A Dog's World 

~海外で暮らす・日々の記録・旅の記憶~   

古都ブハラ旅行(ブハラ・ユダヤ人)

ブハラ旧市街観光の起点にもなっているラビハウズの南側、迷路のように入り組んだ細い路地の一角に、シナゴーグ (ユダヤ教の会堂) と「ブハラ・ユダヤ人」の歴史を紹介するミュージアム「Bukhara Jewish Old House」があります (*Map)。

シナゴーグの扉が閉まっていたので、看板がかかるこちらの方を「ちょっとのぞいてみるか」くらいの気持ちで入りましたが、意外にもブハラで一番心に響いた場所になりました。

入場料25,000スム/300円を支払い、主と一緒に地下の展示室に入ると、主の説明 (英語) を聞きながら、往時の情景にあれこれ思いを馳せました。同時に、ガザの現状が頭をよぎり、なんとも言いようのない感情が。

ソビエト連邦崩壊以降、ほとんどのブハラ・ユダヤ人がウズベキスタンを離れ、イスラエルや欧米に移住しましたが (宗教的な意義だけでなく、経済的な苦境も大きかったそう)、中には定期的にブハラに戻ってくる方も多いのだそうです。

先日、数十年ぶりに戻られたという老年の女性は、地下の展示室に置かれた木箱を見るやいなや、「私の嫁入り道具の木箱に間違いない」と言い、懐かしさに涙を流されたそうです。(そうした強い思い、残留思念を感じたような気も)

こうした地下室は、夏場50度にも達するブハラでは、貯蔵庫兼避暑部屋としてよく作られていたのだそう。逆に今の季節 (冬) も安定した温度 (20度くらい) を保っていて、なかなか快適でした。

広いホールは主に写真の展示室になっていて、ロシアの大富豪もしくは大富豪夫人は、なぜかブハラ・ユダヤ人が多いなどの豆知識を聞かされました。ソ連時代はスポーツや芸術分野で世界に名が知られた方も多かったようですね。

ブハラ・ハン国 (16世紀初頭~20世紀初頭) の初期の頃の話だと思いますが、当時はまだブハラにもシナゴーグがなく、イスラム教徒と一緒にモスクで祈りを捧げていたという話を聞きました。

その後はシナゴーグも徐々に建てられていき、時代とともに確執が生まれていったようですが、もともと同じ「啓典の民」ですからね。

当時は祈る方角も同じだったとのことで (たぶんエルサレムとメッカでほぼ同じという意味かと)、それを聞くにつけ、数百年前まで互いに寛容だった両者が、なぜ現代においてこうまで憎しみ合わねばならないのか、絶望にも似た感情が込み上げてくるのでした。

地下を見終えると地上に戻り、寄り合い所 (兼礼拝所) を見学。色は塗り替えられましたが、地の壁は当時のものをそのまま残しているとのこと。カラフルでいいですね。

続いて、最近リニューアルオープンしたというホール (いまはショップ)。こちらの壁は本当に当時のままで、この渋い色合いが実に素晴らしいなと。

入り口の扉 (内側) にはユダヤの六芒星が。国民の大多数がイスラム教徒の国でこのマークを見ると、サウジアラビアにいた時のことを思い出してちょっとビクッとしてしまいますが、「いや別にいいんだよ」と変に安心した自分でした。

* * *

ブハラ・ユダヤ人
ブハラ・ユダヤ人 (Bukharan Jews) とは、中央アジアに住みブハラ語を話すユダヤ人。その名はかつて大きなユダヤ人コミュニティのあったブハラ・ハン国 (16世紀初頭~20世紀初頭) に由来する。

ソビエト連邦の崩壊以降、ウズベキスタンでも移住の制限が緩和され、ほとんどのブハラ・ユダヤ人がイスラエルやアメリカ、またはヨーロッパ、オーストラリア等に移住した。

ブハラ・ユダヤ人の中には、自らの祖先を「イスラエルの失われた10支族 (のうちのナフタリ族、イッサカル族)」に結びつける者もいるが、より多くは、ペーローズ1世 (在位西暦459~484年) の迫害から逃れた、ペルシャ系ユダヤ人の移住と関連付けている。

