A Dog's World 

~海外で暮らす・日々の記録・旅の記憶~   

ヨーロッパ旅行記

アメリカ人(イタリアバスツアーにて)

イタリアの国内12日間バスツアーに参加したときのことです。約50人の参加者のうち、日本人やアジア人はゼロ。オーストラリアに移住したイタリア人が3分の1、アメリカ人が3分の1、残りは南アフリカ人 (白人) とヨーロッパの人でした。最後はみんなと連絡先を交換しあうほどうち解けましたが、そこに至る過程では、いろいろと艱難辛苦がありました。

団体旅行なので、毎日昼と夜は全員で食事を取ります。すると、どのテーブルに座るかで食事が楽しいものにもつまらないものにも変わります。言葉の点から言っても、この団体の中で明らかに浮いていた自分に、最初に会話を挑んできたのは年輩のアメリカ人でした。

彼は、孫が8人いること、仕事をリタイヤして旅行に参加したこと、イタリアにはマクドナルドがなくて寂しいこと (←これはウケ狙いか) などを、大きな目と長い手足を駆使して話してくれました。こちらがフンフンとひたすら相づちを打っていると、「お前も何か話せ」としきりに催促し、自分のつたない英語を時に深くうなずき、時に爆笑しながら丁寧に聞いてくれました。

それまではみんなから食事の相席を避けられていたような気がしていましたが、翌日からはわりと遠慮なく誰でも自分のテーブルに座るようになりました。たぶん「あの日本人はけっこうしゃべれるぞ」とアメリカ人がウワサを流してくれたのかも知れません。だからといって別に会話が弾んだわけではありませんが、「無口で得体の知れない人」から「普通の人」に格上げ (?) されたようです。

旅行中の大型バスの中でも、冗談を言ってみんなを無理矢理笑わそうとしているのはいつもアメリカ人でした。イタリア人も陽気でしたが、この時のイタリア人グループは移住先 (オーストラリア) からの久しぶりの里帰りということもあって、みんな行く場所見る場所すべてで静かに興奮していました。彼らはナポリの風景に涙を流し、ベネツィアのゴンドラの上では誰からともなく合唱が始まりました。とにかく自分たちが感動するのに精一杯で、他国人に声をかける暇などないといった感じでした。

彼らに比べると、アメリカ人は、とにかく他人にちょっかいを出して「一緒に楽しもうよ」という姿勢が明確でした。年をとったスーザン・サランドンのような怖い顔でいつもするどいツッコミをする女性がいて (そのツッコミがウケていた)、食事が相席になったとき、こちらは何か言われるんじゃないかとけっこうビクビクしていて「だったらしゃべり続けよう」と開き直り、文法がメチャクチャだと思いつつもひたすら自分の話をしました。

そしておもむろに彼女が言った言葉は「へぇ、本当にしゃべれるじゃん」でした。口は悪いが気は優しい彼女は、最初の数日、本当に他の人たちが自分を「変な人」とウワサしていたことを話してくれました。そして「あんたはもっと話しなさい、その方が良いよ」と言ってくれました。でも、話の先でお酒が全然飲めないことを話すと「子供だね (Kids!)」と言ってそっぽを向いてしまいました。その顔は笑っていたように思いますが。

他にも、50才くらいの太めのアメリカ人 (男) がいて、いつもバカなことばかり言っていました。ウケを狙って、わざと人の近くでくだらないことをつぶやきます。こちらが思わず笑っても、ツンとすました顔で、ただただウケたことに満足感を覚えていたみたいです。ポンペイの遺跡を見ていたとき、道ばたにたびたび犬の糞が落ちていて、見つけるたびに「ドッグチョコレート」と言ってクックックと笑っていました。周りからは「もうしゃべるな」といつも怒られていましたが、みんな彼のことが大好きでした。

両親と一緒に来た25才くらいのアメリカ人女性は、カップルやグループがほとんどの中、独り身だったためよくスナップ写真を頼まれていました。いつも快く引き受けていましたが「I am happy snapper」と自虐気味に言っていたのが印象的でした。なんとも気の利いたひと言ですね。ふと思いついたのか、けっこう考えたフレーズなのか。それまでアメリカは個人主義の最たる国といった思いこみがありましたが、このグループのみんなは他人を喜ばせることに必死でした。正直、アメリカ人をかなり見直しました。もっとも、旅行という非日常世界でしたから、できるだけ他人と関わって、少しでも思い出を作りたかったのかもしれません。

