A Dog's World 

~海外で暮らす・日々の記録・旅の記憶~   

ヨルダンの政治

ヨルダン小史

旧約聖書の時代
ヨルダン川の東にアンモン、エドム、ギレアド、モアブなどの王国がありました。これらの王国はエジプト、アッシリア、バビロニア、ペルシャ、ローマによって絶え間なく征服されたり、支配下におかれたりしました。

諸外国による支配
ビザンチン帝国の領土となったヨルダンは、西暦633~636年にアラブ人によって征服され、以来イスラム国家となりました。十字軍の時代、一時期キリスト教色が強められましたが、その後、エジプトのマムルーク朝の支配をへて、1517~1918年の400年間はシリア、パレスチナをふくむ大シリアの一部としてオスマン帝国に支配されました。

独立
映画「アラビアのローレンス」で描かれた「アラブの反乱」によって、1918年にヨルダンはオスマン帝国から解放されました。イギリスの後押しで、メッカのハーシム家から呼ばれたアブドゥッラーが首長位につきましたが、1946年にイギリスの委任統治が終わると、トランス・ヨルダン王国として独立を宣言、アブドゥッラーが王位につきました。

第1次中東戦争
1948年5月、イスラエルの国家樹立宣言と同時に中東戦争が勃発しました。結果はイスラエルの圧勝。エルサレムの旧市街をふくむパレスチナ全土のほぼ80%がイスラエルに占領され、160万人のパレスチナ難民が生まれました。1950年4月、アブドゥッラー国王はヨルダン川西岸地区 (パレスチナ) を併合し、国名をヨルダン・ハシミテ王国と改めました。

「ハシミテ (Hashemite)」とは、予言者ムハンマドの直系を主張するメッカのハーシム家からきています。翌年、アブドゥッラー国王はパレスチナ人に暗殺され、子のタラールが後をつぎましたが、病弱なためすぐに退位、タラールの17歳の子フセインが即位しました。

PLOとの衝突
1960年代、シリアからヨルダンへ拠点をうつしたPLO (パレスチナ解放機構) などアラブ・ゲリラ各派は、ヨルダンを基地としてイスラエルに対する攻撃を行ったため、ヨルダンはたひたびイスラエルから報復を受けました。1966年7月、ヨルダンはPLO支援を停止したため、以後、PLOはフセイン国王打倒を呼びかけ、衝突をくりかえしました。

アラブ諸国とイスラエルの緊張はますます高まり、1967年6月に第3次中東戦争が勃発。しかしわずか6日間でイスラエルが圧倒的勝利を得ました。ヨルダンもイスラエル軍によって空軍が破壊され、ヨルダン川西岸地区が占領されてしまいました。ヨルダンは国連安保理による戦後処理案 (242号決議) を受諾したため、PLOなどパレスチナ各派の反感を買い、攻撃をあびることになりました。危機を感じたフセイン国王は、1970年9月、パレスチナ各派を国内から追放しました (Black September事件)。

アラブ諸国との関係改善
アラブ諸国との関係が悪化していたヨルダンですが、1973年の第4次中東戦争に参戦するなどして、これを契機に各国との国交を回復しました。1974年、国連がPLOをパレスチナ人の唯一の代表だと承認すると、ヨルダンもこれに追従し、見返りにアラブ諸国から経済・軍事援助を取り付けることに成功しました。

1975年、ヨルダンはシリアとの友好関係を確立。また1980年に始まったイラン・イラク戦争ではいち早くイラクを支持し、ヨルダン領内でのイラク向けの物資通過を認めるなどして、地域政治におけるバランスの良さを示します。1988年、イスラエル占領下のヨルダン川西岸地区のパレスチナ人に対して、フセイン国王は統治を放棄しました。

湾岸戦争とその後
1990年8月、イラク軍がクウェートに侵攻すると、ヨルダンは明らかにイラク寄りの姿勢を取ったため、アメリカやサウジアラビアなどアラブ諸国との関係を悪化させました。イラクに対する世界的な経済制裁は、関係が深かったヨルダン経済に大きな損失をもたらします。さらにペルシャ湾岸諸国で働く大量のパレスチナ難民がヨルダンに流入してきたため、国の失業率は30%に増加しました。

