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サウジアラビア小史

昨日の「カタール小史」と同じく、こちらも10年以上前に書いたもの。ブログ引っ越しの際に一旦削除しましたが、そこそこ力作なのでまた載せたいと思います。ただ、苦心して作ったサウド王家の家系図は、とりあえず初代国王までのものだけ再掲します (PDFをJPEGに変換して)。初代のひ孫世代までの家系図はPDFで12ページになってしまうので、割愛 (情報もたぶん不完全なので)。

サウジアラビア小史

アラビア半島の大部分を占める広大な国家サウジアラビアは、言わずと知れた厳格なイスラム国家です。国旗には緑地に白抜きで「ラー・イラーハ・イッラッラー (アッラーの他に神はなし)、ムハンマド・ラスールッラー (ムハンマドはアッラーの預言者なり)」の文字と1本の剣が記されています。

サウジアラビア王国とはすなわち「サウド家のアラビア王国」という意味です。西暦630年頃、メッカ (マッカ) のムハンマドによりイスラム教が興されましたが、4代に渡る正統カリフ時代が終わり、イスラム王朝が中東全域に拡大していくと、この地域はほとんど重要視されなくなりました (メッカ巡礼は除く)。

再度この地域が歴史に登場するのは、18世紀半ばのことです。宗教指導者ムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブはイスラムの教義に立ち返る原理主義党派 (ワッハーブ派) を結成し、アラビア半島内陸部ナジュドの支配者サウド (スウード) 家に擁護されながら、ナジュドにワッハーブ王国を建国しました。

1865年、王国は内戦状態になり、サウド家は一旦クウェートに亡命します。1902年、アブドゥルアズィーズ・イブン・サウド率いる軍勢はリヤドを奪還、次々と領土を拡大し、1932年、領土を統合しサウジアラビア王国を建国しました。この頃アラビア半島西部にはヒジャーズ王国があり、アラビアのロレンスとともにオスマン帝国に反旗を翻した歴史はあまりにも有名ですが、最後に笑ったのはサウド家でした。

サウジアラビアで原油が発見されるまで、人々の暮らしはほとんど遊牧生活のままでした。1953年、国の近代化に努めたアブドゥルアズィーズ初代国王が亡くなると、長男であるサウドが2代目国王に就任しました。中東戦争の勃発、OPECの創設、近隣アラブ諸国との紛争など様々なことが起こり、サウジアラビアの国際的な発言力は次第に増していきました。

1964年、サウドの弟であったファイサルが3代目国王に就きます。第三次中東戦争 (1967年)、第四次中東戦争 (1974年) と続く中で、原油は非常に重要な戦略物資となりました。当時、日本にもオイルショック旋風が吹き荒れたものです。石油業界のメジャーが放った罠なのか、1975年にファイサル国王は甥に暗殺されてしまいます。あとを継いだハーリドは病弱で、ほどなく義弟ファハドが後見人となり権力を握りました。

1979年、エジプトのサダト大統領がイスラエルとの和解を実現すると、エジプトとの外交関係を絶ち、また同年、イランで起こったイスラム革命とイスラム原理主義者によるメッカ占拠事件をきっかけに、サウジアラビアは軍事力増強に動き始めました。

その後は、1990年の湾岸危機、続く翌年の湾岸戦争で、政治的・経済的に深刻なダメージを受けますが、OPEC随一の原油生産国として、世界経済に重要な役割を果たし続けています。ちなみに現国王のアブドゥッラー (※注1:2007年当時、2022年現在はサルマン) も初代国王の息子です。王位継承者、つまり初代国王の息子はまだまだたくさんいるそうです。(※注2:2022年現在はサルマンの息子=初代国王の孫世代であるムハンマド皇太子が実権を握っています)

サウド王家(1)

サウジアラビアの国内情勢を理解するためには、とにもかくにもサウド王家の系図を把握することが重要、と考えてインターネットでサウド王家の家系図を検索してみました。すると、いろいろなサイトが検索に引っかかるのですが、驚くのはデータがバラバラだということです。

データというのはずばりお妃の人数なのですが、アブドゥルアズィーズ初代国王のお妃でいえば、41人あるいはそれ以上というデータを記載するサイトもあれば、22人を公式な人数としているサイト、王位継承権を持つ公式世継ぎ (36人の男子) を産んだお妃17人のみを記載しているサイトなどいろいろあります。

なぜこのようにはっきりしないのかと言えば、アブドゥルアズィーズがアラビア半島の諸部族を統一していく過程で、すべての部族からお妃を娶るよう努力したことによります。何よりも血のつながりを重視する部族集団の集合体であったこの地域では、避けては通れない戦略でした。