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イギリス人(イギリスバスツアーにて)

イタリアのバスツアーが本当に楽しかったので、勢いで今度はイギリス国内バスツアー11日間に参加しました。9月中旬でしたが、出発の日はロンドンは小雨が降っていて底冷えする気温でした。そんなジメジメした気候と同じように、バスの中も何やらしんみりした雰囲気に包まれていました。

外国人もちらほらいましたが、ツアー客のほとんどはイギリス人です。しかもみんな仕事をリタイヤして人生が一段落したところに、自分へのご褒美として夫婦で旅行に参加した人たちばかりでした。なので他人との会話はほとんどなし。ひたすらみんな自分の世界に入っていました。

しかし日程も後半になってくると、さすがに夫婦での会話に飽きたのか、食事の席でいろいろと話しかけられるようになりました。しかし、言われることといえば「若いあなたがなんでこんな高いツアーに参加しているのか」「あなたの年齢ならもっとふさわしい旅行の仕方があるでしょう」「私が君くらいの歳にはバックパックで無銭旅行をしたものだ」などなど、完全にお説教モードでした (若者に対するエールとも言えますが)。

ヨーロッパの国々は「自分の身分や年齢にふさわしい生活スタイル」という考え方があることは、なんとなくわかっていました。イギリスでは見事にそれを指摘されてしまったわけです。若い上にリュックサックで高級ツアー (イギリス人談) に参加している自分は、彼らイギリスの老夫婦にとっては明らかに「場違い」な存在だったようです。(※実際にはむしろ安い部類のパックツアーでした、外国人旅行者にとっては)

「お金を払えば何をしても良い」という考え方は、ヨーロッパでは顰蹙を買うだけです。未だに階級社会なんだなぁと感じました。それにしても、居心地の悪いツアーでした。そして寒かった。人は冷たい、天気は悪い。おまけに食事もいまいち。陽気でおせっかいで涙もろいアメリカ人と一緒に回ったイタリアバスツアーを、心底懐かしく思い出しました。

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ハッギス(スコットランド)

イギリス国内を11日かけてぐるっと回るバスツアーに参加した時のこと、エジンバラにも1泊しました。夕食は毎日ツアーのみんなと一緒に食べるのですが、その日は伝統的なスコットランド料理のレストランに行きました。レストラン入口の出迎えはキルトスカートと民族衣装に身を包んだバグパイプ奏者です。9月半ばでしたが夜の空気はかなり冷たく、スカートで大変だなぁと思った記憶があります。

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中に入ると、レストランと言われていましたが、実際には公民館くらいの広さがあり、長いテーブルが何列か並べてありました。前には一段高くなった舞台もあります。他のツアー客もぞくぞく入場してきて、一通りみんながテーブルに着くと、スコットランドの音楽や踊りを見ながらののんびりした夕食が始まりました。料理は、イギリスと言えばこれしかないという定番のローストビーフ、マトンとジャガイモを煮込んだアイリッシュシチューなどに続いて、スコットランド名物のハッギスが出てきました。

ハッギスは言ってみれば内臓のプディングですが、これが欧米のツアー客にはいろいろな意味でかなりの評判です。レストラン側もそれをよく知っていて、わざわざ舞台の上でハッギスを切り分ける儀式のまねごとまでしていました。各人にハッギスのお皿が配られると、あちこちから「ワ~オ」とか「オーマイガー」などの悲鳴と笑い声が聞こえてきます。味は普通に美味しいんですけどね、確かに見た目があまりよろしくありません。

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イギリスからサウジアラビアに戻ってしばらくしてから、ある日スーパーマーケットでハッギスが売られているのを発見しました。旅行の時はスコットランド風のお店でしかもかなり薄暗いところで食べたせいか、味というよりその雰囲気に酔っていた感もあって、「ハッギスはなかなか美味しいな」と思っていましたが、スーパーの明るい蛍光灯の下で見ると、「こりゃあちょっとやばそうだな」などと、その見た目のインパクトに気後れして結局買うことはありませんでした。名物料理はやはりその土地に行って食べるのが一番ですね。

港町旅情(イギリス、クロヴリーにて)