ユダヤ人は6世紀に中央アジアに定住し、8世紀から9世紀にかけてバルフ、ホラズム、メルブなどの中央アジアの都市に住んでいたことは確かとされている。

ブハラ・ユダヤ人は中央アジアで最も古い民族宗教集団のひとつであり、独自の文化を発展させてきた。長年にわたり、ユダヤ人はイラク、イラン、イエメン、シリア、モロッコなどから (シルクロードを経由して) 中央アジアに移住した。

18世紀になると、ブハラ・ユダヤ人はイスラム教徒から差別と迫害を受けるようになる。ユダヤ人センターは閉鎖され、改宗を強制され、ブハラ・ユダヤ人の人口は大幅に減少していった。

そうしてブハラ・ユダヤ教の知識と実践が不足し始めた時代の1793年、モロッコ出身のセファルディム (※注) であるラビ・ヨセフ・マイモンがブハラを訪れた。

※注:ユダヤ系ディアスポラのうち、ドイツ語圏・東欧諸国に定住した人々をアシュケナジムと呼び、それ以外をセファルディムと呼ぶ。

ラビ・マイモンは、ブハラ・ユダヤ人たちがペルシャの宗教的伝統・儀式に従っているとして、セファルディムの伝統を踏襲するよう強く主張したため、コミュニティは一時、二分されてしまった。

最終的にマイモン派が優勢となり、ブハラ・ユダヤ人たちはセファルディムの伝統・儀式に切り替えたとされ、これは消滅の危機に貧していたこの地域のユダヤ教の慣習を復活させた、マイモンの功績とされている。

1865年、ロシア軍がタシケントを占領し、この地域もロシア領トルキスタンとなり、ユダヤ人が大量に流入した。1876 年から 1916 年まで、ユダヤ人は自由にユダヤ教を信仰することができ、またスポーツや芸術分野で活躍し、国民から尊敬を集める者もたくさんいた。

一方で、ブハラ・ユダヤ人は路上で自転車に乗ることを禁じられ、独特の衣服を着なければならなかった。 彼らはゲットーに追いやられ、イスラム教徒多数派からの迫害の対象になることが多かった。

ロシア革命後、シナゴーグはソ連当局により破壊されるか閉鎖され、また1920年代後半にスターリンが第一次5ヵ年計画を開始すると、ブハラ・ユダヤ人の生活条件は劇的に悪化した。

そのため、1930年代半ばにソ連が中央アジアの国境支配を確立 (移動を制限) するまでに、中央アジアから数万世帯が国境を越えていったとされる。

逆に、第二次世界大戦とホロコーストにより、ソ連や東ヨーロッパから多くのアシュケナジムが難民として、ウズベキスタン経由でこの地域に流入した。

1972年からソ連の規制が緩和されたことにより、ウズベキスタンとタジキスタンにいた大半のユダヤ人がイスラエルと米国に移住し、史上最大規模のブハラ・ユダヤ人移民が発生した。

1980年代後半から1990年代前半にかけて、ブハラに残っていたユダヤ人のほとんどがイスラエルとアメリカ、またはヨーロッパ、オーストラリアに向けて移住していった。

今日、ブハラ・ユダヤ人 (の子孫) はイスラエルに16万人、アメリカに12万人が住んでいる (世界合計は32万人)。ウズベキスタン国内のユダヤ人人口は約1万人で (※注)、ブハラ1000人 (200世帯)、サマルカンド1500人、フェルガナ1300人、タシケント3700人、残りの地域に2300人である (2021年国勢調査)。

※注:1万人にはブハラ・ユダヤ人だけでなく、アシュケナジムも含まれている (ブハラ・ユダヤ人は1500人)。