サウド家が、あるいはアブドゥルアズィーズがすべての部族と血縁関係を持つ。言うはやすしですが、それ相応の政治力、資金力、実行力、そして体力が必要です。サウジアラビア建国の歴史を読むと、アブドゥルアズィーズという人間が、智力、体力、精神力ともに非常に優れた、不世出の豪傑だったということがわかります。

サウド王家(2)サウジアラビア建国

アラビア半島東部のオナイザ族の一員であったサウド家一族は、1700年頃までに、内陸部ナジュドのディルイーヤ (ディライヤ) に移住してきます。1725年にムハンマド・ビン・サウドが当主になると、近郊の村出身のイスラム法学者であるムハンマド・ビン・アブドゥルワッハーブの説く「本来のイスラムの姿に帰ろう」という原理主義宗教運動 (ワッハーブ運動、ワッハーブ主義) に、全面的に協力することを約束しました。

彼らはアラビア半島の宗教的・政治的統一事業を進め、ナジュド全域、ナジュド北部のカスィーム、半島東部のハサー地方にまで勢力を伸ばしました。事業は息子たちに引き継がれ、当時オスマントルコの支配下にあった半島西部のヒジャーズ地方 (マッカ、マディーナ含む) を奪回、次いでアスィール地方、オマーン、イエメン、そしてバグダッド近郊まで支配権をのばし、約80年をかけ、ついにアラビア半島統一の大事業を成し遂げました (第一次サウド候国)。

しかし1811年、オスマントルコの命を受けたエジプトのムハンマド・アリー軍がアラビア半島を猛襲。1814年にヒジャーズが奪還され、1818年には9ヶ月におよぶ激戦の末、ディルイーヤも壊滅しました。当時の首長アブドゥッラーをはじめ多くのサウド家一族が殺害されたことにより、ここに第一次サウド候国は消滅し、アラビア半島は再びオスマントルコの軍門に下りました。

この戦いを生き延びたトルキー・ビン・アブドゥッラーは、サウド家の再興に立ちあがり、ディルイーヤに代わるサウド家の新たな首都として、リヤドに攻め入りこれを占領しました (1824年)。一方、サウド家一族と同様、数多くの家族を殺されたムハンマド・ビン・アブドゥルワッハーブの一族も帰還して、ワッハーブ運動を再開しました。トルキーは失った領土を次々と回復し、ワッハーブ運動に依拠した治世を行い、アラビア半島を再びサウド家の名の下に統一しました (第二次サウド侯国)。

1865年にファイサル首長が死去すると、2人の息子による激しい権力闘争が始まりました。この争いは内戦にまで発展し、20年以上も続いたため、サウド家は次第に勢力を失っていきました。この間、リヤドの北部地方では、オスマントルコの援助を受けたラシード家が台頭し、本拠地ハーイルを中心として、その勢力をナジュドにまで徐々に拡張していました。1887年、サウド侯国攻略の機会を狙っていたラシード軍は、遂にリヤドに侵攻、同地を管理下に置きました。

サウド侯国の首長を継承していたアブドゥッラフマーンはリヤドに留まったものの、その支配権は名目上だけのものとなり、身分もラシード家に従属する立場に置かれていました。1891年、アブドゥッラフマーンはラシード家によるサウド家一族の抹殺を恐れて、家族とわずかな部下を伴ってリヤドを脱出しました。こうして、第二次サウド侯国は瓦解しました。息子のアブドゥルアズィーズ (後のサウジアラビア王国初代国王) はこの時、10歳の少年でした。

長い亡命生活を送る中で、アブドゥルアズィーズは着実に力をつけていきました。最初の2年間は、ルブアルハリ砂漠で略奪を常習とするムッラ族に身を寄せ、実戦を経験するとともに、砂漠で生き抜く方法を体得しました。クウェート滞在中は、ムバラク首長にその卓越した才能と優れた素質を見いだされ、様々な学問とともに国の政策や外交の駆け引きなどに関する英才教育を施されたと言います。

こうして、1902年、アブドゥルアズィーズと40人の精鋭部隊は、リヤドのマスマク城を奇襲、リヤド奪還に成功しました。その後も幾多の難局を乗り越え、1932年、ついにサウジアラビア王国建国という悲願を達成しました。

サウド王家(3)王族の人数

現在、サウド王家には一体何人くらい家族がいるのでしょう。初代国王にも兄弟はたくさんいますし、大きくとらえれば現在まで血筋が続いている有力分家 (Al-Thunayyan/スナイヤン家、Al-Jiluwi/ジルウィ家など) もあって、全体ではおそらく数万人規模になると思われます。ただ、アブドゥルアズィーズ初代国王の直系子孫に限れば、1999年に刊行された書籍に次のような数字が示されています。

*第二世代(子): 王子36、王女27、計63名
*第三世代(孫): 王子254、王女250、計504名
*第四世代: 王子353、王女363、計716名
*第五世代: 王子144、王女122、計266名
*第六世代: 王子1、王女3、計4名
*合計: 王子788、王女765、計1,553名