なんとなくの思いこみですが、イタリアの港町には陽気な水兵さんが酒ビン片手に千鳥足で女の子に声をかけまくっているような、猥雑でにぎやかなイメージがあります。空はカラッと晴れ渡り、波は穏やか。自然と太陽の恵みを存分に受けた海の幸、山の幸は何を食べても美味しいし、奏でる音楽も明るくて素敵。楽しんでこそ人生。愛してこそ人間。生命力にあふれた濃密な空間がそこにはあります。

一方、イギリスの港町はというと、これはどう考えても寒村、あるいはひなびた漁村の姿しか浮かんで来ません。若者の姿などどこにもなく、村で目にするのは老人と犬猫ばかり。空は一年中どんよりとした雲でおおわれ、冷たい波しぶきが浜の石を削ります。食べ物はせいぜいニシンか小粒の岩ガキ、吹き荒ぶ風で人の声すらかき消されるでしょう。耐えてこそ人生。黙してこそ人間。全てを断ち切るような重苦しい空間がそこにはあります・・・。

なーんて、勝手に書きましたが、じゃあ今どっちに行きたい?って聞かれたら、間違いなくイギリスの田舎の港町希望。なんかしっくり来るんですね。なんでだろ。

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フラメンコ(マドリード)

マドリードに旅行したのは夏。夜9時でもまだ明るく、夕ご飯を食べた後もしばらく町をブラブラと散歩していました。ふと、「そういえばフラメンコを見ていなかった」と思い当たり、ガイドブックを開き適当に目星をつけると、タクシーに乗って「Cafe de Chinitas」に向かいました。店内はガラガラ。適当に席についてドリンクだけ注文すると、夜10時過ぎの開演をしばらく待ちました。

フラメンコについては特に予備知識もなく、見るポイントのようなものもわからなかったのですが、実際にショーが始まってみると、その迫力にあっという間に引き込まれてしまいました。ギターと、踊り子の歌とステップが一体となって、たたみかけるように何かを訴えかけてきます。歌の意味はまったくわかりませんが、とにかくその情熱は痛いほど伝わってきました。

もうひとつの発見は、男性の踊りがものすごく良かったことです。素早く華麗な足裁き、ダダダンと床を踏みつける音がホールに響き渡ります。女性の踊りとは別次元の格好良さに、感動することしきりでした。帰りの足がちょっと心配だったので12時過ぎには店を後にしましたが、ショーはずっと続いていました。むしろ、まだまだこれからといった雰囲気で、店の中の熱気と興奮はまったく冷める気配がありませんでした。

マドリードを出国するとき、空港の売店で1冊の雑誌が目に入りました。表紙を飾っていたのは、Cafe de Chinitasで見た踊り子の一人でした。あまりに素晴らしいフラメンコだったので、「もしかして有名店だった?」と考えつつマドリードを後にしましたが、後日調べてみると、やはりかなりの老舗だったということがわかりました。すごくラッキーだったと思います。

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闘牛(マドリード)

闘牛と言えば、普通テレビなどで目にするのは、マタドールが赤い布をひらひらと揺らし、牛の突進を鮮やかな動きでぎりぎりかわしていく姿です。しかしマドリードで実際に闘牛を見て、もっといろいろ手順があるのだとわかりました。また、上手なマタドールもいれば、観客にブーイングを浴びせられる下手なマタドールもいました。で、やっぱりちょっと残酷かなと思ったわけですが、すでにスペイン文化に深く根を下ろしているため、「弁解の余地はない、しかし誘惑にも抗しがたい」という風に考えられているそうです。

闘牛は、毎年春の復活祭の日曜日から9月末または10月初めまで、毎週日曜日の午後、全国に400ヶ所あるといわれる闘牛場で開催されます。16世紀ごろの伝統的衣装を身にまとった闘牛士は、主役のマタドール、銛打ち(バンデリリェロ)3人、騎乗の槍手(ピカドール)2人、助手(ペネオ)数人が1チームとなります。3チームが2度ずつ出場、1日の興行で6頭の牛と戦いを繰り広げます。闘牛場の席は、西日があたる側は値段が安くなっています。私はだんだん日陰になるちょうど真ん中の席を、中間くらいの値段で買いました。

闘牛士が入場すると、まずはピカドールによる槍攻撃、続いてパンデリリェロによる銛打ちが行われ、暴れ狂う牛をほどほどに弱らせます。闘牛を初めて見る観光客はおそらく誰もが我が目を疑い、そして「ずるい」と思うでしょう。こんなカラクリがあったとは知りませんでした。しかしここで牛を弱らせすぎるとひどいブーイングを浴びるので、塩梅が難しいところです。その後、おなじみのマタドールによる赤い布と剣による演技が行われ、最後にマタドールは牛の首の付け根あたりの急所に剣を刺して殺します