1994年7月、フセイン国王はイスラエルのラビン首相と46年間にわたる両国間の戦争状態に終止符を打つための平和協定「ワシントン宣言」に調印し、これにより対米債務を帳消しにしました。1999年2月、フセイン国王は崩御、息子であるアブドゥッラー2世が王位を継承しました。アブドゥッラー国王は中東和平の仲介役としての立場をアピールしています。

ヨルダン四面楚歌

あらためてヨルダンの歴史を振り返ってみると、本当に苦難に充ち満ちていますね。ヨルダン王室がイスラム教の開祖ムハンマドの直系というのが唯一の救いでしょうか。これがなかったら周囲から容赦ない攻撃を受けてとっくに消滅していたと思います。現在も様々な問題を抱えるヨルダンですが、各派との関係は次のとおり。

対イスラエル
軍事力ではかなわない。水源も大きく依存。「中東の優等生」として欧米の援助を引き出すためにもイスラエルとの和平路線は必至。しかし仲良くしすぎるとアラブ側が反発。援助停止の恐れも。

対アラブ諸国
湾岸産油国からの食料・財政援助は国家の命綱。アラブ各国に出稼ぎに行っているヨルダン人労働者からの送金は貴重な外貨獲得源。やはり湾岸産油国には頭が上がらない。

対パレスチナ自治政府
アラブ寄りだと示すためにもパレスチナ自治政府への支持表明は必要。国内には多数のパレスチナ系住民を抱える。歴史的には国内のパレスチナ武装勢力を何度か国外退去させている。

対イラク
イラクとの同盟関係は同国の軍事的脅威を取り除くとともに、援助取り付けのためにも必要不可欠であった。湾岸戦争ではイラク寄りの姿勢を見せた結果、世界中から反発を受け、湾岸産油国にいたヨルダン人出稼ぎ労働者の多くが国外退去となりヨルダンに帰還した。イラク経済の復活はヨルダン経済にもダイレクトに影響する。

対ヨルダン国民
人口530万人のうち、6割 (首都アンマンでは7割以上) がパレスチナ系。ヨルダン王室はサウジアラビアから来た外様。政府はオリジナルのヨルダン人には種々の優遇策を採るが、それがパレスチナ系住民の反発を生んでいる。

対シリア、クウェート
対イスラエル政策で、穏健派のヨルダンと強硬派のシリアは歴史的に関係が悪い。湾岸戦争でイラクを支持したためクウェートとは今でもぎくしゃくした関係。

対イスラム原理主義者
パレスチナ系住民のイスラム原理主義組織への支持は根強いが、ヨルダン政府は原理主義者による無差別テロを完全に否定している。この姿勢は欧米諸国から高く評価されているが、アラブ諸国からは反発を買うことも。

感想
ヨルダン国王はこんな綱渡り良くやっていますね。これだけ難しい舵取りをこなしている外交手腕はそんじゃそこらの国の首相にはとてもマネできないことです。「明日からヨルダン国王にしてやるぞ」と言われても、自分は丁重にお断りします。

f:id:ishigaki10:20210511185559j:plain

憎しみの連鎖

初めての中東暮らしはカタールでした。ちょうどインティファーダ (パレスチナ人の蜂起) の頃で、毎日夕方のニュースでイスラエル治安部隊に投石するパレスチナ人の映像が流れました。

治安部隊に捕まったパレスチナ人は、その場に押さえつけられ、大き目の石で両肩をガンガン叩かれ、骨を砕かれていました (投石できないよう)。平和ボケした日本から来た自分にとっては、にわかには信じがたい衝撃的な映像でした。