王女が他のファミリーに嫁いで産んだ子供達は王族とはみなされないそうです。それでもなお、正当な王位継承権を持つ王子だけでも788名いるということは、やはりとんでもない数字だと思います。しかもわずか100年で、1人の王から直系だけで1,500人以上に増えるとは、恐るべしサウドの血。

今のところ、初代国王の息子たち第二世代が王位を継承していますが、アブドゥッラー現国王 (11男) は83才、存命する一番の末弟 (35男) でも62才と、かなり高齢化が進んでいます。第二世代全員に王位が回ってくるとは考えにくいのですが、そうなると、どこかで第三世代にバトンタッチしなければなりません。さぁ、ここからが問題です。一体どのような基準で王位継承者を撰べば良いのでしょう。

なにしろ、初代国王は友好部族からも敵対部族からもお妃を迎え入れ、そうやってひとつの国を実現しました。しかし、もともと部族への帰属意識が極めて高い人たちですから、親戚になったからといって、昨日まで敵対していた部族といきなり仲良くはできません。少なくとも、自分の部族の権益を侵してまで、他部族に塩を送るようなまねはしないでしょう。

建国以来、自らのファミリーの存在感を増すためのパワーゲーム、数多の駆け引きが行われてきたことは想像に難くないのですが、そういった長年の計略の積み重ねにより、パワーバランスがいくつかの有力ファミリーに集約されてきているようです (もちろんみんなサウドファミリーですが)。ひとつのキーワードは「スデイリーセブン」です。

サウド王家(4)スデイリーセブン

アブドゥルアズィーズ初代国王の17名のお妃のうち、抜きん出て多くの男児をもうけた女性がいます。初代国王の母方であるスデイリー家出身のハッサ妃です。異母兄弟にくらべたらはるかに強い結束力を誇るこの同母7人兄弟は「スデイリーセブン」と呼ばれ、先代国王のファハドを筆頭に、スルタン皇太子兼国防航空大臣、アブドゥルラフマン国防航空副大臣、ナイフ内務大臣、サルマン・リヤド州知事、アフマド内務副大臣と重要なポストを占めています。

7人兄弟の子供達 (第三世代) も着々と地固めをしており、多くの政府要職についています。数は力と言いますが、ここまで勢力を持つと、他の異母兄弟にとっては脅威以外の何者でもありません。ただでさえ第二世代の王位継承はせいぜい15男のスルタンまでで、年齢的な理由からその後は第三世代に王位が引き継がれるのではないかと囁かれている昨今、現在の状況は、このファミリーによる世襲的な支配を予感させるのに十分なインパクトがあります。

いわゆるサウジアラビアの三大州といえば、首都があり政治的中心地であるリヤド州、マッカと商業都市ジェッダがある宗教と経済の中心地マッカ州、そして世界最大の原油埋蔵量を誇る東部州です。つまり、スデイリーセブンとその子息により、首都リヤド、国防、警察、原油が握られていることになります。このように強大になりすぎたスデイリーセブンの抑止力として、質実剛健で部族の絆と伝統を重んじるアブドゥッラー現国王を支持する王子は多いと聞きます。

もちろん、第六世代の王子達が次々に誕生している状況を考えると、スデイリーセブンで括ったのではあまりにも王子の数が多くなりすぎます。もしかしたら、スデイリーセブンの兄弟間でも、将来を見越してすでに駆け引きが始まっているのかもしれません。

サウド王家(5)ファイサル家

血筋の正統性や実業界での活躍という点で、名君の誉れが高いファイサル元国王のファミリーも、周りから一目置かれる存在です。他の有力ファミリーと積極的に姻戚関係を結び、多彩な閨閥を築くとともに、子息達がビジネスグループを形成し大成功を収めています。「サウド家 (Al-Saud)」の中で唯一「ファイサル家 (Al-Faysal)」と名乗ることを許されたファミリーでもあります。以下、その華麗な経歴を記します。

第二世代: ファイサル…第三代国王
第三世代: サウド…外務大臣
第三世代: トルキー…前駐米大使
第三世代: ハーリド…マッカ州知事
第三世代: バンダル…国防省顧問
第三世代: ムハンマド…イスラム銀行総裁
第三世代: アブドゥッラー…Al-Faisaliah Group 会長
第四世代: ムハンマド…Al-Faisaliah Group 副会長
第四世代: サウド…投資会社オーナー、STTB社長
第五世代: ムハンマド…Al-Faisaliah Holding 会長