この最後の一刺しがうまく命中すると、牛はビクンと痙攣してすぐにバタリと倒れ、マタドールは観客から拍手喝采を受けます。この時見た中で一人だけ、刺しても刺しても牛が倒れない、下手なマタドールがいました。牛も大量に血を流しながらヨタヨタとしぶとくマタドールに突進を繰り返します。こうなるともはや芸術としての趣向は消え失せ、一気に残酷ショーと化してしまいました。観客のブーイングがひどかったこと。マタドールも最後にはなんとかしとめましたが、気の毒なくらいがっくりとうなだれていました。

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アルハンブラ宮殿(スペイン、グラナダ)

アルハンブラ (Alhambra) は、アラビア語で「赤い城塞 (Al-Qal'at Al-Hamra'/アルカルア・アルハムラー)」と呼ばれていたものがスペイン語に転訛したものです。日本ではアルハンブラ宮殿と呼ばれますが、アラビア語の原型では宮殿 (城) ではなく城塞 (砦) と呼ばれていたんですね。

アラビア語を習っていた学生時代、アルハンブラ宮殿はてっきり「カスル (城)」だと思って、「カスルは男性名詞だからハムラー (女性形) ではなくアフマル (男性形) ではないのかな」としばらく悩みました。実際にアルハンブラ宮殿を訪れたときは、ついそんなことを思い出して、感慨もひとしおでした。

美しいタイルと精緻なアラベスク模様、水をたたえる池と噴水のしぶき、風が吹き渡る中庭と陰影に富んだ回廊。そのどれもがイスラム芸術の典型にして極み。しかしなお、そこにスペインを感じるのはなぜでしょう。確かにそこは間違いなくスペインでした。同じようなものをサウジアラビア国内で見ると、「う~、アラブ~」とゲンナリしてしまうんですけどね。

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ガウディのトカゲ(バルセロナ)

サウジアラビアでダッブ (トゲオアガマ) を飼うようになって以来、各地でトカゲグッズを見つけると顔がほころんでしまうのですが、バルセロナのグエル公園にあるトカゲの噴水を見たときは、その人気ぶりに「いやぁ、出世したなぁ」と思わず賞賛の声をかけてあげました (心の中で)。ただ、噴水というより口から大量のよだれがダダ漏れしてるように見えるのが玉にきずかな。

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ポルトガルの魅力

スペインの印象は光と影。強烈な太陽光線は同時に真っ暗な日陰を生んで、あらゆるものに強烈な陰影を作っていました。闘牛やフラメンコの、破滅的ながらも激しい生への情熱と躍動感。急に止まったかと思えばまた突然動き出す緩急の変化に、ドキリとしながらも目が釘付けになりました。広い国土がもたらす豊富な海の幸、山の幸をふんだんに使ったスペイン料理にも感動。どこで何を食べてもたいていハズレなく美味しかったです。しかも安かった。ちなみにイタリアはそれなりにお金を出さないと美味しい料理は食べられませんでした。

そしてやって来たポルトガル。8月だというのに、なんだか全体的に落ち着いた雰囲気。なんと言っても太陽の勢いが弱い。スペインのギラギラした太陽、南仏のサンサンとふりそそぐ太陽とはまた違って、なんというか秋の西日のように透明感があって、ちょっと弱々しい光でした。もちろん人によって感じ方はそれぞれでしょうが、やはりスペインなどとは明らかに異なる空気感だなと思いました。個人的には、決して嫌いではありません。

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フランスにシャンソン、イタリアにカンツォーネがあるように、ポルトガルにはファドがあります。ファドを聴かせるレストランに行きましたが、哀愁たっぷりのギターをバックに切々と歌いあげる姿は、なんだか演歌そのもの。気分は八代か石川か。歌詞の意味はまったくわかりませんが、とにかくいたく感動し、帰りがけにその歌手 (Lenita Gentil) のCDを買ってしまいました。実際には明るい曲調のファドもあるそうですが、ポルトガルの雰囲気には切ないメロディーの方が断然あっていると思いました。

