメニューのようなものは一切ありません。すべて既存の料理名で、そこには定番のレシピが存在します。当然、出てくる料理はほぼ同じもの。
■清湯牛肉麺@タシケント
定番料理のトマトと卵の炒めものも、どこで食べても具材は愚直なまでにトマトと卵です。もしこれが日本だったら、たちまち挽き肉や小海老など具材を追加したアレンジが生まれるような気がします。
近年は、外国料理に親しむ中国人も多くなったとは思いますが、いずれにしても定番レシピの中華料理が世界一という気持ちは、いつまでも変わらないのではないでしょうか。なので、意外と「何でも食べる」わけではないのかなと。
■西紅柿炒鶏蛋
さて、そういう目でウズベキスタン料理を見てみると、まさにこれまでと同じことが言えます。プロフにしてもラグマンにしても、どのお店で食べても見た目も味もほぼ同じ。ソムサに至ってはお肉はしずく型 (ハリネズミ型)、ポテトは俵型 (マウス型) など形まで同じです。
良く言えば安心して食べることができるわけですが、すでに食べる前から味が予想できるという意味では、個人的にはちょっと物足りない部分も。いくつかウズベキスタン料理の写真をあげますが、大同小異というよりは、まるでコピーですね。
■プロフ (トイオシュ)
■プロフ (ジギルオシュ)
■ラグマン
■ソムサ
■ビフシュテークス
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多様性が不可欠であると、声高に叫ぶ人が増えた昨今の世界。そもそも多様性とは何なのか。個人的な解釈では、自分とは違う人達がいることを認め、お互いのルールを無理強いしないことだと考えます。受け入れるでもなく、突き放すでもなく。
多様性とは、わかり合うことではなく、お互いの違いを認め (違う人達がいることを認識して)、ほどよい距離感でそれぞれの社会を形成していく、ということなのかなと。ともすれば無関心と捉えられるので、かなり消極的な意見ですが。
「郷に入っては郷に従え」。これって自発的なら良いですけれど、外国人に自国のルールを押し付けているのであれば、多様性とは真逆ですよね。日本人はこの自発的行動が、どの国・地域に行ってもできる珍しい国民だと信じています。
なぜなら、世の中に絶対はないと考える人が多いから。良いものは取り入れるし、美味しいものは食べる。多くの日本人は、ウズキスタン料理を出されたら何でも食べるでしょう。多少おっかなびっくりであっても、とりあえず口をつけてみる。
でも、イスラム教徒のウズベキスタン人は、豚肉やお酒 (ラードやポークエキス、みりんや料理酒含む) が入った料理を食べることができません。さらに言えば、牛肉や羊肉であっても、イスラム教徒がアッラーの名を唱えて屠殺したものでなければ「ハラール」と認められず、本来口にすることができません。
イスラム教徒に「出されたものは何でも食べろ」とは言えませんし、「トンカツって本当に美味しいから騙されたと思って一度食べてみて」なんてことは、たとえ親切心から言ったとしても、彼らにとっては地獄への片道切符でしかありません。
「イスラム教徒の気持ちを理解するため、モスクに行ってお祈りしてみよう」なんて企画が日本では成立しそうですが、ユダヤ教徒にそんなことを持ちかけたら、侮蔑の眼差しで見下されることは確実です。たぶんキリスト教徒も同じでしょう。
宗教を否定するつもりはありませんが (必要とする人がいることはエチオピアで思い知らされましたから)、世の中に宗教がある限り、それぞれの絶対的価値観がある限り、わかり合えるわけないんです。
あるいは、それらを乗り越えることができる「人類共通の正義」ってあるんでしょうか。あるとしたら人の命に他ならないと思いますが、未だに戦争がなくならないんだから、実際はそれも怪しいですね。
■まとめ
自分としては、「困った時の神頼み」くらいが一番ちょうどよい神様との付き合い方だと思います。そして、何でも食べる (ことができる) 日本人が、今のところ世界でもっとも多様性を体現する国民ではないかなと、密かに思う今日この頃です。
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■補足
「ラーメンと違ってカツ丼とかどれも同じじゃないか」という意見はごもっとも。たしかに見た目は変わらないし味もさほど。ただ、醤油が濃い、砂糖が甘い、出汁が効いている、肉の部位が違うなどといった異なる感想は必ず出るはず。その度合いは、プロフやラグマンを食べた時より、確実に大きいです。