この映像で何を感じたか正直に言うと、それは抑えようのない怒りでした。明らかにパレスチナ人は被害者だと思ったし、「イスラエル許せん!」と本気で腹が立ちました。

職場にもパレスチナ人 (出稼ぎ労働者、ただし国を追われて) が何人かいて、彼らとパレスチナ問題の話をしても、そこには「話し合いで」とか「政治的に解決」などという言葉は微塵も出てきませんでした。

日本人なら、「傷つけられた悲しみは相手を傷つけても癒えない」という達観的な考え方が多少なりともあるように思いますが、パレスチナ人にとっては、徹底抗戦とイスラエル殲滅あるのみといった感情がすべてでした。

ヨルダン勤務の2年間は、毎日新聞やテレビでイスラエル軍によるパレスチナ人殺傷のニュースを見聞きしていました。2、3ヶ月に1度は、職場のパレスチナ系ヨルダン人スタッフの身内がイスラエル軍に殺されたという話を聞きました。

そんなスタッフから、「家族が殺されたら誰だって銃を取るさ、お前だってそうだろ」と問いつめられた時は、黙ってうつむくしかありませんでした。

イスラム教の聖典コーランには、「敵を見たら殺しなさい」とか「敵のうちでもっとも悪いのは自分の土地を占領する者である」などと書かれています。

パレスチナ人にとって、対イスラエル戦は完全に正義であり、殉死したなら天国に行くことが約束される「ジハード (聖戦)」なのです。

ここのところ連日イスラエル軍によるレバノン攻撃が報道されていますが、パレスチナ人が本気ならイスラエル人も本気です。やはりどちらかが完全に消滅するまで、戦いは終わらないのかもしれません。

ゴラン高原

イルビドのさらに北にあるサハム村は、ヨルダン最北に位置する国境の村です。ヤルムーク川を国境線として、対岸にはイスラエル領ゴラン高原が広がっています。

国境と聞くとどこかものものしい感じがしますが、そこは川の浸食によって数百メートルの渓谷となっており、その素晴らしい眺めから多くの家族連れでにぎわう行楽地となっています。
ただし、常に警備の軍人が目を光らせており、基本的にはイスラエル領の写真撮影は禁止されています。

この時一緒に行った地元出身のヨルダン人が警備の軍人にしばらく話しかけていると、すぐにうち解けたのか、我々を一番眺めの良い場所まで案内してくれたばかりか、写真まで許可してくれました。

川底には線路と鉄橋があって、彼らは「オリエントエクスプレス」だと言っていましたが、もしかしたらアラビアのロレンスたちが爆破した「ヒジャーズ鉄道」かな?

f:id:ishigaki10:20210511185740j:plain

ゴラン高原は、1967年の第3次中東戦争以来イスラエルが占領を続けており、今でもシリアとは領土の帰属をめぐって紛争が続いています。

当時ゴラン高原に住んでいたシリア人 (イスラム教ドルーズ派) 約10万人のうちほとんどは、シリア領内に移住せざるを得ませんでした。

高原南部、つまりヨルダン国境付近は水源があり土地も肥沃なため、逆にイスラエルからは移住者が相次ぎ、多くの村落 (キブツ) が建設されました。

ヨルダン側に警備員がいるように、ヤルムーク川の向こう側の丘、イスラエル領にも軍人が常駐して常にこちらを見張っています。

「お互い睨み合って毎日大変だね」と警備員に声をかけると、彼は複雑そうな表情をしてこんなことを話してくれました。

「実は我々が見張っているのは、イスラエル側からの攻撃ではなく、自国のパレスチナ系住民なんだ。無茶な奴らが越境してイスラエルに攻撃をしかけたらヨルダンはもっとひどい目にあうからね」

これを聞いて、ヨルダンの難しい立場をまたも再認識したのでした。

f:id:ishigaki10:20210511185717j:plain

パレスチナ問題

もともとパレスチナという呼称はフィリスティア(ペリシテ人の国)に由来し、ローマ・ビザンチン支配のもとではシリアの行政区画であり (大シリア)、アラブ支配もこれを受け継いでフィラスティーン軍区を置きました。