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ポルトガル料理の代表的な食材であるタラの塩漬け (あれだけ海岸線があるのに魚の保存食・・・)、そして名物のイワシの炭火焼き、臓物の煮込みはどれも美味しくいただきましたが、お隣のスペイン料理と比べると、正直かなり地味です。地理的なこともあって、スペインとポルトガルは似たような食文化を持つ国であると勝手に想像していたのですが、実際には大きく異なっていました。しかしそこがまた魅力的に感じます。希望とエネルギーに満ちあふれた食卓ではないけれど、1日の終わりにしみじみと美味しいのがポルトガル料理でした。

これもまたそんなポルトガルのお国柄か、旅行中に見た結婚式 (写真) も、なんとも言えない深刻さが漂っていました (←気のせい)。結婚したけれどこれからが大変だぞ、という世相を現していたのかもしれません (←考えすぎ)。不思議な国でした、ポルトガル。でも、好きだなぁ。

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モンサンミッシェル(フランス)

エジプト滞在中、フランスに旅行してモンサンミッシェルに行った時のことです。パリのホテルでバスツアーに申し込みました。当日集まったのは30名ほど。ほとんどは欧米人でしたが、その中に、日本から来たと思われる女性3人組がいました。バスは一路モンサンミッシェルを目指し、現地に到着したのはお昼近くでした。

まずは腹ごしらえです。昼食代はツアー料金に含まれており、みんなでひとつのレストランに入りました。そこには4人掛けの丸いテーブル席がたくさん置かれていましたが、他にも団体客が入っており、当然、うちのグループにはぴったり人数分のテーブルしか確保されていませんでした。

ツアーガイドが「好きなテーブルに座って」と言うなり、テーブルはどんどん埋まっていきました。こちらもあえて欧米人の席に入っていこうという元気はなく、「余った席に座ろう」とのんびり構えていたところ、結局、日本人女性3人組のテーブルに座ることになってしまいました。

居心地が悪い、と言っては失礼ですが、やはりこういうときにどんな会話をして良いのかわからず、かと言って黙々と食べているのも怪しいので、料理が運ばれてくるたび、当たり障りのないことを話しかけるでもなく、つぶやくでもなく、といった感じで、40分ほどをなんとかやり過ごしました。はー、疲れた。こういう時の相席は外国人の方がまだ気楽だな。

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その後に見たモンサンミッシェルは、昼食の気疲れを吹き飛ばすような、とても素晴らしいものでした。10世紀以降の様々な時代の修道院建築様式が重層構造を成しており、それを中世の軍事施設が取り囲んでいます。極めて重厚で荘厳。内部には静謐な空気が張り詰めており、息苦しいほどでした。

ここは修道院であると同時に、要塞でもあります。さらに、フランス革命時には監獄としても使用されていたそうです。そこに暖かさを感じる余地はなく、逆に冷ややかで暗い歴史がほの見えて、肩に何かズンと重いものがのしかかったようでした。場所が場所だけに、たどり着く直前に潮に飲み込まれて亡くなった巡礼者も多いそうです。

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帰り道、鉛色の空に浮かんだモンサンミッシェルは、来たときよりもちょっと不気味に映りました。

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ブイヤベース(マルセイユ)

世界各地に名物料理は多いですが、ブイヤベースも南仏の名物料理、しかも世界三大スープのひとつに数えられています。エジプト滞在中、マルセイユに旅行しましたが、この時はフランス高速鉄道TGVに乗ることと、ブイヤベースを食べることが目的でした。

もともとブイヤベースは、マルセイユの漁師が売れ残った魚を大鍋で煮込んたものだそうですが、今ではもっと贅沢な魚介類が加えられるようになりました。白身魚、ムール貝、手長エビなどをたっぷりのハーブとともに煮込みます。サフランで色づけされた黄金色のブイヤベースは、軽いカゼなら吹き飛んでしまいそうな、温かくておいしい料理です。

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値段によって味 (というか中身) もピンキリなので、単純にすべてのブイヤベースが世界三大スープクラスの味だとは思いませんが、マルセイユでそれなりに繁盛しているお店であれば、思わず「ウマイッ!」と声が出る美味しさなのは間違いありません。ただし、マルセイユには「ブイヤベース憲章」なるものがあり、昔ながらの「正しい」ブイヤベースとして次のような規定を設けているそうです (ブイヤベースを調べてたら初めて知りました)。

