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~海外で暮らす・日々の記録・旅の記憶~   

古都ブハラ旅行(1日目)

土曜日から2泊3日でブハラに行ってきました。ブハラ (Bukhara/Buxoro) はウズベキスタンの首都タシケントから西南西440kmに位置するブハラ州の州都。古代より栄えたオアシス都市で、1993年には、旧市街地がユネスコの世界遺産に登録されました。人口28万人 (2020年)。

サマルカンドと並ぶソグディアナ (中央アジアのアムダリヤ川とシルダリヤ川の間に位置するザラフシャン川流域地方の古名) の中心都市であり、イスラーム時代以降、特にサーマーン朝 (873~999年:イラン系イスラム王朝) の首都となってからは、イラン・中央アジアにおける最も重要な都市のひとつでした。

20世紀の初頭までブハラ・アミール国 (ブハラ・ハン国) の首都が置かれ、西トルキスタンにおける政治・文化の中心都市であり、サーマーン朝に始まる近世ペルシア語文学の発信源としてこの都市が残した足跡は大きいとされます。

ペルシア語に加え、チャガタイ語 (テュルク系言語にペルシア語やアラビア語の語彙語法を加えた言語) の文芸運動を隆盛させ、その中心都市として発展。このような歴史背景から、多くの住民がタジク人としてのアイデンティティーを持ち、タジク語 () が広く話されているそうです。

※タジク語:主にタジキスタン共和国とウズベキスタンのタジク人が母語としている言語で、タジキスタン共和国の公用語。歴史的には「ペルシア語」(ファールシー) と呼ばれていた言語であり、「タジク語」という名称は当時のソ連国内のペルシア語を指す呼称として1920年代に作られたもの。標準語はサマルカンド、ブハラ地方の方言 (ドゥシャンベの北西部もこの方言圏に含まれる) に基づいている。

さて、ブハラ旅行はもう最初から最後までハイライトに次ぐハイライトで、あまりにもたくさんのものを見たため、頭の中がぜんぜん整理できていない状態です。写真も無我夢中で1000枚以上撮っていました。

なので、まずは3日間の行動、見て回った場所を簡潔に上げ、その後、ブハラで食べた物、とくに印象に残った場所などについて、順次投稿していきたいなと。では、1日目の行動から。

* * *

タシケント~ブハラ
11月25日 (土)、自宅を朝6時半に出発。高速鉄道アフロシヨブに乗って、07:28タシケント発、11:34ブハラ着。ほぼオンタイム。

座席は真ん中の対面席かつ進行方向は後ろ向きと最悪。スタッフに買ってきてもらった自分が悪い (アプリで座席の空き具合を確認し、座席指定で買ってきてもらえばよかった)。

広角レンズなので向かいの席と離れているように見えますが、実際は狭いです。お互い足は伸ばせません。。

ブハラ駅~ホテル
便利なタクシーアプリ "Yandex" が稼働せず (Service not available)。仕方なく、地元民の倍くらい取られているんだろうなと思いつつ、5万スム/600円でタクシー乗車。英語が上手な運転手だったので、その分高かったのかも。

宿泊先は「スルタンホテル (Sultan Hotel)」。ブハラ観光の起点となる「ラビハウズ」の真横にあり立地は最高。その割に1泊40ドルとさほど高くなかったのは、このエリアにホテルが乱立しているせいか、あるいはすでに観光シーズンが終わっていたからか。ホテルはガラガラでした。

昼食@The Plov
ブハラのプロフ「オシュ・ソフィ」をいただきました。いろいろなサイトのレビューを読むと、ブハラでもっとも人気のあるプロフ店だと思います。料理については後でまたまとめて書く予定。


腹ごしらえが完了し、いざ観光スタート、ところが。。ブハラのオールドタウンエリアは、歴史的な建物に囲まれています。本当にそんな建物がありすぎて、ガイドブックの地図を見てもなかなか頭に入ってきませんでした。

そんな中、ラビハウズ (池) のほとりにある「ナディール・ディヴァンベギ・ハナカ」にブハラ旧市街の都市模型があり、これを見てようやくはっきりこのエリアを空間的に捉えることができました (西側/写真向かって左側は縮尺が適当ですが・・)。

①チョル・ミナル
チョル・ミナルは「4つのミナレット」の意。他の見どころとは少し離れた、旧市街の東側、狭い路地裏にあります。1807年、トルクメニスタン人の富豪によりメドレセの門番小屋として建てられましたが、メドレセそのものは残っていません。当時、本当にミナレットの上にコウノトリの巣があったそうです。今はレプリカ設置。

