ヨルダンに住んでいたのはもう20年も前のことですが、サウジアラビアやエジプトにいた時とは比べ物にならないくらい、それこそ毎日のようにパレスチナ問題がニュースに上がり、自分の耳にも入ってきました。
ヨルダンの国民構成も半数はパレスチナ系住民 (国籍上はヨルダン人) で、職場でも話を聞く人によって、ヨルダン政府の内政・外交姿勢に対する評価が真逆になるといったことも経験しました。
当時書いた、パレスチナ問題の経緯と、ヨルダン北部の国境の村に行ったときに聞いた話を再録。(※パレスチナの地図は新しいものを掲載)
パレスチナ問題
もともとパレスチナという呼称はフィリスティア(ペリシテ人の国)に由来し、ローマ・ビザンチン支配のもとではシリアの行政区画であり (大シリア)、アラブ支配もこれを受け継いでフィラスティーン軍区を置きました。
その後、パレスチナは漠然とシリア南部地方を指すものでしたが、20世紀に入り、南部シリアのうちヨルダン川の西側地域をパレスタインと定め、そこにイラクやヨルダンと同様、国際連盟の名によるイギリス委任統治が決定されていく過程において、パレスチナの地域的区画は明確になりました。
こうして、ユダヤ人国家建設予定地の中に囲い込まれたアラブ系住民が、その後の紛争を通じてパレスチナ人となっていきました。
1915年、イギリスの高等弁務官マクマホンは、メッカのシャリーフであるフセインに対し、対オスマントルコ戦の協力を取り付けるため、パレスチナのアラブ人居住地の独立支持を約束します(フセイン・マクマホン書簡)。
これがアラビアのロレンスで名高いアラブの反乱に結びつきましたが、翌1916年、イギリス外相バルフォアは、ユダヤ系資本の援助などを目的に、英国シオニスト連盟会長に対しパレスチナにユダヤ人の民族国家を建設することを認めます(バルフォア宣言)。
さらに1917年、イギリス代表サイクスはフランス代表ピコと、大戦後のオスマントルコ領の分割案を密約します(サイクス・ピコ協定)。これら3つのものは互いに矛盾し、その後のパレスチナ紛争の原因となりました。
パレスチナへのユダヤ人入植は、19世紀末の帝政ロシアによるポグロム(ユダヤ人虐殺)扇動のもとですでに始まっていました。
シオニズム運動を20世紀の中東支配に利用しようとしたイギリスが、パレスチナにユダヤ人の民族的郷土を設立することに賛成(バルフォア宣言)するとこの動きは本格化し、ことに1930年代のナチスによる異常なユダヤ人弾圧が拍車をかけました。
移住はアメリカを中心とする諸財団・基金によって促進されましたが、その裏に欧米の反ユダヤ主義があったことは否定できません (嫌われ者は故郷に帰れということ)。
1936〜39年にはアラブ住民による強い抵抗運動がありましたが、その後パレスチナ分割決議案が国際的に議論される過程においては、すでにパレスチナ側の政治的・軍事的抵抗力は破壊されており、国際社会もパレスチナ人の自決権に顧慮を払いませんでした。
1948年5月、イスラエル国家の樹立とともに、アラブ諸国とイスラエルの間で武力紛争が始まりました。その中で大規模な戦争に発展したものが4度あります。
48〜49年の第1次(パレスチナ戦争/イスラエル独立戦争)、56年の第2次(スエズ戦争/シナイ戦争)、67年の第3次(6月戦争/6日戦争)、73年の第4次(ラマダン戦争/ヨムキプル戦争)です。
とくに第3次戦争におけるイスラエルの圧倒的勝利は、第1次戦争後に固定されていた休戦ラインを超えて広大なイスラエル占領地(ヨルダン川西岸、ガザ、ゴラン高原、シナイ半島)を作りだしました。
結果、それらの領域内に多数のパレスチナ人住民を抱え込んでしまったイスラエルは、シオニズムの目標であったユダヤ人国家から大きく変質していきます。
第4次戦争やアメリカ主導の中東和平工作は、キャンプデービッド合意に基づくエジプト・イスラエル和平条約などの前向きな変化を生み出しましたが、その他の面では第3次戦争が作りだした歪な現実を逆に固定するよう作用しました。
第3次戦争の後、PLOは他の抵抗運動組織(PFLPやファタハ)を基盤に再編成され、イスラム教徒、ユダヤ教徒、キリスト教徒が共存する単一の民主的・非宗派的パレスチナ社会の建設を目標とするようになりました。イスラエル市民を巻き込む形で新しいパレスチナ社会の形成が目指されたのです。
しかし、第4次戦争の双方の呼称が示すように、アラブ諸国対イスラエルという対立図式の中で、パレスチナ問題は、イスラムとユダヤの宗教抗争であるいう点が強調されるようになりました。そこには、パレスチナ人の自決権が存在しません。
一方、本来は多様なイデオロギー的立場をもつユダヤ知識人の非宗教的運動として出発したはずのシオニズムも、いよいよユダヤ教正統派の権威と切り離せなくなりました。
近年になっても、パレスチナ人の自爆テロやイスラム過激派による攻撃と、それに報復するイスラエルの軍事作戦は、エスカレートこそすれ、終息する気配は見えません。
ゴラン高原
イルビド県の一番北にあるサハム村は、ヨルダン最北に位置する国境の村です。ヤルムーク川を国境線として、対岸にはイスラエル領ゴラン高原が広がっています。
国境と聞くとどこかものものしい感じがしますが、そこは川の浸食によって数百メートルの渓谷となっており、その素晴らしい眺めから多くの家族連れでにぎわう行楽地となっています。
ただし、常に警備の軍人が目を光らせており、基本的にはイスラエル領の写真撮影は禁止されています。
この時一緒に行った地元出身のヨルダン人が警備の軍人にしばらく話しかけていると、すぐにうち解けたのか、我々を一番眺めの良い場所まで案内してくれたばかりか、写真まで許可してくれました。
川底には線路と鉄橋があって、彼らは「オリエントエクスプレス」だと言っていましたが、もしかしたらアラビアのロレンスたちが爆破した「ヒジャーズ鉄道」かな?
ゴラン高原は、1967年の第3次中東戦争以来イスラエルが占領を続けており、今でもシリアとは領土の帰属をめぐって紛争が続いています。
当時ゴラン高原に住んでいたシリア人 (イスラム教ドルーズ派) 約10万人のうちほとんどは、シリア領内に移住せざるを得ませんでした。
高原南部、つまりヨルダン国境付近は水源があり土地も肥沃なため、逆にイスラエルからは移住者が相次ぎ、多くの村落 (キブツ) が建設されました。
ヨルダン側に警備員がいるように、ヤルムーク川の向こう側の丘、イスラエル領にも軍人が常駐して常にこちらを見張っています。
「お互い睨み合って毎日大変だね」と警備員に声をかけると、彼は複雑そうな表情をしてこんなことを話してくれました。
「実は我々が見張っているのは、イスラエル側からの攻撃ではなく、自国のパレスチナ系住民なんだ。無茶な奴らが越境してイスラエルに攻撃をしかけたら、ヨルダンはもっとひどい目にあうからね」
これを聞いて、ヨルダンの難しい立場をまたも再認識したのでした。
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