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無理矢理映画レビュー:B級ホラー映画編

これも古い記事ですが (もともとブログ引越し時に削除)、自分的に最近なんとなく映画づいているので、再録。世間的にはあまり評価されていないB級ホラー映画を2本、あれこれ考えてみたものです。というか無理矢理、褒めています。ただ、死霊の盆踊りについては当時よりも今はずいぶん評価は高まっているのかなと。時代が追いついた?

死霊の盆踊り -考察-

「死霊の盆踊り (原題:Orgy of the Dead)」は、1965年に製作されたアメリカ映画です。原作・脚本は「アメリカ史上最低の映画監督」として知る人ぞ知るエド・ウッド。日本では1986年に公開されましたが、平凡な演出、ダイコン演技、物語の不在、信じられないほどのバカバカしさが全編を貫くため、「史上最低のハリウッド映画」「Z級ホラー」などと酷評されました。しかし逆に、その異常なまでのつまらなさが一部で人気となり、伝説的なカルト映画として有名になった、いわくつきの作品です。(Wikipediaより引用)

ストーリーは、『ある真夜中、売れない小説家のボブは、恋人のシャーリーとともに小説のネタ探しをするために墓場へドライブに。しかし車の運転に失敗し、2人は車ごと崖に転落してしまう。その頃、墓場では夜の帝王と闇の女王が死霊たちの宴を開いており、死霊となった女たちが踊っていた。その様子を物陰から見ていたボブとシャーリーは途中で見つかってしまい、縛り付けられて踊りを鑑賞させられる。夜明け近くに2人は闇の女王に襲われそうになるが、その瞬間に朝日が差し込んで死霊たちは骨になり、2人は救急隊によって救出された』というものです。死霊と言ってもみんなスタイル抜群の美女。それっぽいメイクもなく、普通にきれいにお化粧しています。そんな美女 (死霊) たちが、パンイチでくねくねダンス、ぷるぷるダンスを延々と披露していきます。
さて、Amazonの視聴者批評でも辛口の一つ星コメントがほとんどを占めるこの作品。無理を承知でなんとかその素晴らしさを語ってみようと思います。なぜか?。自分が最初にこの作品を観たのは1988年。その時は「なんだこれ?、お金損した!」と思ったのですが、その後もずっと記憶に残り続け、10年ぶりにDVDをレンタルし、何度も観返すに至りました。良くも悪くも印象に残る映画なことは確かで、ということは、やはりそれなりのパワーがあるのかなと思うわけです。この映画が好きか嫌いかと言われれば、むしろ好きな方かもしれません。少なくとも5回観たし。では、「死霊の盆踊り」に何を見いだすのか。

注目したいのは、製作された時代です。本作は、日本公開に先立つこと実に20年、1965年に製作されています。1986年あるいはそれ以降にこの映画を観たら、内容から言って「最低」というレッテルを貼られるのは仕方ないかもしれません。しかし、1965年という時代の空気の中でこれを観ていたら、またひと味違っていたのではないでしょうか。それには、第二次世界大戦以降の、アメリカの近代史を見ていくことが必要です。

1950年代は、朝鮮戦争で幕を開けました。この戦争はその後の米ソ冷戦時代、軍拡競争の始まりとなります。1952年にはアメリカが、翌年にはソ連が水爆実験を成功させます。両国とも新型長距離爆撃機の開発に躍起になり、1957年にはICBM (大陸間弾道ミサイル) が実用化されるに至りました。また、共産主義への恐怖は、マッカーシー議員による赤狩りという名の現代の魔女狩りを横行させ、ハリウッド映画人にもその魔の手が下りました。マッカーシー議員は1954年に失脚するものの、50年代後半まで赤狩りの恐怖の記憶は人々の脳裏に残ったと言われています。

1950年代はまた、アメリカにとって人種差別撤廃への厳しい試練の時代でした。黒人の公民権運動はしだいに活発になり、1955年、アラバマ州モンゴメリーでキング牧師が差別撤廃の大規模なバスボイコット運動をよびかけ、公共輸送機関の差別を撤廃することに成功しました。南部諸州では、食堂や公共施設での差別撤廃を求めて座り込みが行われるなど、人種平等会議などが積極的な運動を展開、その結果、1957年に公民権法が成立することになります。しかしその中で、キング牧師暗殺という不幸な事件も起こりました。一方、1958年からアメリカは深刻な国内不況に見舞われます。失業者数は第二次大戦後最大となりました。

1960年代に入ると、アメリカは共産主義陣営に対抗する資本主義陣営の盟主として、「自由と民主主義の保護」の美名の下、ベトナム戦争やグレナダ侵攻など世界各地の紛争に積極的に介入するようになります。ベトナム軍事顧問団の完全撤退を進めようとしていたケネディ大統領は、志半ばで暗殺という悲劇に見舞われました。1965年2月、アメリカ軍はベトナム北爆を開始。その後、泥沼にはまっていく様は、数々の映画や小説の題材ともなりました。アメリカ政府が突き進める国の形は若者たちには受け入れられず、1960年代後半になると、ロック、ヒッピー、アメリカンニューシネマなど、新しい価値観が次々と生み出されていきました。ちなみにこの時代、日本は全共闘運動のまっただ中です。世界的に、体制への反逆という時代の空気が流れていました。

