ヨルダンは中東諸国の中でも北に位置するため、夏はそこまで暑くならず、首都アンマンでも冬は時に雪が降るなど季節感もあって、とても過ごしやすい国でした。
歴史を紐解けばローマ帝国の属州であり、古代ローマ人も多く訪れた土地で、国内各所にローマ遺跡がいくつも現存しています。
首都アンマンにはたくさんの丘があり、当時、アンマンに足を踏み入れた古代ローマ人は、7つの丘を持つローマを郷愁とともに思い出し、ここに居を構えたのだそうです。
こうした数々のローマ遺跡は、アラブにいながらヨーロッパの香りを楽しむことができる、ヨルダンの魅力のひとつとなっています。



ローマ遺跡
■ジェラシュ
アンマンから北に走ること45km、中東・北アフリカ地域に建設されたローマ都市としては最も壮麗と言われるジェラシュがあります。
紀元前64年に、ダマスカス、ペラ、ウムカイスなどの10都市からなるデカポリスに加えられました。1世紀になると、ローマ帝国はさらに南部のペトラやアカバまで勢力をのばしました。
そのため中継地点となったジェラシュは交易により繁栄し、劇場や神殿などが建てられ、人口は2万人を越えていたそうです。
現在でもそれらの建造物は比較的きれいな状態で残っており、当時の栄華を容易に想像することができます。
4世紀になるとローマ帝国がキリスト教を国教に定めたことにより、ジェラシュの神殿もキリスト教会に転用されました。
その後はビザンチン帝国のもと、さらに300年の繁栄を見ましたが、614年にペルシャ軍が襲来、636年にはイスラム軍に完全に制圧されました。
8世紀に大地震が起こると、建物の多くが崩壊、徐々に衰退に向かいました。12世紀には一時期、十字軍が駐留しましたが、その後は19世紀までほとんど忘れられた存在となっていました。
それにしてもローマ帝国というのは、やることが大きいですね。そして賢い。このように水道が完備された衛生的な町で、しかも劇場、闘技場、浴場など人々の娯楽施設も整っている。神殿は巨大で壮麗。
ここまでやられたら、人々は「征服された」とは思わないのではないでしょうか。ローマの一都市になった誇りすら感じたかもしれません。
3000人を収容できる南劇場はほぼ完全な状態で保存されており、毎年夏にアラブ人歌手のコンサートなどが開かれます。





■ウム・カイス
ウム・カイスは、イスラエル領ゴラン高原と隣接した村です。かつてはガダラ (古語で要塞の意) という名の都市で、ローマのデカポリスという都市連合のひとつでした。
列柱、ローマ劇場、神殿、浴場などをもつウムカイス遺跡は、ゴラン高原とティベリアス湖を見下ろす高台にあり、週末は地元の観光客を集める名所となっています。
紀元前3世紀末、それまでプトレマイオス朝 (エジプト) の支配下にあったガダラを奪取したのは、セレウコス朝のアンティオコス3世でした。
それから100年後、ガダラはユダヤ人の手に落ち、紀元前63年にはローマの属領となりました。現在残る遺跡の多くは、ローマ支配の時代に建造されたものです。
しかしビザンチン時代に大地震により建物が崩れ、時代の経過とともに徐々に衰退していったそうです。



■ペラ
ペラは現在のヨルダン北西部にあった古代都市で、新石器時代、銅石器時代、青銅器時代、鉄器時代、カナン人、ヘレニズム時代、イスラム時代の遺跡が残ると言われます。
ガリラヤ湖の南方約30km、ヨルダン渓谷東麓の豊かな水源の近くに位置するこの史跡は、一般的に観光で訪れることができるのは、写真のローマ、ビザンチン時代の神殿跡です。