1. 地中海の岩礁に住む魚類を4種類以上入れる。
2. エビ、貝、タコ、イカは使わない。
3. スープは決まった小魚でとる。
4. 短時間で仕上げる。

うーん、そう言えば、何軒か食べ歩いて確かに魚しか入っていないブイヤベースがあったなぁ。「うわっ、質素」と思って、若干落胆したような記憶が・・・。あれが正統派ブイヤベースだったのか・・・。でも、エビとか入ると本当に美味しいんですけどね。観光客もみんなロブスター入りのを頼んでいたし。世界三大スープと言っても、なかなか難しい立場に置かれているのかもしれません。伝統を守るか、はたまたビジネスにのっかるのか。

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アイスバイン(ベルリン)

もうだいぶ前のことですが、「ベルリン・天使の詩」を見て感動し、思わずベルリン旅行を決めました。行く前に同僚から、「サウジアラビアから行ったらドイツの豚肉は格別に旨いよ、アイスバインは是非食べてね」と言い渡されたのですが、それがどんなものかよくわからないまま旅立ちました。

フランクフルトから飛行機を乗り継いだため、荷物が届かないというハプニングはありましたが、翌日荷物は無事に到着、天気も良好、西ベルリンの散策を大いに満喫しました。

さて、西側を見たら次は東側です。電車に揺られ、途中兵隊が乗り込んでくるのを横目に見ながらやり過ごし、ほどなく目的の駅にたどり着きました。博物館を見た後、東側でアイスバインを食べようと考えていたのですが、西から東に入ると、急に町の雰囲気がガラリと変わり、商業店舗がほとんど見あたらず、周囲は団地だらけでした。

「レストランなんてなさそう・・・」と少し不安になりつつ、やや足早に町を巡ると、ようやくレストランを見つけました。そこは小さなビヤガーデンになっていて、テーブルは店の外に並べられ、地元の人らしき客も数人座っていました。

席についてメニューをもらうと、ありました、アイスバインの文字が。店員を呼んでおもむろに「アイスバイン」と伝えると、隣のテーブルから「Oh・・・」という小さな声があがりました。「え、どういうこと?」と思いましたが、運ばれてきたお皿を見て納得。なんとも大きな肉の塊が、どーんとテーブルに置かれました。

とても1人前とは思えません。目の前に鎮座するアイスバインは、とにかくその迫力と存在感がすさまじく、「さすがゲルマン魂」などとわけのわからないつぶやきを発するには十分なインパクトがありました。

アイスバインは豚の骨付きすね肉を塩ゆでした、ドイツ伝統の家庭料理です。見た目こそおおざっぱな感じですが、ドイツの豚肉はやはり美味しいのでしょう、味は良く、とても美味しくいただきました。

帰り際、店員と隣の客双方から「味はどうだった?」と聞かれましたが、「美味しかった、ブンダバー!(素晴らしい)」と答えると、ウンウンと満足そうにうなずいていました。

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ペルガモン博物館(ベルリン)

東ベルリンでは、ペルガモン博物館を堪能しました。館名の由来にもなっているペルガモンの大祭壇、バビロニアのイシュタール門などが代表的な収蔵品ですが、それぞれ「一個の品」という感じではなく、祭壇をそのまま、門をそのまま切り取って持ってきてしまった状態です。つまり「現場」がそこに再現されているわけです。

よくもまぁ、こんな大がかりなことを150年も前にやったなぁと感心するやらあきれるやら。まったくドイツ人の執念深さ、いや、学術探究への情熱には頭が下がります。持って行かれた先方の国には悪いですが、こうしてベルリンに集められたからこそ、これほど貴重な遺産を一時に見ることができました。ドイツの先人に感謝です。いや、感謝とか言っちゃダメか。難しいな。。

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嗚呼、憧れのエーゲ海クルーズ(ギリシャ)

カイロで暮している時、エーゲ海クルーズをしました。大型客船に乗って、アテネ近郊のピレウス発→ミコノス島→パトモス島→クシャダシ(トルコ)→ロードス島→クレタ島→サントリーニ島→ピレウス着、というルートを4泊5日でまわるものです。「船旅」、しかも「エーゲ海クルーズ」という言葉にはものすごく憧れを持っていて、カイロに住んでいた当時、たまたま近所の旅行代理店で「こんなのがあるよ」とクルーズのパンフレットをもらったものですから、これはもう行くしかないと思ったわけです。アテネまでの飛行機代はとても安かったし。

