ペトラ
■歴史
ペトラ周辺では、約9000年前の新石器時代にはすでに人の集落があった痕跡がありますが、歴史上、この地域の支配者として最初の名を記すのはエドム人です。エドム国は、紀元前1000年頃にはユダヤのダビデ王と争っていたことがわかっています。
紀元前500年頃になると、ナバタイ人がこの地に定住を始めました。この地を通る隊商の安全を保障する代わりに、税を徴収していたそうです。しかしそれから100年ほどすると、マケドニア帝国から分裂したセレウコス朝の襲撃を受け、大きな被害を受けました。
紀元前63年にはローマ帝国が派兵、紀元前31年にはユダヤのヘロデ王の攻撃により多くの領土を失いました。西暦106年にはローマ帝国に併合され、そのためペトラには従来のヘレニズム様式とローマ様式両方の建築が残されています。
約250年に渡るローマ支配の後、363年におきた大地震によって、ペトラは壊滅的な打撃を受けました。しだいにペトラは人が住まなくなり、7世紀のイスラム来襲、12世紀の十字軍遠征でわずかにその名を歴史に登場させたものの、以降はまったく外界から忘れられた存在となりました。
再び世界にその名を知られるようになるのは、1812年のことです。スイス人探検家ヨハン・ルートビッヒが、よそ者を嫌う現地人の目をかいくぐって内部に潜入、世界にその存在を伝えたのでした。(写真:シークを抜け出て姿を現したエルハズネ/ファラオの宝物殿、高さ30mのエルハズネ正面、ペトラ一帯に見られるバラ色の岩)
■ペトラ雑感
世界遺産ペトラは、入り口で入場チケットを買い、しばらく砂利道を歩くと、ほどなく見上げるほどの断崖が現れます。そこには5〜6mの岩の裂け目があり、その亀裂はそのまま細い道 (シーク) となって1.5kmほど続いています。
道が細い上に曲がりくねっているため見通しが悪く、前後に人影が見えなくなったりすると、不安を感じると同時に、これぞインディ・ジョーンズの世界観だと、冒険心をかき立ててもくれます。
この行程は徒歩だけでなく、馬車をチャーターすることもできます。一度、馬車に乗ったことがありますが、たまたまなのか、その馬がとにかくよくフンをする馬で、シッポを上に上げたなと思ったらいきなりモリモリッとフンが顔を出します。
目の前で何度も何度もフンをされるのにはちょっとまいりましたが、においは青臭いのと生臭いのがまじったような感じで、それほど臭いわけではありません。「出てくる」と思ったら、ちょっとの間鼻をつまめばなんとかやりすごせました。
問題はそのビジュアルでしょうか。詳しくは書きませんが…。一度「シッポを上げた、来るぞ」と思ったら、すかしというのもありました。これには1本とられた。。
そんなわけで、ペトラの一番強烈な思い出は馬のフン、、ということはまったくなくて、やはり「エルハズネ (ファラオの宝物殿)」です。
巨大な岩の壁に彫られた、大胆にして繊細な外観。太陽の動きとともに刻一刻とその色を変化させる自然の妙。1日に50色ものバラ色を見せると言われますが、もしこれがナバタイ人の「計算」だったとしたら、その芸術センスに脱帽です。
確かに、シークを抜け出て最初に目に飛び込んでくるエルハズネと、ペトラの内部の遺跡を見終わった後、数時間後にあらためて見るエルハズネでは、その色が全然違いました。もちろん、どちらも美しいことは言うまでもありません。
エルハズネの他にも、王家の墓、宮殿の墓、ローマ劇場、ローマ風列柱通りなどが訪れる者の目を飽きさせません。元気があれば、もうひとふんばりして奥の岩山を登り、デイル (Ed Deir) まで足を延ばしてみてはいかがでしょうか。
自分もぜいぜい言いながらなんとかたどりつき、山の上の涼しい風に吹かれながら、その静かで重厚なたたずまいにしばし見入ってしまいました。
ちなみにデイルまではロバをチャーターできますが、上り坂は時に階段状、時に単なる岩の斜面ということもあり、ロバのひづめではズルズルすべってずいぶん危なっかしいです。足を滑らせたら何十メートルも下の谷底へ落下、という悲劇が待っていますので、ロバはあまりおすすめできません。
ペトラから一番近い村がアイン・ムーサです。「モーゼの泉」という名を持つとおり、昔ここでモーゼが岩を杖で打ち、水を湧き出させたという伝説が残っています。今も、泉は枯れることなく水が湧き続けていました。
