2月に滋賀で知人と会って、あれこれ昔話に花を咲かせました。そんな中、知人が東日本大震災のあと、5月頃には支援のため現地入りしていたことを聞きました。
自分はその時、通信事情が良くない国にいて、日本の情報・映像はかなり限定的にしか知ること・見ることができませんでした。
そのため、当時リアルタイムで日本人が感じていた傷みを共感できていないということに、長年引け目を感じたりもしていました。
数年後、インドネシアで仕事上、東日本大震災の写真パネルを作成し、「アチェ津波博物館」に寄贈することになりました (ジャパンコーナー設置)。
東北の新聞社にコンタクトし、写真10~20枚の提供をお願いしたところ、自らの目で見て選んでくださいと言われ、写真ライブラリーのアクセスキーをいただきました。
そこから3日間、1日3時間ほどかけて、震災の写真を見続けました。1万枚以上見たと思います。それらはどれも、自分の想像を遥かに超えていました。
今思えば本当に浅はかでしたが、どこか軽い気持ちで「何か象徴的な写真を (そちらで選んで) ください」と最初に言ってしまったことは、自分の人生の中でもトップレベルの反省案件です。
震災直後の写真を見続けた1日目、明らかになった被害と難航する捜索活動の写真を見続けた2日目は、心的にも相当ダメージをくらいました。
3日目は、数ヶ月から半年後くらいの写真。復興の兆しを何十枚も目にして、心に希望が湧いてくるのを感じました。けれども、逆に2年後の写真では、進まぬ復興の状況も見て取れ、また少し心が痛くなったのでした。
そうしてなんとか選んだ写真が15枚ほど。直後の様子と住民の避難行動、明らかになった被害状況、復興の兆しと日本の復興政策というストーリーに仕立てました。
新聞社の方にお礼のメールを送ったところ、選んだ写真にはあなた自身のキャラクターが反映されている (だからあなた自身で選びなさいと言った) と、そんな意味合いのお返事をいただきました。
なんとも浅薄なことは重々承知していますが、遅まきながら、自分もあの時の日本人の感情の起伏を、擬似的にでも追体験できたのかなと、当時はそんな風に思いました。
震災の記憶を風化させてはいけない、次世代に伝えなければいけないと、口では簡単に言えますが、思い出したくない記憶というものも当然あるわけです。
そこから教訓を抽出して、できるだけシステマチックな行動規範にする、といったアプローチがいいのかなあ。
例えば大洋州の国では、「ここまで津波が来たことを示す桜並木」の事例を示しても、「嫌な記憶を思い出すから」とかなりネガティブな反応だったことを思い出します。
(アチェ津波博物館)