輝く陽光を浴びた、エーゲ海の美しい島々の写真がふんだんに使われたパンフレットは、見ているだけでワクワクしてきました。船のデッキでひたすらのんびりと過ごす自分を想像すると、思わず口元がほころびます。自分にとって船旅とは、セカセカと慌ただしく観光地をまわる旅行と違って、いかにも大人のチョイスという感覚でした。もうそろそろこういう旅をしても良いだろうと、そういうデンと構えた感じの気持ちですね (←天狗)。

そうして、料金プランの検討に入ったのですが、これがなんとも難しい。基本的に値段が高いのもさることながら、下のクラスから上のクラスまで、小刻みにちょっとずつ値段が上がっていきます。こういうのが一番選びにくい。料金プランを見ただけでは、どのクラスに予約したら良いのか誰もが迷うと思います。窓のない内側は避けたい、窓がある海側でも一番下の階はイヤ、一番上のクラスは高すぎ、などと考えると、おのずと2階の海側か、3階の海側になります。

ただ、3階の2種類の海側の部屋を見比べると、安い方は船体後ろ側でエンジンに近いため、おそらくそれなりの騒音がある、ということで60ドルの差がついていると考えられます。このふたつを比べたら、値段はわずかな差ですから、絶対に前側の部屋の方が良いのですが、2階の部屋と比べると、260ドルの差になり、1室の値段で考えると1.5倍ないしは2倍になるわけですから、けっこう大きな差です。こんなに違うなら下の部屋でも良いかな、などと考え始めると、もう全然アイデアがまとまりませんでした。

そのうち知人が、「船の旅は階によって扱いに大きな差があるよ。極端に言えば緊急時に脱出する順番も、上の階が先だからね」などとアドバイスをくれたので、ますますわからなくなってしまいました。「2階の海側より3階の内側の方が値段が安いのに、助かる確立は高いのか」などと考えを巡らせるようになり、やや被害妄想的になったところで、エイヤと割り切って、結局2階の海側の部屋を取ることにしました。タイタニックのようなことには、まぁ、ならないだろうと自分に言い聞かせつつ。

それにしても、いざクルーズが始まって痛感したのは、船というのは、お金をたくさん出した人に露骨にサービスが良いということ。レストランは2回の入れ替え制ですが、自分のクラスは後回しの方でした。最上階のゴージャスなラウンジはファースト&セカンドクラス専用だったし、あるフロアには目に見えない境界線があって、部屋のタグを見せて「そちらに入れる住人」かどうか確認されました。

それまでの旅行では、ジャパンマネーを存分に謳歌して (というほど贅沢旅行はしたことありませんけど)、旅先で卑屈になることなどなかったわけですが、この時ばかりは貧富の差、身分の差というものをヒシヒシと感じ、ファーストクラスラウンジに出入りする、タキシードやドレスに身を包んだ紳士淑女の皆さんを恨めしげに見つめるしかありませんでした。

もっとも、昼間デッキに出てしまえば、そんなことはあっという間に忘れてしまいました。洋上に群れるカモメ、ひたすら紺碧の海、水平線の彼方には何があるのか。気分はもう海のトリトンです (←古すぎる・・・)。島巡りも良かったです。ロバにまたがって山頂に登ったり、紫に色づくサントリーニ島の夕焼けにため息をついたり。時間がゆったりと流れるのを肌で感じました。船旅を選んで、やっぱり良かったです。

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キプロスでがっかり

これまでの海外旅行にたとえ1回でも「ハズレ」があったとは考えたくないのですが、どうもキプロスがそんな感じだったのかなと、時々思い出しては今でも首をひねっています。キプロス旅行に行ったのはエジプト滞在中、ハッジ明けの休暇でした。10日ほど続く休日をどう過ごそうかあまり考えていなかったのですが、ぎりぎりになって「やっぱりどこかに行こう」と思い立ち、カイロから国外に出るのに一番安い飛行機代はどこかとさがしているうちに、キプロスにたどり着いたわけです。

事前に知っていた情報は、以前知人から聞いたキプロス旅行の断片的な話だけ。とりあえず「リマソール」というビーチリゾートエリアにホテルを確保し、あとは特に情報もなく、「陽気は暖かいだろう、シーフードが美味しいだろう、ギリシャ的な雰囲気の景観だろう」などと想像して現地入りしました。しかしまず、空港からタクシーでホテルに向かう道中の風景で「アレレ?」と思いました。なんだか全然アラブを脱出した気分にならないのです。ギリシャの島というよりは、ずっとアラブっぽい景色が広がっていました。