■ウム・エルジマール
アンマンの北東にあるザルカを通り抜け、そのまま北に40分ほど走るとマフラクの町があり、そこからイラク国境に延びる道路をしばらく進むと、ようやくウム・エルジマールにたどり着きます。
「ラクダの母」という名を持つこの小さな村は、「砂漠の黒い宝石」とも呼ばれ、かつてのデカポリスの辺境に位置していました。
ここには漆黒の玄武岩を利用して建てられた石造りの家、教会、古代ローマ時代の兵舎や砦が現存しています。
ウム・エルジマールでは冬に降った雨を貯水池に溜めていたので、夏でも飲み水や灌漑用水に困ることはありませんでした。5~8世紀には交易の中継地としてずいぶん繁栄したそうです。
歴史に名を残すのは1世紀から約700年間ですが、崩れた建物に所々残るアーチなどが、当時の繁栄ぶりや技術力の高さを想像させてくれます。



■ウム・アルラサス
ウム・アルラサスは、ローマ帝国の占領時からイスラム王朝が支配した3世紀末から9世紀に都市を形成していたと考えられています。
最初はローマ軍の軍事基地であったと言われ、今はローマ時代のキリスト教会跡がいくつか残っています。聖ステファノス教会の床に残されたモザイク画は状態が良く見応えあり。




ペトラ
ペトラ周辺では、約9000年前の新石器時代にはすでに人の集落があった痕跡がありますが、歴史上、この地域の支配者として最初の名を記すのはエドム人です。エドム国は、紀元前1000年頃にはユダヤのダビデ王と争っていたことがわかっています。
紀元前500年頃になると、ナバタイ人がこの地に定住を始めました。この地を通る隊商の安全を保障する代わりに、税を徴収していたそうです。しかしそれから100年ほどすると、マケドニア帝国から分裂したセレウコス朝の襲撃を受け、大きな被害を受けました。
紀元前63年にはローマ帝国が派兵、紀元前31年にはユダヤのヘロデ王の攻撃により多くの領土を失いました。西暦106年にはローマ帝国に併合され、そのためペトラには従来のヘレニズム様式とローマ様式両方の建築が残されています。
約250年に渡るローマ支配の後、363年におきた大地震によって、ペトラは壊滅的な打撃を受けました。しだいにペトラは人が住まなくなり、7世紀のイスラム軍来襲、12世紀の十字軍遠征でわずかにその名を歴史に登場させたものの、以降はまったく外界から忘れられた存在となりました。
再び世界にその名を知られるようになったのは、1812年のことです。スイス人探検家ヨハン・ルートビッヒが、よそ者を嫌う現地人の目をかいくぐって内部に潜入、世界にその存在を伝えたのでした。





砂漠の城
■ハラナ城
アンマンから東にのびるアズラク行きの道を小1時間走ると、砂漠の城として知られるいくつかの城のひとつ、ハラナ城があります。
外見の保存状態は一番良く、正面入り口あたりから眺めると、ドッシリとした立派な姿にほれぼれしてしまいます。
1辺が35m。頑丈な要塞にも見えますが、実際にどのように使われていたのかは良くわかっていません。
扉の上部にA.D.711と記されているため、イスラム初期のものだと考えられていますが、ギリシャ文字が残っていることから、もともとはギリシャ・ローマ時代の遺跡の上に建てられたのではないかとも言われています。
正門を入ると、イスラム建築に特徴的な中庭がある造りで、階段を上がり屋上に出ると、城全体と周囲の砂漠 (土漠) が見渡せます。



■アムラ城
ハラナ城を越えてしばらく走ると、ハイウェイ沿いにぽつんと建っている世界遺産アムラ城を見ることができます。
ヨルダンのもうひとつの世界遺産であるペトラは息をのむ壮大さで見る者を圧倒しますが、それにくらべるとアムラ城は拍子抜けするほど小さな建物です。
8世紀のウマイヤ朝時代に建てられたこの小さな離宮は、当時はさぞ多くのカリフや豪族を迎えたことでしょう。
それが、今は周囲も砂漠と化し、その外観に昔日の面影はありません。しかし、内部に入るといきなり総天然色の別世界が広がります。
裸身の女神、迫力ある狩猟シーン、神の使徒、当時の風俗などが壁一面に描かれ、極めつけはスチームバスの天井に広がる天球図。アカデミックでなおかつ高い芸術性を感じます。






