1991年1月17日、多国籍軍がイラク空爆を開始し、湾岸戦争が始まりました。これまで海外でいろんな経験をしてきましたが、湾岸危機/湾岸戦争当時、サウジアラビアの首都リヤドにいたことは、今も忘れられない経験です。ちゃんと避難帰国できたので、それほど怖い目には合っていませんが、あれこれけっこうギリギリだったなと、時々思い出してはゾッとしたりしています。ということで、当時のことを綴った過去記事を再録します。当時の新聞なんかも新たに掲載。(⇒元記事:サウジアラビアの生活まとめ1)
湾岸危機
1990年8月2日、イラク軍がクウェートに侵攻しました。サウジアラビア国内メディアはそのことには一切ふれず、またCNNなどの衛星放送受信も禁止されていたため、周囲では2日ほど何の話題にもなりませんでした。
東京本社からもとくに情報提供はなく、8月4日になってようやく「大変なことが起きてるらしい」という噂が飛び込んできました。ある日本人が、欧米人の集合住宅に行って衛星放送を見せてもらったところ、イラクのクウェート侵攻のニュースで持ちきりだったと言うのです。
翌日、5日の国内新聞に関連記事が出ました。アラブ各国の外相が集まり、イラク・クウェート問題について緊急会議が開催されるというニュースでした。この時点でも、イラクの軍事侵攻の詳細はまったく報道されておらず、職場のサウジ人にたずねても、「ニュースが少なくてよく分からない」という返事ばかりでした。
8月7日、ついに我々は招集され、緊急会議となりました。聞かされた報告は想像を遙かに超えて緊迫したものでした。クウェートで何が起こっているか、各国、特にアメリカの対応はどうか、今後どんなことが起こりえるのか。
もっとも驚かされたのが、「日本の商社は9日に○○社と□□社、12日までには他の全ての駐在員が出国します」という報告でした。これには集められた全員が顔を見合わせ「エッ!?」と絶句。
のんびりムードが消失し、一気に「最悪のシナリオ」をみんなが考え始めました。「我々はどうなるんだ」「飛行機は手配しているのか」語気を強めた質問が矢継ぎ早に繰り出されました。
我々の仕事は少し特殊で、出国するためにはサウジ政府と日本の外務省両方の許可が必要でした。そのため東京本社が「帰ってこい」と言っても簡単には帰れません。「出国できるか不透明だがとりあえず飛行機の予約をする」ということが確認され、会議は終わりました。
我々の出国についてサウジ政府は、「首都リヤドにまで危機がせまっている状況にはないが、やむを得ない」と理解を示してくれました。一方、日本の外務省は、「現地からは問題ないと聞いている、出国 (避難帰国) は許可できない」というものでした。
最終的には「特別休暇」という名目で出国することができましたが、最後まで「避難帰国」という言葉は使えなかったようです。当時、我々は総勢30名くらいの大所帯でした。一度に飛行機を確保するのは無理なので、8月15日から18日にかけて分散し出国しました。
家財道具や銀行口座もそのまま、このまま帰れなくなったらという一抹の不安はあったものの、とりあえず出国できたことにほっと胸をなで下ろしました。帰国すると日本はお盆の真っ最中。イラクやクウェートの話など、遠い遠い異国の地の昔話のようです。結局日本には1ヶ月ちょっといましたが、清水の商店街を歩くと始終「おどるポンポコリン」が聴こえてきて、平和すぎる日本にほんの少し違和感を持った日々でした。
9月下旬、現地からの「危険はなくなった (最初から危険ではないと言っていた)」という督促に基づき、我々はまたリヤドに戻ることになりました。確かに、この間とくにリヤドで何か騒ぎがあったわけではなく、相変わらずアラブ諸国は対策会議に追われているものの何も解決策を見出せず、ただアメリカを中心とした国際社会がイラクに対する経済制裁を発動するなど、その包囲網をジワジワと縮めている状況でした。