この時は3月末、ちょうどイースターシーズンでもあり、そざかしホテルはヨーロッパ人でごった返しているだろうと思っていたら、ロビーにはほとんど人影がありませんでした。「みんなビーチで寝転がっているのかな」と考えつつ部屋に上がり、さっそくベランダに出てビーチを一望すると、これまたほとんど客の姿が見えません。ここでまた「ん?」。さらに、ベランダで受ける風のなんと涼しいことか。もうだいぶ暖かいだろうと思っていたのに、「ビーチでのんびり」という思惑が外れてしまいました。

5日間キプロスに滞在したのですが、結局毎日涼しい天気が続き、とても海に入るような雰囲気ではありませんでした。ビーチのデッキチェアに寝ていることすら、あまりの風の冷たさから早々に退散。「まぁいいや、とにかく新鮮なシーフードだ」と気を取り直して繁華街に出かけたのですが、ここで激しくガッカリすることになります。完全にあてがはずれました。味はいまいち、しかも冷凍食品ぽいものもちらほら。その店が悪かったということでもなさそうで、結論としては単に「季節外れ」だったようです。

キプロス観光のハイシーズンはやはり夏。7月になればまぶしい太陽の下、きっとどのビーチもレストランも観光客でごった返すことでしょう。港にもたくさん魚があがり、どこで何を食べてもハズレはなさそうな気がします。しかしこの時はホテルも町も、すべてが閑散としていました。「寒い、まずい、寂しい」という三重苦に見舞われ、旅行のウキウキ感はゼロ。ビーチリゾートには真夏に行くべきだなとつくづく思ったのでした。「暑い、旨い、にぎやか」 これがあって初めてリゾートを楽しめるというものです。

シーフードがそんなだったので、せめてキプロスのローカルフードをと思ってメニューを見ると、なんだかアラブ料理と代わり映えしないものばかり。美味しいことは美味しいのですが、エジプトから海外旅行に出かけるからにはアラブを忘れたかったというのが正直なところ。なんだか逆に気落ちしてほとんど写真も撮りませんでした。ひとつだけ、「コマンダリア」という極甘口のキプロスワインだけは、良い旅の思い出として残りました。お酒飲めないんでひと口ふた口でしたが。

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コマンダリア (Commandaria)
キプロスのコマンダリア地方トロードス山麓の村で生産される、琥珀色をした甘口のデザートワイン。収穫したブドウを天日干しして糖度を高めるため、アルコール度数は15度に達する。この製造法については紀元前8世紀の古文献にも見られ、12世紀の十字軍の時代にはすでにコマンダリアの名前を冠していたため、現在も作られているものの中では世界最古のワインと言われる。

コマンダリアの歴史は、美神アフロディーテを祝うためワインを飲む習慣を持っていた古代ギリシャ時代にまでさかのぼることができる。キプロスの天日干ししたブドウから作るワインに関するもっとも古い記述は、紀元前800年のギリシャ語の詩 (Hesiod/Cypriot Manna) である。

12世紀の十字軍の時代、イングランド王リチャード1世、別名「獅子心王 (Richard the Lionheart)」はキプロスで結婚披露宴を催した際、このキプロスワインをいたく気に入り、「王のワイン、そしてワインの王」と讃えたと言われている。この時代にキプロスは他の諸侯 (テンプル騎士団など) に売却されたが、リマソール近郊のワイン生産地だけは手放されなかったという。

13世紀、フランス王フィリップ2世 (尊厳王) は世界初のワインテイスティング大会を開催した。フランスおよびヨーロッパ各国から集められたワインのうち、最優秀に輝いたのはキプロスワインであった (コマンダリアであろうと信じられている)。また、オスマントルコがキプロスを侵略したのは、唯一コマンダリアが目的であった。

コマンダリアはキプロス固有のMavro種とXynisteri種の完熟ブドウで作られる。それぞれ糖度が15~16度、12度になってから収穫されるが、さらに天日干しされ糖度が高められたブドウは、自然発酵でアルコール度数が15度に達する。これらのプロセスはコマンダリア地方の指定された14の村でのみ行われる。

コマンダリアと呼ぶことができるのは、樫の木の樽に最低4年以上寝かされたワインであると法律に定められている。しかしこの熟成工程に関しては、キプロス島の中であれば14の村以外でも行うことができる。同じように高いアルコール度数を持つ甘口ワインが他にもあるが、コマンダリアは完全に自然発酵のみによるものであり、強化ワインではない。

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