A Dog's World 

~海外で暮らす・日々の記録・旅の記憶~   

イブン・シーナーの「空中人間」

イブン・シーナー (980-1037年) は、イスラム哲学史上最も重要な哲学者、医学者です。ラテン名はアビケンナ (英語読み:アビセンナ)。ブハラ近郊 (現ウズベキスタン) に生まれ、幼い頃から天才を発揮し、18才の頃には形而上学以外の全学問分野に精通し、医師としても名声が高かったと言われます。やがて、アリストテレスの形而上学 (*1) 研究から出発して独自の存在論を確立し、後世のイスラム哲学に絶大な影響を与えました。彼の存在論・宇宙論は、やがて十二イマーム派の神学にも取り入れられました。

イブン・シーナーは、外界も自己の肉体もなんら知覚し得ない状態で空中に漂う「空中人間」(*2) の比喩により、自我の存在がアプリオリ (*3) に把握されるとしています。他方、存在を本質との関係で見ると、存在は本質にとり偶有であるので、そのため、ものの本質はその現存以前にそれとは別な状態で存在すると結論し、この状態の本質を本性 (タビーア) と呼びました。存在可能者の本性が現存者になるには、その存在を必然化する原因が要求され、この原因により現存する存在者は、当然、必然的性質を有することになります。

こうして、現存するものはすべて必然的であるという結論が導かれました。しかし、真に必然的な存在は神のみであるので、現存者の存在が必然性を帯びて見えるのは思惟の領域にとどまるものであり、外在における存在者はあくまで偶存、しかし偶存であることが本質であるとしています。存在の真相についての彼の思索は、やがて彼を神秘的直知による把握へと導いていきました。

* * *

と、本から抜粋してみたものの、わかったようなわからないような・・・。いや、実際わかっているわけないのですが。つまり、身体の中に魂は確かに存在する、ということなのでしょうか。そして魂から人間を作るのが神、あるいは宇宙の全能者。

これが「誰」なのかについて絶対的な定義をすることは難しそうですが (せいぜい仮定)、生まれてきたことはすべて必然性 (原因・理由) があると言われると、なんだか嬉しいですね。「自分なんか世の中にこれっぽっちも役にたちゃしない」なんてひねくれている時は勇気づけられるでしょうから。

ただ、プランクトンなんかの場合は、上位の生物の腹を満たすために生まれてきたのかもしれないので、そういうのだとちょっと悲しすぎますね。まあそれが自然の摂理なんでしょうけど。

*1: アリストテレスの形而上学
自然界の事物は物質、植物、動物、人間、天体 (知的な存在者) というふうに階層状に連なっていて、その一番上の階層に神がいる。自然界全体は、上の階層のものが下のものの目的になるような目的論的体系を持つ。神はあらゆる存在者があこがれる究極目的である。神自身は他に目的を持たないから動かないが、他のすべてを動かす。神は不動の動者であり、世界全体の第一動者である。世界のうちに属するこのような神は、宗教的な神ではない。アリストテレスは自身の「神学」を、科学が必要とし、科学が確定できる範囲に限定しているからである。

*2: 空中人間 (「治癒の書」"魂について"より)
魂が一挙に、しかも完全なもの (それ自体で完結したもの) として創造されたと想像してみる。外部の事物を見る視覚もなく、完全な無の中で想像され、感覚も遮断され、四肢からも切り離されているので触知などもできないと想像してみる。その上でなお、おのれが存在しているかどうかを精査してみるならば、あらゆる形状や尺度を伴わずとも、おのれが存在していることは間違いなく確証・認識できるにちがいない、と想像できる。同時に、自己認識できるものとしての魂は、おのれが身体とは別物だということも認識しえるだろう。

*3: アプリオリ
認識論において用いられる難解な言葉であり、アポステリオリの対語。「先験的」「先天的」などと訳される場合があるが、どちらの訳もこの語の意味にあっていないと言われ、多くの場合アプリオリとカタカナで書かれる。「私はこのことをアプリオリに知っている」という場合は、「私はこのことを知っているが、経験を通じて知ったのではない」というような意味。