そうこうしているうちに、「1月15日」という期限が設けられました。この日までにイラク軍がクウェートから撤退しないと、多国籍軍がイラクに軍事攻撃をかけるというものでした。その日から新聞には「あと○日」という時計のマークがつくようになり、11月、12月と決定打のないまま、次第に緊迫感が高まっていきました。
12月も押しつまり、ますます戦争の機運が高まってきました。職場では防毒マスクの注文書が回り、そこにはマスタードガスの特徴、症状などが詳細に記されていました。もう戦争不可避のムードが圧倒的に支配している中、東京本社も飛行機の予約に動いてくれていましたが、1月7日以降は極めて予約が取りにくい状況とのことでした。
フライトの数がぐっと減り、チケット代は高騰。本当は本社も飛行機代が安く確実に席が取れる1月早々に、随伴家族くらいは出国させたかったようですが、結局、家族10数名分の席が1月9日出発でなんとか確保できました。
男性20名分は15日に予約は入れたものの、長い長いウエイティングリストと聞かされました。9日に家族をみんなで送り出した後、非常に重苦しい雰囲気に包まれたことを思い出します。
湾岸戦争
年が明け、いよいよ期限が目前に迫ってきました。日本政府はこの時点でも「戦争はない」と言っていたようですが、結果はご存知のとおりです。状況を考えれば、仮にイラク軍が撤退を始めたとしても、米軍主導で開戦してしまう可能性すらあったのではないでしょうか。
なぜアメリカがここまで先陣を切ってペルシャ湾くんだりまで来ているのか、それは「その後」を睨んでいるからです。この楽勝の戦争を主導することで、今後アメリカは湾岸産油国に対し大いに発言権を増すことができるでしょう。まさにアメリカの国益にかなった戦争です。
ということで、またもや「特別休暇」という名目をいただき、我々は1月15日夜8時、リヤド国際空港に向かいました。実は我々の予約はまだウエイティングリストでしたが、「出発の6時間前に空港に来たらなんとかなる」という情報を信じ、かつて経験したことがないほど満杯に混み合う空港のチェックインカウンターに列を作りました。
あちらこちらで悲鳴や怒号が上がっていました。チケットがあっても乗れない人、札束を見せて「なんとかしろ」と迫る人、「もうこれで死ぬんだ」と泣き叫ぶ女性。そんな光景を目の当たりにし、修羅場とはこういうことなのかな、などとぼんやり考える自分がいました。
2時間ほど待った後、急に、「よしOK!荷物を前に出して!」と号令がかかりました。一気に20人分の荷物を前に押しだしベルトコンベアに乗せると、ほどなく全員の搭乗券が発行されました。
そこから出国手続きの長い列に並び、パスポートチェックと荷物検査を終え、搭乗ゲートにたどり着いた時には、すでに午前0時を回っていました。予定どおりならあと2時間で出発だとようやく少しほっとして、みんなとコーヒーで乾杯しました。
しかし午前2時になっても3時になっても搭乗のアナウンスがありません。どうやら、我々のカイロ行きの飛行機だけでなく、他もすべて止まっているようでした。一度、電光掲示板ですべてのフライトに「キャンセル」という表示も出ました。
ターミナルの照明まで落ちたときは本当に真っ青になりましたが、もうあとは成り行きに任せるしかありません。そのままぐったりと待つこと2時間、ついに搭乗が開始されると、明け方5時過ぎ、ようやく飛行機は我々を乗せてカイロに飛び立ったのでした。
1月16日朝10時頃、我々はカイロのシェラトンホテルにチェックインしました。カイロのホテルはどこも湾岸諸国から避難してきた人たちで一杯で、ようやくここが取れたそうです。みんな少し仮眠を取り、夕方集合して今後の対策を練りました。
そもそも、リヤドから1000km西に離れた、つまりスカッドミサイルの射程圏外にあるジェッダへ避難する案はなかったのかというと、「紛争当事国においては国内移動しても避難したことにならない、避難するなら国外へ」という会社の規定がありました。
そして、「第三国へ避難する場合、滞在期間は最大2週間」という規定もありました。我々がカイロからリヤドに帰ることができるのは、「戦争が起きず2週間以内にすべてが解決する」か、「戦争が始まり2週間以内に多国籍軍が完全勝利する」という条件でした。