その後、パレスチナは漠然とシリア南部地方を指すものでしたが、20世紀に入り、南部シリアのうちヨルダン川の西側地域をパレスタインと定め、そこにイラクやヨルダンと同様、国際連盟の名によるイギリス委任統治が決定されていく過程において、パレスチナの地域的区画は明確になりました。

こうして、ユダヤ人国家建設予定地の中に囲い込まれたアラブ系住民が、その後の紛争を通じてパレスチナ人となっていきました。

1915年、イギリスの高等弁務官マクマホンは、メッカのシャリーフであるフセインに対し、対オスマントルコ戦の協力を取り付けるため、パレスチナのアラブ人居住地の独立支持を約束します(フセイン・マクマホン書簡)。

これがアラビアのロレンスで名高いアラブの反乱に結びつきましたが、翌1916年、イギリス外相バルフォアは、ユダヤ系資本の援助などを目的に、英国シオニスト連盟会長に対しパレスチナにユダヤ人の民族国家を建設することを認めます(バルフォア宣言)。

さらに1917年、イギリス代表サイクスはフランス代表ピコと、大戦後のオスマントルコ領の分割案を密約します(サイクス・ピコ協定)。これら3つのものは互いに矛盾し、その後のパレスチナ紛争の原因となりました。

パレスチナへのユダヤ人入植は、19世紀末の帝政ロシアによるポグロム(ユダヤ人虐殺)扇動のもとですでに始まっていました。

シオニズム運動を20世紀の中東支配に利用しようとしたイギリスが、パレスチナにユダヤ人の民族的郷土を設立することに賛成(バルフォア宣言)するとこの動きは本格化し、ことに1930年代のナチスによる異常なユダヤ人弾圧が拍車をかけました。

移住はアメリカを中心とする諸財団・基金によって促進されましたが、その裏に欧米の反ユダヤ主義があったことは否定できません (嫌われ者は故郷に帰れということ)。

1936〜39年にはアラブ住民による強い抵抗運動がありましたが、その後パレスチナ分割決議案が国際的に議論される過程においては、すでにパレスチナ側の政治的・軍事的抵抗力は破壊されており、国際社会もパレスチナ人の自決権に顧慮を払いませんでした。

1948年5月、イスラエル国家の樹立とともに、アラブ諸国とイスラエルの間で武力紛争が始まりました。その中で大規模な戦争に発展したものが4度あります。

48〜49年の第1次(パレスチナ戦争/イスラエル独立戦争)、56年の第2次(スエズ戦争/シナイ戦争)、67年の第3次(6月戦争/6日戦争)、73年の第4次(ラマダン戦争/ヨムキプル戦争)です。

とくに第3次戦争におけるイスラエルの圧倒的勝利は、第1次戦争後に固定されていた休戦ラインを超えて広大なイスラエル占領地(ヨルダン川西岸、ガザ、ゴラン高原、シナイ半島)を作りだしました。

結果、それらの領域内に多数のパレスチナ人住民を抱え込んでしまったイスラエルは、シオニズムの目標であったユダヤ人国家から大きく変質していきます。

第4次戦争やアメリカ主導の中東和平工作は、キャンプデービッド合意に基づくエジプト・イスラエル和平条約などの前向きな変化を生み出しましたが、その他の面では第3次戦争が作りだした現実を逆に固定するよう作用しました。

第3次戦争の後、PLOは他の抵抗運動組織(PFLPやファタハ)を基盤に再編成され、イスラム教徒、ユダヤ教徒、キリスト教徒が共存する単一の民主的・非宗派的パレスチナ社会の建設を目標とするようになりました。イスラエル市民を巻き込む形で新しいパレスチナ社会の形成が目指されたのです。

しかし、第4次戦争の双方の呼称が示すように、アラブ諸国対イスラエルという対立図式の中で、パレスチナ問題は、イスラムとユダヤの宗教抗争であるいう点が強調されるようになりました。そこには、パレスチナ人の自決権が存在しません。

