古代エジプト歴
古代エジプト暦は、1年を365日とする太陽暦でした。1年は120日ずつの3つの季節と、年の最後に置かれる5日間の補正月 (エパゴメネ/パグメ) から構成されていました。
各季節は30日からなる4ヶ月に分けられます。初めは各季節の中で番号が振られていましたが、やがて主要な祭りの名で呼ばれるようになりました。
各月はさらに「デカン (またはデケード)」と呼ばれる10日ごとの3区分に分けられていました。
第19王朝から第20王朝の時代には、各デカンの最後の2日間は一種の週末のように扱われ、王の工匠たち (宮廷の職人) は労働から解放されていたと考えられています。
この暦の1年は太陽年よりほぼ4分の1日短いため、ユリウス暦に比べて約4年ごとに1日ずつずれていきました。
そのため、しばしば「さまよう年」(ラテン語:annus vagus) と呼ばれ、各月が4年ごとに太陽年の中を1日ずつ移動することになりました。
プトレマイオス3世の「カノプス勅令」は、このずれを修正するために4年ごとに6日目のエパゴメネの日を導入しようとしましたが、エジプトの神官や民衆の反対に遭い、実現しませんでした。
この改革は紀元前25年、アウグストゥスの勅令によって「アレクサンドリア暦 (コプト暦)」が制定されるまで放置されました。
うるう年を導入したことで、古代エジプト暦はユリウス暦と等しくなりましたが、グレゴリオ暦とは多くの世紀の変わり目で少しずつずれ続けています。
この民用暦は、宗教儀式や祭礼のために用いられるエジプトの太陰暦と並行して存在していました。
一部のエジプト学者はこれを「太陰太陽暦」であると述べており、太陽年との一致を保つため、2年または3年ごとに閏月が加えられたと推測しています。
古代エジプト暦がいつ頃成立したか、いまだ推測の域を出ませんが、第1王朝 (紀元前3000年頃) ジェル王の石板に、すでにエジプト人がシリウスの星の出 (古代エジプト語:Spdt/ソプデト) と新年を結びつけていた証拠があるとされます (※近年の分析では疑問視)。
エジプトはナイルの賜物
「エジプトはナイルの賜物」とは、古代ギリシャの歴史家ヘロドトスが残した言葉で、ナイル川がもたらした肥沃な土壌によって古代エジプト文明が発展したことを形容するものです。
ナイル川の定期的な氾濫がもたらす肥沃な土は、雨がほとんど降らない砂漠地帯であるエジプトで農耕を可能にし、食料供給の基盤としながら、高度な文明の発展を支えました
ナイル川の毎年の増水・氾濫は、それに伴う農事から1年を3つの季節に区分し、エジプト人はそれを次のように呼んでいました。
・氾濫期または洪水期 (アケト:9月~12月)
・成長期または冬 (ペレト:1月~4月)
・収穫期または夏 (シェム:5月~8月)
第1王朝ジェル王の時代には、氾濫の水位が毎年記録されていました (ナイロメーター)。氾濫は年ごとに大きく変動しましたが、「いずれ必ず来る」ものでした。
ナイル川の氾濫現象と、後年ローマ帝国やイスラム帝国に侵略され続けた歴史は、エジプト人の気質の形成に大きな影響をもたらしたと言われています。
自分は3年間エジプトで先方政府職員と働きましたが、彼らはいつも慎重で自発的な決断を控え、常に「待ちの姿勢」でした。
トラブルに直面しても、待っていればいつか必ず事態が好転する日がやって来るというわけです。国家開発の多くの部分にも、外国ドナーの資金援助が。
・・・すみません、脱線しました。。
12ヶ月の名前(アラビア語)
■氾濫期1~4
①トート (8/29〜)
②バーバ (9/28〜)
③ハートゥール (10/28〜)
④キヤック (11/27〜)
■成長期1~4
⑤トゥーバ (12/27〜)
⑥アムシール (1/26〜)
⑦バラムハート (2/25〜)
⑧バラムーダ (3/27〜)
■収穫期1~4
⑨バシャンス (4/26〜)
⑩バーウーナ (5/26〜)
⑪アビーブ (6/25〜)
⑫メスラー (7/25)
■補正日 (5日間)
ナスィーウ (8/24〜8/28)

以上です。8月29日は古代エジプト歴のトート1日 (1年の始まり) ということで、こんなのを投稿してみました。トートは古代エジプトの「知恵の神」であり、時の管理者だそうです。
ちなみに、エチオピアで現在も使用されているカレンダーも、1年が12ヶ月と5日間です。ただし新年は9月11日 (⇒コチラ)。
ついでに、上の方にも少し書きましたが、エジプト人の性格について、参考までに過去記事を再録。
エジプト人の性格
