山の中
ヨルダンから休暇で一時帰国していた夏のこと、我が身に降りかかった話です。うちの村は南北に流れる川を中心に山に挟まれる、いわゆるV字谷という地形。我が家は東側斜面の中腹にあり、この時は対岸の山に登って家の全景写真を撮ろうと思い立ち、デジカメひとつを抱え軽装で山に入っていきました。家を出たのが午前9時15分。
あらかじめこの場所と決めていた所には10分ほどでたどり着き、何枚か写真を撮ったのですが、ふと、せっかくだからもう少し上に行ってみようかなと思いました。この日は友人たちと昼頃から我が家でバーベキューをする予定があったので、10分か20分上って、いい場所がなかったらさっさと下りてこようと決めました。
そこからは辺り一面杉林です。わずかに残っていた道の跡はすぐに消えてしまい、少し不安になりつつも、できるだけまっすぐ上ることを意識しながら、どんどん上り続けました。しかし、上れば上るだけ景色が良くなるだろうという期待は裏切られました。
杉の背が高く間伐もされていないので、ほとんど周囲が見渡せません。この辺りで素直にあきらめれば良かったのですが、なぜだか「もう少し上れば眺めが良いかも」 という気持ちがわいてきて、「もう少し、もう少し」 と思いつつ、さらに上り続けて行きました。
この日、天気は快晴でしたが、杉林の中はうっそうとしていてほとんど木漏れ日もありません。子どもの頃から怖がりなので、後から考えるとよくこんな所にひとりで行ったなと思いますが、この時は不思議と怖さはありませんでした。
うかつにも携帯電話を持たずに、腕時計すら置いて出てきたのですが、自分では30~40分上ったかなと思った時点で、結局視界が開けることもなかったので、あきらめて引き返すことにしました。
上ってきたルートはちゃんと覚えていたつもりで、しばらくは軽い足取りで下りていたのですが、途中で 「おや?」 と思い足が止まりました。いくつか決めていた目印が見あたらず、杉の木立の感じも微妙に違います。
本当にこのルートで良いのか、急に不安になってきました。さらに、まっすぐ下りたいのに傾斜のせいで自然と右側に進んでしまうのも気になりました。
ただ、それほど距離を上ったわけでもないし、右に下りていってもせいぜい上り口から100メートルか200メートルくらいしか違わないだろうと考え、できるだけ左に進むことを意識しつつ、斜面を下りていきました。
しばらくすると、右下からかすかに沢の水音が聞こえてきました。「良かった、あの沢 (※注:上り口から100メートルほど離れた場所) に出たんだ」 と一安心し、木につかまりながらスピードを殺すようにして、ますます急になった斜面を下っていきました。
しかしようやく沢が見えてきた時、それは自分が考えていた沢とは違うものだということに気がつきました。一旦木の幹につかまり、その場で後ろをふり返りましたが、ここをまた上っていくのは無理、と一瞬でわかるような恐ろしい急斜面が続いていました。
心臓の鼓動がはっきり聞こえる中、できるだけ冷静に考えようと努めました。結論としては、道に迷ったとはいえそんなに遠くまで来ているはずがないという思いから、そのまま沢に下りることにしました。
沢に下り立つまではかなり不安でしたが、わずかに道のような跡を発見すると、少し気持ちが楽になりました。少なくとも人が来たことがある場所だということがわかったからです。
沢沿いをしばらく歩いていると、今度はワサビ田が目に飛び込んできました。それで、ここが今でも人が来る場所だということがわかりようやくひと息つくと、沢の水を手ですくって飲みました。ここで思わず安堵のため息が出たことは言うまでもありません。
そこから道幅は、車が走れるくらいになっていました。開けた視界にまぶしさをこらえつつ空を見上げると、太陽光線の感じからすでに正午かあるいはそれを過ぎているかもしれないと思いましたが、そんなに長時間山の中で過ごしていたという感覚はなかったので、なんだか不思議な気分でした。
また、道が明らかに南側に向かってのびていたので (つまり自宅からはどんどん遠ざかっている)、「ここから何キロ歩くんだろう」 とかなり暗い気持ちになりました。