一方、本来は多様なイデオロギー的立場をもつユダヤ知識人の非宗教的運動として出発したはずのシオニズムも、いよいよユダヤ教正統派の権威と切り離せなくなりました。

近年になっても、パレスチナ人の自爆テロやイスラム過激派による攻撃と、それに報復するイスラエルの軍事作戦は、エスカレートこそすれ、終息する気配は見えません。

パレスチナ人は故郷に帰るのか

パレスチナ問題解決の糸口が見えないまますでに60年が過ぎ、ヨルダンで60%以上を占めると言われるパレスチナ系の人たちも4世代目に入っています。もちろん彼らの国籍はヨルダンで、パレスチナ人という意識はあるものの、パレスチナという土地に対しては漠然とした感慨があるだけという人も多いようです。

特にビジネスで成功した人などは、仮にパレスチナが独立を果たしたとしても、ヨルダンに残るのが大半だろうと聞きます。確かに60年前の自分の土地がそのまま残っているわけもなく、それを証明することは難しく混乱は必至であり、独立が新たな争いの始まりともなりかねません。「その日」が訪れたとしても、はたしてどれほどの人が帰還するのだろうとやや懐疑的に思っていました。

しかし、あるパレスチナ系ヨルダン人の家に呼ばれたときのことです。こちらの人は親戚が多く、その日もいろいろな人が集まっていました。その中で一番年輩の男性が、出身村の土地台帳 (地図) を持っているということで、少し話を聞きました。

「わしはイギリス軍の施設で働いていたんだ。1950年にイスラエル軍に村を追われてな。帰れば20ドヌム (2万平米弱) の土地があるんだ。オレンジ、ブドウ、オリーブ、何でもあったよ」

彼はそう話しながら、息子さんの方を見ました。息子さんは少し照れながら言います。

「私は小さい頃から父の話を聞いて育ちました。今では私が息子たちに話して聞かせています。これはずっと伝えていかなければならない話なんです」

アンマンで家具屋を営むという彼は、すでにこちらで財をなし、家も建てているそうです。それでもパレスチナ独立の際には帰るのですかと聞くと、「それが祖国のため (サビール・ワタニー) です」と静かに、力強く答えるのでした。

9.11アメリカ同時多発テロ

2001年9月11日、仕事帰りにアンマンのスーパーで買い物をしていました。時間は午後4時前。突然携帯電話が鳴り、「アメリカでビルに飛行機が突っ込んだ」と職場のスタッフが知らせてくれました。

その時は、軽飛行機が事故でも起こしたのかと思っていて、買い物を済ませて家に戻ったのはそれから15分ほどしてからでした。

ヨルダンと日本は時差が6時間あります。NHKのニュース10を見ようと思ってテレビをつけると、そこには信じられない光景が映し出されていました。全世界の誰もが目を疑ったと思います。ジャンボ機が突っ込み炎上するワールドトレードセンター。自分は深夜まで、ずっとライブ映像に見入っていました。

翌日、職場はこの話題で持ちきりでした。みんな異様に興奮しています。職場のスタッフの多くは、数次にわたる中東戦争の結果、パレスチナという郷土を追われ命からがら逃げ出した人たち、あるいはその二世です。

彼らがイスラエルとその最大支援国であるアメリカに対して抱く感情は、我々の想像を遥かに超えた根深いものがあり、この凄惨なテロ行為について、歓声をあげる人が少なくなかったのは事実です。

困ったことに、現地紙に「赤軍の犯行」という記事が載ったため、スタッフがひっきりなしに部屋に入ってきて、「赤軍は良くやった、日本人はアラブの友達だ」などと言っては握手を求められました。その都度こちらは必死に否定しましたが。

その翌日も、テロの犯行グループについてほとんど情報がなかったため、職場でも朝からやれ赤軍だ、いやアメリカ人の内部グループだなどと皆大声で話をしていましたが、しだいにアラブ系の容疑者が特定されてくると、不思議なもので誰もその話題を口にしなくなりました。