■アズラク城
アズラクはイラクとサウジアラビアへ通じる道の交差点にあり、3世紀頃のローマ時代には戦略上の重要拠点として要塞が建てられ、その後はビザンチンやイスラム王朝が改修・改築を繰り返しました。
黒い玄武岩で造られた建物は、見る者に異様な迫力を感じさせます。正面玄関の上の部屋には、かの「アラビアのローレンス」が滞在した部屋も残っています。1917年、「アラブの反乱」のための戦略基地としてここを利用していたのだそうです。
地域のその後の歴史に大きな波紋を投げかけることになったアラブの反乱。その作戦会議が夜な夜な行われていたと考えると、感慨深いものがありました。



十字軍の城塞@キングス・ハイウェイ
■カラク
カラクは海抜1000mの高台に十字軍の城塞が残る町です。エジプト~シリア間の隊商路にあり、もともと宿場町として栄えていたそうです。
12世紀には、ショーバックとエルサレムの間の軍事拠点として十字軍が城を築きますが、後にアイユーブ朝 (エジプト) のサラディン (サラーハッディーン) に征服されました。
城の規模はヨルダン随一で、数百頭の馬を飼っていたと言われる円天井のホールなど、見応え充分。
眼下に城下町が一望でき、城塞はその土地で一番高い場所に築くというセオリーがよくわかりました。



■ダーナ
ヨルダン中央部を南北に貫くキングス・ハイウェイ。カラクからワディ・ハサを越え、1時間半ほど走りタフィーラを抜けると、ダーナ村に行き当たります。
絵葉書にもなっている有名な村で、切り立ったがけの上に、日干し煉瓦と泥で固めたような家がへばりつくように密集しています。
村に足を踏み入れると、一瞬、中世にタイムスリップしたような感覚に陥りました。もっとも、家畜 (もしかして人?) の糞尿の臭いですぐ正気に戻りましたが。
観光資源として貴重な存在であり、政府も力を入れて村に立派な宿泊施設を作っています。そのホテルテラスから見下ろす深い渓谷には圧倒的な自然のパワーを感じました。
ただ、村人はあれこれ縛られるんだろうなと。景観を変えられないので家の近代的な修繕もままならないだろうし。
もし自分がこの村に生まれたらどんな人生だっただろうと、少し考え込んでしまいました。



■ショーバック
タフィーラからさらに南に60km。ショーバックの村のすぐ近くには十字軍の城塞が残っていて、城の内部は教会、浴場跡、貯水池、井戸、脱出用の抜け穴などが見られます。
壁の一部にはサラディンの碑文も残っており、小高い丘の上にたつ姿の美しさもあって、キングス・ハイウェイのひとつのハイライトになっています。



イスラム要塞
■アジュルーン城
ジェラシュの西、いくつか山を越えて走ると、十字軍ゆかりの町アジュルーンに着きます。町を見下ろす小高い山の頂には、アジュルーン城が建っています。
アジュルーン城は、1189年に十字軍を打破したサラディンの甥、イズアッディーンによって1184年に建てられました。
典型的なイスラムの要塞建築で、保存状態も良好。城の内部は階段と数多くの部屋があり、まるで迷路にいるような気分にさせてくれます。
階段を上り屋上に出ると、アジュルーンの町はもとより、北ヨルダン渓谷が一望できました。
当時、アジュルーンはヨルダンとシリアの交易ルートを守る上で重要な砦のひとつであり、夜には通信手段のかがり火が焚かれました。ユーフラテスからカイロへの、情報伝達の中継点の役割を果たしたそうです。