アルカルアの丘
ヨルダンの首都アンマンの中心部、ダウンタウンを見下ろす絶好の場所に「アルカルアの丘 (Jabal Al-Qal’a」はあります。眼下にはローマ劇場とともにラガダンのバスターミナルが一望できます。ラガダンはバスの発着とともに人の移動がめまぐるしく、ローマ劇場ではリュックサックを背負った外国人旅行者の姿が目立ちます。アンマン一活気のある地区と言えるでしょう。
アルカルア (要塞) の名の通り、この丘には青銅器時代から要塞が建てられ、ローマ、ビザンチン、そしてイスラム時代に入ってからも地域の要所として建造物の破壊と再建が繰り返されました。現在も一応は「アンマン城」がありますが、外観はボロボロに崩れています。むしろ2世紀に建てられたヘラクレス神殿の跡の方が目を引くでしょう。
ダウンタウンの反対側に広がる町を見下ろすと、アンマンの人口過密問題を象徴しているような光景が目に飛び込んできます。見渡す限り家、家、家。丘を埋め尽くす石造りのアパートの群れは、あたかも巨大な城塞のように見えます。
ちなみに、アンマンにはたくさんの丘があります。当時、アンマンに足を踏み入れた古代ローマ人は、7つの丘を持つローマを郷愁とともに思い出し、ここに居を構えたのだそうです。
ジェラシュ
アンマンから北に走ること45km、中東・北アフリカ地域に建設されたローマ都市としては最も壮麗と言われるジェラシュがあります。
紀元前64年に、ダマスカス、ペラ、ウム・カイスなどの10都市からなるデカポリスに加えられました。1世紀になると、ローマ帝国はさらに南部のペトラやアカバまで勢力をのばします。
そのため中継地点となったジェラシュは交易により繁栄し、劇場や神殿などが建てられ、人口は2万人を越えていたそうです。現在でもそれらの建造物は比較的きれいな状態で残っており、当時の栄華を容易に想像することができます。
4世紀になるとローマ帝国がキリスト教を国教に定めたことにより、ジェラシュの神殿もキリスト教会に転用されました。その後はビザンチン帝国のもと、さらに300年の繁栄を見ましたが、614年にペルシャ軍が襲来、636年にはイスラム軍に完全に制圧されました。
8世紀に大地震が起こると、建物の多くが崩壊、徐々に衰退に向かいました。12世紀には一時、十字軍が駐留しましたが、その後は19世紀までほとんど忘れられた存在となっていました。
ジェラシュの入り口、大きな凱旋門をくぐり、教会と競技場を左手に見ながら300mほど歩くと、レストハウスと観光案内所があります。
案内所の先には南門がありますが、この門は形の関係なのか、いつも風の通り道になっています。これといって日差しを遮るもののないジェラシュの遺跡ですが、太陽に焼かれてヘトヘトになって南門に戻ってくると、ここで涼しい風に吹かれて、ようやくほっと一息つくことができます。
それにしてもローマ帝国というのは、やることが大きいですね。そして賢い。このように水道が完備された衛生的な町で、しかも劇場、闘技場、浴場など人々の娯楽施設も整っている。神殿は巨大で壮麗。
ここまでやられたら、人々は「征服された」とは思わないのではないでしょうか。ローマの一都市になった誇りすら感じたかもしれません。
3000人を収容できる南劇場はほぼ完全な状態で保存されており、毎年夏にアラブ人歌手のコンサートも開かれます。
アジュルーン
ジェラシュの西、いくつか山を越えて走ると、十字軍縁の町アジュルーンに着きます。町を見下ろす小高い山の頂には、アジュルーン城が建っています。
アジュルーン城は、1189年に十字軍を打破したサラーハッディーン (サラディン) の甥、イズ・アッディーンによって1184年に建てられました。
典型的なイスラムの要塞建築で、保存状態も良好。城の内部は階段と数多くの部屋があり、まるで迷路にいるような気分にさせてくれます。
階段を上り屋上の部分に出ると、アジュルーンの町はもとより、北ヨルダン渓谷が一望できます。
当時、アジュルーンはヨルダンとシリアの交易ルートを守る上で重要な砦のひとつであり、夜には通信手段のかがり火が焚かれました。ユーフラテスからカイロへの、情報伝達の中継点の役割を果たしたそうです。
サルト