ファイサル元国王の妻Sultana: スデイリーセブンの母Hassaの実妹
第三世代サラ王女: HRHサウドの子息と結婚
第三世代ルル王女: HRHアブドゥルムフセンの子息と結婚
第三世代ハイファ王女: HRHスルタンの子息と結婚
第四世代ハイファ王女: HRHサルマンの子息と結婚
(HRHサウド=第二代国王)
(HRHスルタン、HRHサルマン=スデイリーセブン)
第三世代アブドゥルラフマン王子: HRHハーリドの娘と結婚
第三世代バンダル王子: HRHマージドの娘と結婚
(HRHハーリド=第四代国王)

プリンスファミリーとの姻戚関係については、他にもまだまだあるという話です。こんなに近い血筋同士で婚姻を続けていて大丈夫かなと心配にならないでもありませんが、ファミリーの勢力を広げるため、部族間の抗争を避けるためには、サウジアラビアの伝統に則ったこの方法が一番良いのでしょう。ちなみに、スデイリーセブンとくらべると、次のような特徴があります。

スデイリーセブン
国防、警察、政治の中心地リヤド州、油田のある東部州を握っている。

アルファイサル
外交に強い。宗教と経済の中心地マッカ州を握っている。実業界での大成功。多彩な姻戚関係。

こうして比較してみると、スデイリーセブンはやはり絶大な権力を持っていることがわかります。しかし、ファイサル家もまるでこれに対抗するかのように今年マッカ州知事のポストを手に入れていますし、何よりファイサル元国王の国家への貢献は、王族からも国民からも今なお評価されています。スデイリーセブンの対抗馬としては、名実ともに申し分ないでしょう。

2005年にアブドゥッラー皇太子が国王に即位したとき、これまでとは違って第二副首相を指名することはありませんでした。第二副首相から皇太子に繰り上がったスルタン王子のように、このポストは次期皇太子、そしていずれは国王を約束されたポストです。ここが空席ということは、いずれスルタン皇太子が国王になったとしても、その後についてはまったくの白紙である、あるいは自分には責任が負えない、というアブドゥッラー国王の意思の表れなのかもしれません。

サウド王家(6)大富豪

ビジネスで大成功を収めているファイサル家のAl-Faisaliah Groupですが、それにも増して世界的大富豪なのが第二世代タラール王子 (18男) の息子、ワリードです。タラールは若くして立憲王制論を唱える改革派の中心人物として、当時皇太子であった保守派のファイサルと対立することになります。その結果、王籍を剥奪され、ナセルの社会主義革命に沸くエジプトに亡命することになりました (1962年)。結局、2年後にはファイサルに和解を申し入れ、サウジアラビアへの帰国が許されましたが、このような経緯があって、タラールはその後政府の公職に就くことはありませんでした。

ワリードは、タラールとレバノン人妻モナの間に産まれました。モナの父は初代レバノン首相という由緒正しい家系です。しかし幼くして両親は離婚、母と一緒にレバノンに移り住み、その後はアメリカに渡りニューヨークの大学で修士を取得しました。大学卒業後はリヤドに帰国し、不動産業で財を成すと、次々と積極的な投資活動を展開、世界的な投資家に成長していきました。一時はビル・ゲイツに次ぐ億万長者としてランクされています。名前もアルワリード (Al-Walid) と尊敬を込めて呼ばれるようになりました。

アルワリードのおもな投資先は、サウジアラビアのKingdom Holding社を核として、国内では流通、製造、金融、農業など多種多様な分野にわたっています (Kingdom Center、Saudi American Bank、Panda Supermarket他)。アメリカでは金融 (City Bank)、メディア・IT (Apple, Motorola, AOL, HP, Amazon, Disney)、製造 (Ford, Kodak) に1%~5%の投資をしています。

他にもホテルリゾートとして、フォーシーズンズ、モーベンピック、ユーロディズニーに20%前後の投資をしています (ユーロディズニーはオーナー)。パリのジョルジュサンクホテルにいたっては100%出資なので、彼の個人所有物です。こうしてみると、実は自分もアルワリードにけっこうお金を落としていることが発覚しました。

2006年版フォーブス誌の長者番付では、アルワリードは前年の第5位から順位を落として第8位。資産200億ドルだそうです。2兆円?。もう何がなんだか…。王位継承権はあるかもしれませんが、こうなるともう王様になる気なんてないでしょうね。

ちなみに、サウジアラビアには他にもビリオネア (10億ドル長者) が何人かいます。2005年の世界長者番付順位、名前、資産、居住地を以下に記しました。アルファイサルはグループでの年間売り上げ6億ドルくらいだそうですから、上には上がいるし、やはりアルワリードは別格ですね。

5. Al-Walid bin Talal, 237億$, リヤド
80. Sulaiman Al-Rajhi, 56億$, ジェッダ
170. Saleh Al-Rajhi, 32億$, ジェッダ
210. Khalid bin Mahfouz, 28億$, ジェッダ
228. Saleh Kamel, 26億$, マッカ
243. Muhammad Al-Amoudi, 25億$, ジェッダ
548. Saad Hariri, 12億$, リヤド