ひたすらとぼとぼ歩き続けると、ようやく民家が見えてきました。そしてそこが2.5km川下の村だということがわかると、愕然としてその場に棒立ちになってしまいました。まさか、こんな所に出るとは・・・。
炎天下、そこからさらに30分歩いて家にたどり着くと、心配した友人たちが駆け寄ってきてくれました。この時はさすがに安堵で泣きそうになりました。
到着時間、午後2時15分。沢に下りてから川下の村経由で家に帰ってくるまでを差し引くと、山には3時間以上いたことになります。そんなにいた感覚はまったくなかったので、まるでキツネにつままれた気分でした。
その後母親から聞いた話では、自分が上った山には昔、自然遊歩道があったのですが、行方不明になる人が何人も出たため、しばらくしてそのルートは閉鎖されてしまったそうです。村の人たちも、簡単そうに見えて実はとても怖い山だということを口々に言っているのだそう。
生まれてからずっと見続けてきた山でしたが、この時初めてその内部に分け入りました。あの 「ひっぱられる」 感覚は、やはり何かあるのかもしれません。(単に方向音痴とも言いますが・・・)
キツネ
だいぶ前の話。日本の我が故郷の村にて。ある日の明け方4時頃、バス停近くに住む農家のAさんが車で家を出ました。まだ日の出前で薄暗く、車のライトはつけていました。そのライトの向こうに、バス停のベンチに座る少年が見えたそうです。
「あれは○○君だな、なんでこんな時間に」 と首をかしげつつ少年の横を通り過ぎましたが、あらためてバックミラーを見ると、少年の姿は忽然と消えていました。
同じ時期の話です。夜更けに町から戻ってきたBさんが、川沿いの道をとぼとぼ歩く子どもに気がつきました。夜も遅いし車に乗せてあげようと考えスピードを落とし、子どもまであと50メートルほどに近づきました。
Bさんは一瞬よそ見をして、また正面を見ると、子どもの姿は消え、横の藪にザッと入っていく小動物の後ろ足が一瞬ライトに浮かび上がったそうです。
この時期、うちの村ではキツネが出る (キツネが化ける) と話題になっていました。こんな話がけっこう真顔で語られるんだから、やっぱりいいところだなぁ。
母親の不思議な話
ある日、母親の夢に、数年前に亡くなった隣家のCさんが出てきて、「娘をよろしく」 と言われました。Cさんが何を言いたかったのか不思議に思っていたら、その日の夜9時頃、遠くの町で暮らしている隣家の娘さんが急に我が家を訪ねてきました。「連絡なしに帰ってきたら玄関が閉まっていました。電気が消えていて誰も起きてくれないから、今晩泊めてくれませんか」とのこと。「これだったのか」と母親は納得したそうです。
村でお通夜があった日の帰り道、母親が高台にある我が家を見上げると、台所に電気がついていました。全部消灯して出てきたはずなのにおかしいと思い、後ろを歩いていた父親に 「電気消してきたよね?」 と問いかけると、父親は 「ん?」 という感じで変な顔をします。母親が 「ほら、あれ」 と言いながらふたたび家を見てみると、さっきまでついていたはずの電気はすでに消えていました。そこから足早に歩き2、3分で家に着くと、やはり電気は消えているし、ちゃんとドアに鍵もかかっていました。泥棒が入ったのかと思って家中を調べましたが、特にそれらしい形跡もなく、結局その晩はもやもやした気持ちでよく眠れなかったそうです。
村育ちの母親が子どもの頃、一度だけ体験した話です。真っ暗な夜道をひとりで歩いていると、突然横から大きな光の玉が現れました。これがヒトダマなのかと思いつつ、不思議と怖さは感じなかったそうです。直径2メートルくらいある巨大な光の玉で、「ご先祖様が暗い夜道を照らしてくれたのだろう」 と言っていました。
大平村の鎮札神社
~昭和三年「鎮札神社由来略記」より~
■サンケロウ
今から三百年ほど昔のこと。駿河の国、興津川上流の大平村に、産労(サンケロウ)という病が流行りました。サンケロウは妊産婦のみが死亡する恐ろしい病気です。村人が懸命に祈祷を行ったり、薬を与えたりしても何の効き目もありませんでした。
大平村には赤ん坊が一人もいなくなり、若いお嫁さんもいなくなってしまいました。村は死んだように静まり返り、皆ため息をついては嘆き悲しむばかりでした。こんな有り様でしたから、大平村に嫁入りする女性など誰もいませんでした。
■大徳院と九尾の狐の戦い