アンマンから車で北西に40分ほど走ると、サルトの町に着きます。サルトはヨルダンで最も古い町のひとつに数えられます。
オスマントルコ時代後期には商業と文化の中心として栄えました。町の中に残る黄色い石造りの建物は、多くがその時代 (1880年〜1920年) に建てられたものだそうです。
これらはナブルス (ウエストバンク) の職人の手によるもので、アーチ型の装飾を施したバルコニーが目を引きます。
バルコニーをイスラム建築由来のものだとする書物もあります。オスマントルコ時代、女性が外から姿を見られないよう、格子のついた出窓を作ったのがその始まりなのだそうです。アラビア語では 「バルコーン」 と言います。
中東では、モスクや公共施設など人が多く集まる場所で、道ばたに置かれた素焼きのつぼを目にすることがあります。木の幹に縛ってあったり、金物の台座に乗せてあったりしますが、どのつぼも底の方からポタリポタリと水滴が落ちています。
つぼのふたを開けると、中には飲み水が入っています。素焼きのつぼなのでゆっくりと水がしみ出し、そして空気が乾燥しているため気化熱でつぼが冷やされます。おかげで通行人は、炎天下でもひんやりとした水が飲めるというわけです。
異国情緒たっぷりで、またアラブの善意の象徴とも感じられる水がめですが、最近では電気冷水器に取って代わられているようです。衛生面を考えればそれも仕方のないことかもしれませんが、なんだか寂しい気持ちになることも事実です。
歴史のある町サルトでは、まだまだ水がめが現役で嬉しくなりました。
砂漠の城① ハラナ城
アンマンから東にのびるアズラク行きの道を小1時間走ると、砂漠の城として知られるいくつかの城のひとつ、ハラナ城があります。
外見の保存状態は一番良く、正面入り口あたりから眺めると、ドッシリとした立派な姿にほれぼれしてしまいます。
1辺が35m。頑丈な要塞にも見えますが、実際にどのように使われていたのかは良くわかっていません。
扉の上部にA.D.711と記されているため、イスラム初期のものだと考えられていますが、ギリシャ文字が残っていることから、もともとはギリシャ・ローマ時代の遺跡の上に建てられたのではないかとも言われています。
入り口を入ると、イスラム建築に特徴的な中庭がある造りで、階段を上がり屋上に上ると、城全体と周囲の砂漠 (土漠) が見渡せます。
砂漠の城② アムラ城
ハラナ城を越えてしばらく走ると、ハイウェイ沿いにぽつんと建っている世界遺産アムラ城を見ることができます。
ヨルダンのもうひとつの世界遺産であるペトラは息をのむ壮大さで見る者を圧倒しますが、それにくらべるとアムラ城は拍子抜けするほど小さな建物です。
8世紀のウマイヤ朝時代に建てられたこの小さな離宮は、当時はさぞ多くのカリフや豪族を迎えたことでしょう。
それが、今は周囲も砂漠と化し、その外観に昔日の面影はありません。しかし、内部に入るといきなり総天然色の別世界が広がります。
裸身の女神、迫力ある狩猟シーン、神の使徒、当時の風俗などが壁一面に描かれ、極めつけはスチームバスの天井に広がる天球図です。アカデミックでなおかつ高い芸術性を感じました。
砂漠の城③ アズラク城
アズラクはイラクとサウジアラビアへ通じる道の交差点にあり、3世紀頃のローマ時代には戦略上の重要拠点として要塞が建てられ、その後はビザンチンやイスラム王朝が改修・改築を繰り返しました。
黒い玄武岩で造られた建物は、見る者に異様な迫力を感じさせます。正面玄関の上の部屋には、かの「アラビアのローレンス」が滞在した部屋も残っています。1917年、「アラブの反乱」のための戦略基地としてここを利用していたのだそうです。
地域のその後の歴史に大きな波紋を投げかけることになったアラブの反乱。その作戦会議が夜な夜な行われていたと考えると、感慨深いものがありました。
ウム・カイス
ウム・カイスは、イスラエル領ゴラン高原と隣接した村です。かつてはガダラ (古語で要塞の意) という名の都市で、ローマのデカポリスという都市連合のひとつでした。
列柱、ローマ劇場、神殿、浴場などをもつウム・カイス遺跡は、ゴラン高原とティベリアス湖を見下ろす高台にあり、週末は地元の観光客を集める名所となっています。
紀元前3世紀末、それまでプトレマイオス朝 (エジプト) の支配下にあったガダラを奪取したのはセレウコス朝のアンティオコス3世でした。