②クカリダシュ・メドレセ
サマルカンドもそうでしたが、ブハラのこうした建物の内部には、どこもお土産ショップが並んでいます。また、ブハラの場合は必ずひとつ、取ってつけたようなミュージアムが併設されています (入場料1~2万スム/120~240円くらい)。クカリダシュ・メドレセは「当時の神学生の部屋」でした。自分はお布施のつもりで、入ったメドレセにあったミュージアムはすべて見学しました。

③ナディール・ディヴァンベギ・メドレセ
1622年、大臣であったナディール・デヴァンべギによって建てられた神学校。正面は色鮮やかなタイルで装飾されています。正面入口上部には、2羽の鳥 (鳳凰?フモ/Khumo?) が鹿をつかみ太陽に向かって飛んでいるの図。サマルカンドのシェルドル・メドレセと同じ人面太陽ですね。

④ラビ・ハウズ (Labi Hovuz/Lyabi Khauz)
ハウズとは池のこと。1620年に造成。ナディール・デヴァンべギ大臣が土地の提供を渋るオーナーに嫌がらせをして土地を収容したため (オーナーの屋敷の下に運河を通したため屋敷が流された)、「力ずくのハウズ」と呼ばれていたそう。昼も夜も、市民の憩いの場になっています。

⑤ナディール・ディヴァンベギ・ハナカ
ラビハウズの西側に建つ、1620年建設のハナカ (イスラム神秘主義教団の信者の寄り合い所)。内部には土器・陶器のミュージアム。旧市街の都市模型も。

⑥タキ・サラフォン
「タキ」という意識なしに、ただ通っただけ。

⑦タキ・テルパクフルシャン
最初はモスクを改造してお土産ショップにしているのかと思いましたが、これがブハラの伝統的なバザール「タキ (Toqi)」だったんですね (大通りの交差点を丸屋根で覆ったバザール)。雰囲気があってよろしいです。初日は物欲を抑え、何があるかだけチェック。

⑧アブドゥルアジズ・ハン・メドレセ
ウルグベク・メドレセの200年後に建てられた神学校。中庭を囲んで2階にアーケード状の部屋が作られ、夏の礼拝室、冬の礼拝室などがあります。向かい側のウルグベク・メドレセとデザイン (200年の時の差) を比べてみるのも一興です。内部には木の彫刻ミュージアムが。展示の彫刻品よりもミュージアム内部の壁のほうがすごいです。

⑨ウルグベク・メドレセ
ティムール朝第4代君主ウルグ・ベク (在位1447年~1449年) が建てた3つの神学校のうちのひとつ (ブハラ、ギジュドゥヴァン、サマルカンド)。現存する中央アジアで最古の神学校です (1418年創設、1585年修復)。内部には書道アートミュージアム。

⑩タキ・ザルガロン
ウルグベク・メドレセの横。ここもとりあえず素通り。

⑪ミル・アラブ・メドレセ
カラーン・モスクの向かい側に位置する現役の神学校、1536年創設。1階は講義室と図書室、2階が寄宿舎になっています。内部は見学不可。ソ連時代に中央アジアで開校を認められていた数少ない神学校のひとつ。

⑫カラーン・モスク&ミナレット
「カラーン (Kalon)」はタジク語で「大きい」の意。1127年にカラ・ハン朝のアルスラン・ハンにより建てられた、高さ46メートルのミナレットは、街のどこからでも目に入ります。18~19世紀には死刑場となり、袋に詰めた死刑囚を塔の上から投げ落とし「死の塔」と呼ばれ人々から恐れられていたそうです。

⑬アルク城
この城のあたりが古代ブハラ発祥の地で、それは2000年以上も昔に遡れるのだそうです。ただし最初の砦がいつ築かれたのかは不明。7世紀に女王フッタ・ハウトンがこの城でアラブと戦い、13世紀のモンゴル来襲の際には立てこもった多くのブハラの民がチンギス・ハーンの軍隊に殺められ、城も破壊されたそうです。その後も外敵による破壊と修復を繰り返し、現在残っているのは18世紀のもの。1920年にソ連軍に侵略され滅亡するまで、ブハラ・ハンの居城でした。2000スム札 (24円) の図柄にもなっています。

アルク城から臨む旧市街のモスク/メドレセ群。

夕食@Old Bukhara
名物料理「ヴァグリ」をいただきました。タシケントでも一度食べましたが、本場の味はやはり良かった。満足。(料理はまた後でまとめます)

おまけ:スルタンホテル前の夜景 (ホテルの屋上から)

「ブハラ歴史地区」として世界遺産に登録されたブハラ旧市街の観光は、徒歩移動が基本。この日は半日で12km歩きました (スマホの自動計測)。観光中は景観のあまりの素晴らしさに疲れも忘れてひたすら歩き続けましたが、ホテルに戻った途端、ドッと疲れが出ました。あまりに足がだるかったので、自分としては珍しく湯船にお湯を張ってお風呂に入りました。ありがたや。