大平村の柚能(ゆの:現在の湯野)に大徳院という祈祷師がいました。流行り病を案じた大徳院が身を清めて占ったところ、武田氏の怨霊が大平村を滅ぼそうと、九尾の狐となって祟っていると表れました。
大徳院は七日間、斎戒沐浴して身を清めると、二十一日間、飲まず食わずでこの九尾の狐を退治するため、念じ続けました。この間は実に血の出るような戦いで、大徳院は三度も卒倒しましたが、ついに九尾の狐は力尽き、箱に封印されました。
箱は地中深く埋められ、村はふたたび明るさを取り戻しました。妊婦が見られ、赤ん坊の元気な鳴き声が沈んでいた村の空気に活気を与えました。
■大徳院の死
それから丸三年が経ちました。九尾の狐の祟りによる悲惨な出来事もようやく忘れられようとしていたある夏の夜、大徳院が便所に立って、雨戸をたぐり何気なく外を見てみると、一丈余りの妖怪が、今にも大徳院に飛びかかろうとしていました。
大徳院はあわてず静かに雨戸を閉じると、家の中から妖怪に向かって呪文を唱え、九字(身を守るまじない)を切りました。そしてそのまま寝床に入りましたが、翌朝起きてみると、取り入れ忘れた大徳院の浴衣が、竿にかかったまま九字の形に切れていました。
(大徳院の子孫には「夜洗濯物を出しっぱなしにしてはいけない」という言い伝えが現代にまで継がれています)
大徳院はそれから間もなく病気にかかり、ついには亡くなってしまいました。村人はとても悲しみ、盛大な葬式をとり行いました。
■九尾の狐再び
その年の初秋のことでした。二百二十日の天候が大荒れに荒れ、暴風雨が三日三晩続きました。四日目は打って変わって晴天になったので、百姓たちは田畑の被害を見回るため野良へ出かけました。
大平村から二里(8km)ほど川下に和田島という村がありました。その村の百姓が二人で田んぼの見回りに行くと、流された橋杭に立派な箱が引っかかっていました。二人は力を合わせてやっと箱を拾い上げました。
他の人に知られないよう、夜になってから二人は箱の封を切りました。するとたちまち一人が倒れてしまいました。慌てたもう一人が介抱してやっと息を吹き返したのですが、火のような高熱とともに、「川上へ送れ、川上へ送れ」とうわ言をくり返していました。恐ろしくなった百姓は、箱を川上の庄屋送りとしました。
不思議なことに、その箱を受け取った家の者は必ず熱病にかかりました。箱を次の川上の村へ送れば熱病が治るので、箱は順々に大急ぎで川上へ送られ、ついに大平村まで送られてきました。大平は一番川上の村なので、もう送るところがありませんでした。
大平村では、熱病ではなく「サンケロウ」が再び流行しだしました。村人はどんなに驚いたことでしょう。
■鎮札神社勧請
困った村人たちは水神宮の森で村の総寄合を開きました。話し合いの結果、京都に上って霊験あらたかな神様にお越しいただいて、その力にすがることに決まりました。しかし誰が行くかとなると、その人選がまた容易ではありません。一月毎日寄合っても決定しませんでした。
そこで山本元右エ門が「こんなことではいつまでたっても駄目だ。よし、俺が行く。源兵衛、お前もひとつ一緒に歩け」と言いました(元右エ門は昭和初期当時の神主の先祖で、源兵衛はその分家です)。元右エ門と源兵衛の二人は夜も寝ずに京都に参り、神司にその訳を話しました。
神司は二人の熱心さに同情し、神功皇后、日本武尊のニ柱を御神体として「鎮札宮」の呼び名と共に下されました。そして「あらたかなる神ゆえ、途中下に置いてはならぬ」と申されました。二人は夜宿に泊まっても、一人が寝ると一人が御神体を捧げ持っているようにして、大平村に戻りました。二人が大平村を出てから三月がたっていました。
二人が持ち帰った御神体は、村の中央東山の山麓に場所を決め、「鎮札神社」として祀られました。それからはこの村に再び災いが起こることはありませんでした。
オーブコレクション
時々写真に写ってしまう、謎の光る球体、オーブ。空中に浮遊する埃や砂にフラッシュが反射したものと考えるのが一般的ですが、撮影の前後、ほぼ同じ条件で同じものを撮ってもそちらには写っていなかったりします。まあいろんな偶然が重なるんでしょうけれど。
■マダバの教会@ヨルダン
■イラクアミール@ヨルダン
■バンヤンツリー@トンガ王国エウア島