エジプト人とひと口に言っても、ナイル上流のヌビア地方から地中海に面したアレキサンドリア、またシナイ半島の遊牧民まで、単純にひと括りにはできない多様性を持っています。
そこで、「エジプトはナイルの賜物 (アラビア語:ミスル・ヘバトゥンニール)」という格言に基づき、ナイル川沿いに暮らしてきた人たちを大きな意味でエジプト人と括ることにして、彼らの性格を分析してみたいと思います。
ナイル川は、アスワンハイダムが造られるまで、毎年洪水を起こしていました。洪水のたびに河岸の集落はダメージを受けますが、それが下流に肥沃な土をもたらし、農民はまた1年間畑作ができるようになります。
これを数千年に渡って繰り返してきた人々は、「ナイル川の洪水は、時期は前後するけれど必ず起こる」という「事実」を学びました。
これはつまり、「事態はいつか必ず好転する」ということであり、その信念に基づき、「何もせず楽観的に事態の推移を待つ」性格が形成されていったと言われています。
エジプトの歴史は、支配と抑圧の歴史でもあります。王朝時代はひと握りの王族による大多数の民衆の支配。続いてローマ帝国、ビザンチン、イスラム、オスマントルコ、イギリスと、常にエジプト民衆は他者からの支配を受け続けました。
これほどまで長い間、反乱も起きずに (実際には幾度かあったかもしれませんが)、他者による支配が続いたのは、こうしたエジプト人の「抑圧に耐え抜けばいつか事態は好転する」という確固たる精神力、ポジティブシンキングが影響していたのではないでしょうか。
その結果、数千年の時を耐え、20世紀になってついに真の独立を勝ち得たわけですから、本当に大したものです。日本人とは時間の流れ方が違いすぎると言わざるを得ません。
* * *
例えばサウジアラビアでは、計画というものは有って無きがごとしでした。これは、計画という考え方がイスラムの教義に合致しないからです。
コーラン第18章23~24節には、「何事においても "私は明日それをするのです" などと言ってはならない、"アッラーが御好みになるのなら (インシャーアッラー)" と付け加えずには」と記されています。
そのため、イスラム教徒は何か将来のことに言及した時には必ず最後に「インシャーアッラー」と言うのですが、これでは端から計画遂行や期限の厳守など望むべくもありません。
もちろん、インシャーアッラーはあくまで謙虚な気持ちであって、むしろポジティブな意味にとってあげるべきなのですが、サウジアラビアでの仕事は、とにかく物事が計画通りに進まず苦労しました。
計画が予定通り進まないのは、同じイスラム教国であるエジプトも同じなのですが、エジプト側と一緒に仕事を進めていく上で一番の障害となったのは、エジプト側が負担すべき約束が履行されないことでした。
それは人の配置であったり予算の確保だったりしますが、もともと予算が少ないことに加え、なにしろ彼らは「じっと待っていればそのうち事態が好転する」という信念の持ち主です。「待っていればそのうち日本側が全部やってくれる」という考え方になるのは、当然の帰結でしょう。
日本人はなんとしても計画の期限を守ろうとするし、また予算も単一年度で使い切らなくてはなりません。我慢くらべをするにしてもこちらの時間は限られているわけで、その辺りのせめぎ合いが本当にストレスでした。
また、エジプトはイスラエルと単独和平に踏み切るなど、欧米諸国にとっては中東の模範生です。さらに、スエズ運河があるためヨーロッパ諸国にとっては生命線とも言える地政学上の重要国家であり、その結果、莫大な援助資金や技術協力が集まって、さながら援助の万国博覧会でした。
黙っていてもエジプトに援助したい国はたくさんありますから、日本がエジプト側に対して最後通告的に「約束を守ってくれないと援助を止める」と言っても、あまり効果は期待できませんでした。
相手の自立を促すためには、相応の責任分担をしてもらう方が、オーナーシップの醸成という点からも望ましいというのは自明の理ですが、それがエジプト人相手だと、途端に空論に変わってしまいました。真に自立の必要性を考えていたエジプト人が当時どれほどいたか。(※注:20年前の話です)
諸条件の元、「何もせず待つ」という性格に拍車がかかってしまったことは、長い目で見れば決して得策ではないと思います。しかし、こちらが思う「長い目」がせいぜい数十年なのに対し、彼らのそれはきっと千年単位でしょうから、これはもう最初から勝負になりませんね。

※エジプト人についてはコチラにあれこれ書きました。ほとんど文句ですが、ひとつだけいい話も。