そこで「死霊の盆踊り」です。「物語の不在」は、赤狩りの時代に自主規制という名で自ら表現の自由を捨てた映画人への決別のメッセージ。「平凡な演出、ダイコン演技」は、旧態依然としたハリウッド映画へのアンチテーゼ。「信じられないくらいのばかばかしさ」はまさに平和の象徴そのもので、1960年代後半の若者が反戦意識の裏返しとしてLSDやサイケデリックアートにのめり込んだように、1965年の「死霊の盆踊り」は、反戦映画としてあえてまったく意味のない映画を装ったのではないかと考えられます。この時期、全共闘運動の日本で、5月革命のフランスで、スチューデントパワー運動の西ドイツで、もし本作を上映していたら、それこそ熱狂的に支持されたのではないでしょうか。

ここまでシュールで意味なさげな映画をあえて作るということは、よほど秘めたる信念があるか、自らの天賦の才に気付いていないか、あるいは本当にアホなのか…。いずれにしても「表現しない」というのは、ある種究極の自己表現だと思います。うーん、アバンギャルド。ということで、本作ならびにエド・ウッドは、いずれ再評価される日が来るに違いないと秘かに思う今日この頃です。 (※注:後年ちゃんと評価されていますね)

ゾンビ・ドッグ -考察-

この邦題とDVDのパッケージにだまされて、ホラー映画のつもりで見始めた人はきっとガッカリすると思います。自分も最初は、ゾンビと化した犬が人間たちに襲いかかり血と肉が飛び散るスプラッタ映画だと思いました。しかし本作は、実際にあった女性連続殺人事件を基に作られた、かなりひねりの効いたサイコ映画です。原題は「Lucky -Based On A True Story-(ラッキー -実話に基づく-)」。ラッキーとは劇中に登場する犬の名前ですが、あくまで狂言回しとしての役割で、確かに人の言葉をしゃべりますが、映画「ベイブ」のように台詞に合わせて口を動かすわけでもなく、もちろんゾンビのようにおどろおどろしい特殊メイクをされているわけでもありません。一度は車に轢かれて血だらけになって死に、それがまた生き返ったという設定なのに、普通の可愛らしい姿のまま。これは重要な伏線です。

主人公は、スランプに陥り酒浸りのアニメ脚本家。ある夜、ビールを買った帰りに車で犬を轢いてしまい、血だらけの犬を自宅に持ち帰ります。ネームタグから「ラッキー」という名であることがわかりました。原稿取り (女性)、電気の検針 (女性)、宗教の勧誘 (女性) が家を訪ねてきますが、みんな彼を馬鹿にしているか利用しようとしているのが見え見え。宗教への寄付を求める女性に対しては、斧でその首を落とす妄想をしてしまいます。「とにかく女性と付き合わねば」とあせった脚本家は、年輩のストリッパー、女装の異母兄弟、老女、修道女、車イスの女性を自宅に招きますが、ちっとも会話がかみ合わずむしろ毛嫌いされるばかり。古いテレビドラマを見続け、自分で女装したりもしますが、いつしか「ミスティ」という理想の女性を妄想するようになりました。

女性編集者 (代理人) が現れ、パートナーを解消すると一方的に宣言された夜、ラッキーが息を引き取ります。しかし地下に埋葬すると、ラッキーは急に息を吹き返しました。ラッキーはパソコンの前でスランプに苦しむ彼に対し、テレパシーで話しかけ脚本のアイデアを出します。中年男性風の低い声色で「シェイクスピア君」などと話しかける人を見下したラッキーの口ぶりに反感を覚える脚本家でしたが、彼に選択の余地はありません。実際、ラッキーの言うとおりに書いてみると、すぐに脚本の買い手が見つかりました。また、ラッキーに命令され嫌々散歩に出かけると、偶然にも理想の女性 "ミスティ" に出会うことができました。そこから彼はミスティと夜な夜な食事と会話を楽しみ、有頂天になっていきます。

ラッキーの指示で次の脚本を書き上げた彼は、原稿取りの女性に、ガールフレンドができたことを得意げに自慢しました。ただし、ミスティとはまだ男女の関係にはなっていませんでした。あいかわらずその一線については想像で楽しんでいるだけです。その後ミスティは、脚本のアイデアを出しているのが犬のラッキーだと知り、彼の電話を取らなくなってしまいました。脚本家に対し、ラッキーは仕事に没頭するよう迫ってきます。彼はミスティを拷問する妄想に耽りました。ある夜、原稿取りに来た女性にもラッキーの正体を知られてしまい、あやまって彼女を殺してしまいます。一度は地下に埋葬しますが、思い直して死体を自宅に持ち帰り、しばらく彼女の体を楽しむことにしました。その後、形見として歯を抜き取りあらためて地下に埋葬しますが、ラッキーは未成年の少女の死体で楽しんだ脚本家をなじりました。

