「君たちはどう生きるか」(現地語タイトル:мальчик и птица=少年と鳥) がウズベキスタンでも公開されたので、週末、映画館に行って観てきました。
他の外国映画と同じくロシア語吹替え版でしたが、日本で7月に観ていたのでストーリーは一応わかっているし、それほど不安もなく鑑賞スタート。
場内は珍しくたくさんお客さんが入っていて、ロシア語圏でも宮崎駿監督の人気は高いんだなと、うれしくなりました。
ひとつ日本と共通だったのは、唯一笑い声が上がったのが、異世界のドアから眞人とヒミを追ってきた勢いで、現世に飛び出てしまったインコ軍団が、眞人の父親のスーツをフンだらけにしてしまったシーン。
日本では近くに座っていた子供たちが笑っていましたが、同じところでウズベキスタン人も笑うんだなと感心してしまいました。
さて、今回も内容 (監督のメッセージ) を理解したかと言われれば、まったく自信はありませんが、ひとつ言えるのは、1回目よりも2回目の今回の方が、心に響くものがあったということ。
それはラスト前のシーン、大伯父が生涯をかけて取り組んできたものが、眞人にあっさり拒否されてしまったこと。それがもう実に哀れで。。。
もちろん眞人にも言い分があって、自分には悪意があるから大伯父の仕事を引き継ぐことはできないという理屈。
余談ですが、この自身の悪意 (原罪) を受入れ、それでも生きていくという部分は、漫画版のナウシカを思い起こします。
そうして崩壊していく世界 (実際にはインコのせい)。大伯父が守っていた「世界」とはなんだったのか。実際は取るに足らない、ちっぽけなものだったのではないか。
自分のことをふり返ってみると、自分は家業を継ぐ意思が端からなかったので、残されたもの (畑) はすべて潰しました。
「親は親、自分は自分」と、早くから自立したつもりですが、決断に先立って親子の対話があったかというと、そこはほぼなし。
世間から見れば小さな土地で、自分はそこに何ら価値を見いだせなかったのですが、今となっては、自分のやったことは親の人生の否定だったかもしれないと、後悔にも似た気持ちになったりします。
なので眞人に対しても、「もう少し話を聞いてあげればいいのに」と、そんな風に思ったり、また大伯父の切ない気持ちがわかるような気がしました。
そう考えると宮崎駿は、「自分が作ってきた世界は引き継がなくていい、君たちは君たちの世界を作ってくれ」と、業界 (身内) に向けてメッセージを送っているのかもしれないと思いました。
しょせん小さな世界だという自虐も込めつつ、しかしその自虐を全力で否定してほしい (自身の足跡を肯定してほしい) という気持ちも見え隠れしたり。
だって過去作の膨大なイメージがオマージュされていたし、それはつまり「これを超えてみろ」という挑戦状に他なりません。
子が親を超えるというのは、宿命でもあり、未来でもあり、けれどもそこには残酷さも垣間見えて。でも結局、自分の道を決めるのは自分、そう考えるしかないですよね。