昨日は興奮のあまりテロを礼賛するかのような発言も聞かれましたが、やはり誰もが、「いくら何でもやりすぎ」だと思っていたのでしょう。同胞の犯行ということに、少なからずショックを受けていたようです。彼らの良心を見たような気がしました。

ちなみに、エチオピアは独自のカレンダーを採用していて (ユリウス暦)、新年が9月11日です。通常ならワールドトレードセンターでたくさん働いているはずのエチオピア人が、この日はみんな休みをとっていて誰ひとりとしてオフィスにいなかったため、アメリカ治安当局は当初、エチオピア人の犯行を疑ったのだそうです。

日本とアメリカ

中東では、ほとんどの人が親日家だと言っても良いでしょう。ただし、養殖真珠の開発により大打撃を被ったカタール (のかなり年輩の人) はちょっと微妙ですが。いくつか理由はあるのですが、まずは車。どの国に行っても、町には日本車があふれています。値段はあまり安くはありませんが、信頼性・耐久性の面でずば抜けた評価を得ています。ちょっと知っている人なら、天然資源や材料を安価に輸入し、技術力を駆使して車など高価な製品を輸出しているリッチな国、と言うでしょう。

それから、これは日本人としてはあまり触れられたくない話ですが、この地域では赤軍の知名度が日本以上に高いという事実。特にパレスチナ人にとっては、岡本公三はイスラエルの空港で銃を乱射し、多数のイスラエル人を殺傷したことから、未だにヒーローとして語り継がれる人物です。あの9.11のアメリカ同時多発テロも、翌日のヨルダンの新聞には赤軍の犯行と載りました。

また、比較的貧しいアジア諸国の中にあって、戦後飛躍的に経済成長を遂げた勤勉な国民性は、何より日本人の特徴として賞賛されています。さらに、それだけ急激な近代化を果たしたにもかかわらず、天皇制を維持していることも彼らは手本にしたいそうです。

つまり、天皇制という旧態然としたシステムを維持しつつ発展を遂げた方法 (→イスラムの教義を厳格に維持しつつ国を発展させる方法) と、発展を遂げたのに未だに天皇制という古風なシステムを維持している秘訣 (→発展を遂げても王制を維持する秘訣) を知りたいということです。確かに中東はイスラムに厳格な王国が多いですからね。民主化運動はもっとも深刻な問題です。

さて、もうひとつ決定的なことがあります。それは、あのアメリカに太平洋戦争で本気のケンカを仕掛けたことです。アメリカは、国内ユダヤ資本の政治的影響力から、イスラエルに対する全面的バックアップを続けています。アメリカはパレスチナ和平工作を推進しているように見えて、実はアラブ諸国の結束を乱すようなことばかりしています。

エジプトやヨルダンにイスラエルと和平条約を結ぶよう働きかけたのは、イスラエルと隣国との軍事的緊張の軽減を狙ったものであって、決してパレスチナ問題の解決を考えたものではありません。少なくとも、パレスチナ人はそう否定的にとらえています。

パレスチナ人だけでなく、中東諸国全般に見られるアメリカ嫌いは相当なものです。湾岸危機にしても、サダム・フセインの愚行は許されるものではないものの、イラクを「はめた」アメリカはさらにひどい、という見方が根強くありました。

当初、イラク軍のクウェート侵攻を黙認するかのような反応をしたアメリカでしたが、結果的には湾岸戦争を利用して地域の利権に食い込んでいったと、多くの現地人が話していました。

そんな「悪魔」アメリカに、アジアの小国である日本が一度でも戦争を仕掛けたという歴史は、パレスチナ人の溜飲を下げるには十分なものです。

しかしヨルダン人とこの話をしていると、必ずおまけが付いてきます。「今の日本はどうしてアメリカと深いつき合いをしているのか、日本はパレスチナ人の仲間だったのではないか、もう一度アメリカに抵抗しよう」と言われるのです。

今のアメリカの外交姿勢は好きではありませんが、日本がアメリカと決別したらそれはそれでいろいろ支障が出るだろうな、などと冷静に考えてしまったりします。