それから100年後、ガダラはユダヤ人の手に落ち、紀元前63年にはローマの属領となりました。現在残る遺跡の多くは、ローマ支配の時代に建造されたものです。
しかしビザンチン時代に大地震により建物が崩れ、時代の経過とともに徐々に衰退していったそうです。
ペラ
ウム・カイスをヨルダン川沿いに20kmほど南下すると、山間の里に隠れるように残るペラの遺跡があります。
ジェラシュとウム・カイスを見た後だったので、その規模の小ささにせいぜい「ふ〜ん」と鼻を鳴らす程度だったのですが、強烈に印象に残っているのは、遺跡を見下ろす高台に建つレストランで食べた魚のフライです。
ヨルダンではほとんど魚を食べませんでした。アカバで1回、アカバ帰りの人にもらったマグロを1回、そしてペラの川魚です。
2年間でたった3回。この時、数ヶ月ぶりに食べた魚のフライの、なんと美味しかったことか。ヨルダンでは肉、とくにヒツジが美味しいことは揺るぎない事実ですが、やはり自分は他の大多数の日本人と同じく "Fish Eater" なんだなと痛感しました。
ウム・エルジマール
アンマンの北東にあるザルカを通り抜け、そのまま北に40分ほど走るとマフラクの町があり、そこからイラク国境に延びる道路をしばらく進むと、ようやくウム・エルジマールにたどり着きます。
「ラクダの母」という名を持つこの小さな村は、「砂漠の黒い宝石」とも呼ばれ、かつてのデカポリスの辺境に位置していました。
ここには漆黒の玄武岩を利用して建てられた石造りの家、教会、古代ローマ時代の兵舎や砦が現存しています。
ウム・エルジマールでは冬に降った雨を貯水池に溜めていたので、夏でも飲み水や灌漑用水に困ることはありませんでした。5~8世紀には交易の中継地としてずいぶん繁栄したそうです。
歴史に名を残すのは1世紀から約700年間ですが、崩れた建物に所々残るアーチなどが、当時の繁栄ぶりや技術力の高さを想起させてくれます。
キングスハイウェイ
アンマンからアカバに南下する道は3通りあります。死海沿いの西側ルート、デザートハイウェイと呼ばれる東側ルート、そして歴史のある中央ルート、その名もキングスハイウェイです。
キングスハイウェイあるいはキングスロードと呼ばれますが、山あり谷ありの細い道で、時には羊の群れが道を横断するなど、街道と言った方が適当でしょう。アンマンを出てマダバの町を過ぎると、最初の難関、ワディ・ムージブ(ムージブ渓谷)が立ちはだかります。
1000m級の渓谷を、ガードレールもないような道を下って上がる。下りはヒヤヒヤ、、上りは急な砂利道を車のエンジンが悲鳴をあげっぱなしでした。
ワディ・ムージブを抜けると、カラクまで穏やかな道が続きます。この時は春だったので、ポピーや菜の花が目を楽しませてくれました。視界の先にはどこまでも小麦畑が広がり、大地が黄金色に輝いていました。
この後、カラク、タフィーラ、ダーナ、ショーバックを見学しながら、ペトラまで走りました。
カラク
カラクは海抜1000mの高台に十字軍の城塞が残る町です。エジプト~シリア間の隊商路にあり、もともと宿場町として栄えていたそうです。
12世紀には、ショーバックとエルサレムの間の軍事拠点として十字軍が城を築きますが、後にアイユーブ朝 (エジプト) のサラディン (サラーハッディーン) に征服されました。
城の規模はヨルダン随一で、数百頭の馬を飼っていたと言われる円天井のホールなど、見応え充分。眼下に城下町が一望でき、城塞はその土地で一番高い場所に築くというセオリーがよくわかりました。
カラクの城を見学した後、トイレを貸してもらおうと町中をうろうろしながら地元の人と話をしたところ、カラクは上水・下水ともにかなり困っているのだと聞きました (トイレは消防署で借りました)。
ここは城が築かれた高台ですから、下を流れる川からも遠いし、井戸を掘ってもなかなか水が出なかったのでしょう。この町に住んでいる人たちは町の歴史に誇りを感じているようでしたが、現代的な生活として考えると、やはり不便なことは否めませんでした。
タフィーラ
カラクからワディ・ハサを越えると、1時間半ほどでタフィーラに着きます。アンマンを朝出れば、ちょうどお昼になっている頃でしょう。自分もここで昼食をとることにしました。