いずれにしろ、イラク軍撤退の期限は過ぎています。まず最初にアメリカがどう出るかにかかっていました。夕食をすませた後、不安な気持ちを抱えたままベッドに入りました。
「リンリーン!」 突然、けたたましい電話のベルで起こされました。時間は午前3時。電話に出ると、一緒にリヤドから来たスタッフに「開戦した!テレビ観て!」と興奮した声で言われました。
急いでテレビをつけCNNに合わせると、ブッシュ大統領の開戦演説が映し出されていました。開戦するにしても早すぎると一瞬そう思いましたが、どうせやるならイラク軍が撤退する素振りを見せないうちにという、よく考えれば当然のタイミングだったかもしれません。
これでリヤドに帰れる可能性はかなり少なくなりました。イラク軍も徹底抗戦するでしょうし、とても2週間で戦争が終わるとは思えませんでした。30分ほどテレビを観ていましたが、ブッシュ大統領に悪態をついて、また眠ることにしました。
朝、再びみんなで集合、今後の対応策を話し合いました。飛行機会社をいくつか調べたら、カイロは中東の軍事拠点でもあるので、隣国が戦争に突入したからにはカイロ国際空港も当局の指揮下に置かれ、民間航空機の発着がかなり制限される、とのことでした。
実際、すでにカイロ乗り入れ中止を発表した航空会社もあったそうで、もし規定どおり2週間待ったら、このままカイロにカンヅメになるかもしれないと言われました。最終的には、どうせリヤドに帰れそうにないなら、飛行機があるうちに日本に戻った方が良い、という結論に至りました。
19日、我々はまずカイロからアムステルダムに出ました。これは他にフライトの選択肢がなかったからです。事前に言われたとおり、カイロ発着のフライトは極端に減っていました。
アムステルダムではちょうど良い連絡便がなくて、1泊することになりました。そして、アムスから日本への直行便が取れなかったため、今度はアンカレッジに向かいました。
アンカレッジは数時間のトランジットでしたが、長い時間飛行機に乗っていたはずなのに時間がずいぶん前に戻っていたりして、いったい今が何日の何時なのかわからなくなってしまいました。
日本に戻ってきたのは1月21日の朝だったかな? もう記憶もおぼろです。それからリヤドに戻ることができたのは、約3ヶ月後のことでした。
湾岸戦争その後
日本からリヤドに戻った後、スカッドマップなるものを入手しました。リヤド市内と近郊に飛んできたスカッドミサイル (パトリオットに撃ち落とされたもの含む) が記された地図です。「うわ、10発以上落ちてる!」思わず飲んでいたジュースを吹き出してしまいました。
パトリオット迎撃ミサイルもそれなりにスカッドに命中していたそうですが、結局ものすごく破片が飛び散るので、市中の場合、撃ち落としても住宅地にけっこうな被害が出たそうです。
リヤドの町を車で走ると、以前よりかなり静かでした。1991年5月の段階ではまだあまり外国人は戻ってきておらず、町の雰囲気が元に戻ったのはしばらくしてからです。
そんな中で、繁盛しているお店もありました。写真屋です。目玉商品は、パトリオットミサイルがスカッドを撃ち落とす瞬間の写真。地上から爆発点までパトリオットの噴射炎の軌跡がきれいに写されていました。飛ぶように売れていて、これを撮影したカメラマンが大金を手に入れたというのも納得です。
ひとつ憂鬱だったのは、イラク軍がクウェートから逃げる時、油田に火を放ったことです。黒煙は気流に乗ってリヤドに到達し、時には曇り空でもないのにうっすら日が陰ることもありました。臭いで頭痛を訴える人も。
その年、サウジアラビア政府はアメリカから大量の武器を購入したことにより、建国以来初の財政赤字になったそうです。イスラムの聖地に米軍を受け入れたことも、国民の不評を買うところとなりました。
その後、リヤドでも米軍や外国人への爆弾テロがありましたが、湾岸戦争において、地域の大国としてサウジアラビアが取った行動は、果たして正しかったのか。もちろん、政治や外交に正解はなく、あるのはただ結果のみです。