脚本家の自宅を訪れ、再度契約したいと媚びを売ってきた女性編集者に対し、彼は「踊りを見せろ」と命令し、ニヤニヤ鑑賞した後に「猫背で踊る奴とは契約しないよ」とバカにして追い出します。相変わらずミスティとは連絡が取れません。無性に原稿取りの少女に会いたくなり墓を掘り返すと、出てきたのはミスティの無惨な死体でした。しかもラッキーが殺し、顔を食べたというのです。ラッキーを殺そうとした脚本家ですが、逆にラッキーには到底敵わないということを思い知らされました。また、地面の下にはこれまで彼をバカにしていた女性たちの死体が埋められていることにも気がつきました。ラッキーにおびえ、命令に従って女性を襲う脚本家。ターゲットはいつもビールを買っているドラッグストアの女性店員です。彼女を誘拐し、首を絞めて気絶させることを繰り返し飽きるまで楽しんだ後、ラッキーに女を引き渡しました。

しかし相変わらず脚本家のすべてにケチをつけるラッキー。彼はラッキーの力を借りずに脚本を書くため、自分の意志で計画的殺人を始めます。殺した女性たちの形見である歯のコレクションはどんどん増えていきました。そしてついに、ラッキーを見返すため、自ら発火剤を頭からかぶり、ライターを片手にラッキーを脅しにかかりました。しかしラッキーの冷静な口ぶりは普段とまったく変わりません。結局ライターの火は消えてしまい、そしてまたラッキーのアイデアを脚本にする生活が始まりました。脚本は売れ続け、欲しいものはすべて手に入れた彼ですが、ミスティを失った喪失感を埋めることはできず、むなしさの果てにピストルで自らの頭部を打ち抜き自害して、映画は幕を閉じます。

映画を見始めて早々、これは狂った男の妄想であると理解しました。物語の結末としては、大量殺人で逮捕された男が警察の精神鑑定を受けながら、「すべて犬の指示でやった」と真顔で主張するシーンが頭に浮かびました。結局、ラストシーンは男の自殺だったので、男が脚本家であるということ、大量殺人が行われたということのすべてが妄想だったという可能性も出てきましたが、そう考えるとストーリーとして成立しなくなってしまうので、一応、男が脚本家であるという設定は事実として、だとしたら、男はどこから狂っていたのか考えてみます。普通に考えると、ラッキーが生き返るところからが男の妄想なのですが、ちょっとひっかかることもあります。

男が自殺する前に「そんな風にして何年もが過ぎた」というナレーションが入るのですが、その直前にラッキーが語るストーリーが、巨大殺人アリの物語なのです。映画は同じような巨大殺人アリのストーリーを語りつつ幕を開けるので、ここで無限のループに陥っているのではないかと思うわけです。時間軸にひずみが起こっているということは、ラッキーとの出会いそのものが疑わしくなってきます。うーん、やっぱり最初から最後まで妄想なんだろうか…。この映画はほとんどすべて夜のシーンです。最初の方で自宅に女性を招き入れる時は、バックの窓の外はやや明るい光線ですが、部屋の中は薄暗く電気スタンドをつけています。はっきり日中のシーンなのは、ミスティと出会う時だけ。どうせならすべて夜にしてほしかったですね。そうすれば全部妄想だったと整理しやすいのですが。

されはさておき、この映画の何が怖いかというと、全編に満ちた不条理な (ある種滑稽な) 狂気もさることながら、「もしかしたら自分も」と感じてしまうところではないでしょうか。普通に小市民として健全に暮らしているはずの自分が、何かの拍子で歯車が狂いだしたら、この脚本家のように殺人者になってしまうのではないか、という恐怖もあります。しかしもっと身近な感覚として怖いのは、架空の恋人を想像でつくり上げ、最初は戯れ、やがて虐待、そして殺人にまで行き着くところではないでしょうか。この映画を観て、自分にもそのような想像上の残虐性があることに気がついた人は身震いしてしまうと思います。「理想の彼女」については誰もが一度は考えたことがあるものですが、想像とはいえ、どこまでが正常で、どこからが異常なのでしょうか。そして異常な想像をしていた人間はみんな、いずれ殺人者になる可能性があるということなのでしょうか。

本作の監督は、「ほら、あなたも考えたことあるでしょ?」と問いかけているように感じます。そして、「例え想像だとしても、あなたがしたことは変態そのものだね」と薄ら笑いを浮かべているのです。電気ショックを与えたり、首を絞めて気絶させたり…。この映画を観て「意味不明、金返せ!」と思った人はたぶん正常。少しでも「怖い」と感じた人は、自分自身のダークサイドをもう一度見つめ直す必要があるかもしれません。さて、自分は…。

そんな本作、名作や傑作の類ではたぶんぜんぜんないけれど、意外に深い映画なのかもしれません。(下の英語版パッケージの方がちゃんと内容を現しています)