眼下に広がる渓谷を眺めながらの食事は素晴らしく爽快なものです。メニューはシシカバブくらいしかありませんでしたが、これだけ景色が良いのですから、それ以上注文をつけるのは贅沢というもの。
未だ雄大な自然を残し、ヨルダンの秘境とも言われるタフィーラ。このタフィーラ出身者のことをタフィーリーと呼び、古い伝統文化を保ちホスピタリティーにあふれる人々であることには定評があります。反面、のんびり穏やかな性格から、いつも冗談の対象 (間抜けの代名詞) になってしまうのがタフィーリーなんだとか。
ダーナ
タフィーラの町を過ぎると、ダーナ村に行き当たります。絵葉書にもなっている有名な村で、切り立ったがけの上に、日干し煉瓦と泥で固めたような家がへばりつくように密集しています。村に足を踏み入れると、一瞬、中世にタイムスリップしたような感覚に陥りました。もっとも、家畜 (もしかして人?) の糞尿の臭いですぐ正気に戻りましたが。
観光資源として貴重な存在だし、政府も力を入れて村に立派な宿泊施設を作っています。そのホテルテラスから見下ろす深い渓谷には圧倒的な自然のパワーを感じました。
ただ、村人はあれこれ縛られるんだろうなと。景観を変えられないので家の近代的な修繕もままならないだろうし。もし自分がこの村に生まれたらどんな人生だっただろうかと、少し考え込んでしまいました。
ショーバック
タフィーラからさらに南に60km。ショーバックの村のすぐ近くには十字軍の城塞が残っていて、城の内部では教会、浴場跡、貯水池、井戸、脱出用の抜け穴などが見られます。
壁の一部にはサラディンの碑文も残っており、小高い丘の上にたつ姿の美しさもあって、キングスハイウェイのひとつのハイライトになっています。
実はここに、知る人ぞ知る有名な骨董品屋があります。城を見学に来た人なら、その入り口手前にある小屋にすぐ気付くでしょう。そこで1人のおじいさんが品物を並べ商売をしています。
おじいさんは雑然と並べられた古銭やガラス玉、はては化石からやじりまであれこれと指さしながら、「これは石器時代、これはユダヤ、こいつがビザンツでそいつは十字軍だ」などと一品一品ていねいに説明をしてくれます。
話を聞いているだけでロマンをかき立てられます。中でも目を引いたのは、様々な時代の石・ガラスが束ねられたネックレスでした。
おじいさんの説明によれば、そのネックレス (ナイロン糸に通してあるだけですが) にはナバティア、フェニキア、ローマ、イスラムの各時代の石やガラス玉がつけられていて、おじいさんが10年以上かけてこつこつ拾い集めたものなんだそうです。
ショーバックには歴史的に十字軍など外国人が多数訪れ、地域の交通の要衝となっていましたから、周辺の砂漠には当時の落とし物がそれなりに落ちているのだそう。
「残りの人生ではもうこれだけ良い物は集められないだろうな」 おじいさんはどこか寂しげな目でネックレスを見つめました。
「だから高く買ってね」という感じで交渉が始まりましたが、「100ディナール (18,000円)」と聞いた時はちょっと気持ちがぐらついてしまいました。
内心、職場のスタッフの月給より高いじゃないかと思い、一旦はネックレスをおじいさんに返したのですが、ここで買わなかったらもう一生出会うことはないだろうという思いもあって、迷った末に購入。
ネックレスに加えて指輪、印章、古銭をいくつか選び、なんとかまとめて100に値切ることができました。大満足。
ビーズのネックレス
日本に帰ってから大判のビーズの本を手に入れて見たところ、ショーバックで買った、おじいさんがナバティア時代のものと言っていたビーズは、どうやらカーネリアン (紅玉髄) ビーズのようです。本物なら、紀元前3~2世紀のインダス文明のものだそう (本当?)。
他にもローマンガラスビーズ (らしきもの)、ガラスに眼が入ったイスラムのモザイクビーズ (これはそうかな) と、もし本物ならみんな1500~2000年前のものということになります。うーん、そうなるとさすがにどうでしょう。本物であってほしいとは思いますが。
しかしそういう目で見つつ、改めてこのビーズのネックレスを手に取ると、ふと2000年前にタイムスリップしたような感覚にとらわれました。もし前世があるのなら、自分はユーフラテス川のほとりで羊飼いでもしていたのかもしれないな。