A Dog's World 

~海外で暮らす・日々の記録・旅の記憶~   

ニウアフォオー島(トンガ)

トンガのドーナツ島

トンガ最北端の島、ニウアフォオーまで貨物船をチャーターしたらいくら、なんて調べていたら、サモアの方がずっと近いんだなとあらためて認識しました。

飛行機は2週間に1便しかありませんが、一度行ってみたいなぁ。

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ティンカンメール

ニウアフォオーはトンガの最北端に位置する小さな火山島です。港やビーチがなく、また岸辺から海底が深く落ち込んでいるため、錨を降ろすことができません。国際船舶が大洋州を航行する時代になっても、大きな船が島に立ち寄ることはありませんでした。

1882年、島に住んでいたオーストラリアのコプラ貿易商ウィリアム・トラバーズは、本国との通信手段に悩んでいました。いつも遙か沖合を通りすぎる船を見つめながら、島流しの気分を味わっていた彼は、ある日、思い立ったようにトンガ郵政公社に向けて手紙を書きます。

「私はこの島に住む唯一の外国人です。島と外界との通信手段確保のため、提案があります。オーストラリア船舶が島の近くを通るとき、船に積んであるビスケット缶に私宛の郵便物を入れ、海に投げ入れてはいただけませんか。汽笛を合図に、島から泳いで郵便缶を取りに行きますので」

彼はその手紙を油紙で何重にも包むと、泳ぎの達者な島民に、トンガタプに向かう船まで運んでもらいました。これが後に「ティンカンメール(ブリキ缶郵便)」と呼ばれることになる、ニウアフォオー郵便の始まりです。

手紙が詰まった缶を船とやりとりするのは、泳ぎに長けた島民です。時には海流が邪魔をして、1マイル泳ぐのに数時間かかることも珍しくなかったそうですが、彼らはハウの木(ハイビスカスの仲間)を浮きにして、一日何時間も泳ぎ続けることができました。

ティンカンメールの長い歴史の中では、海が大荒れの時でも島に郵便を届けたいと、時には過激な方法も試みられました。1902年、著書 “Ocean and Island” の中でウィリアム・エドガー・ゲイルは、船からティンカンを大砲で撃つのを目撃したと書いています。

しばらくの間続けられた大砲ですが、勢いが強すぎて陸を飛び越え内側の湖に飛び込んでしまったり、衝撃でティンカンが破裂し郵便が海に散乱してしまうなど、結果は今ひとつだったそうです。それでも、島民にとってはそんな郵便をみんなで回収に行くことも、楽しみのひとつだったと言います。

中にはチャールズ・ラムゼイという、外国人にもかかわらず112回も泳いでティンカンを運んだ強者(変人?)もいました(1921年~)。船が夜来たときは、ひときわ長く汽笛を鳴らしたそうですが、泳者が元の場所に帰ってこられるよう、島でも大きなかがり火を焚いていたそうです。

1931年、ティンカンを持って泳いでいた島民がサメに襲われる事故がありました。クイーン・サローテはこの訃報を聞いて悲しみ、以降はカヌーを利用するよう島に伝えたそうです。もっとも、がけの上からカヌーを海に投げ入れ、人が飛び込み、帰ってきたらまたカヌーを引き上げるという作業は容易ではありません。島民にとっては実はありがた迷惑だったのかも?

なお、この時亡くなった島民ですが、その死の床で、島の貴重な真水の貯水タンクを開けてしまったことを懺悔したそうです。島の長老は、これは間違いなく天罰だと島民に伝えました。それ以降、島民がサメに襲われることはなくなりましたが、ついでに、真水が盗まれることもなくなったのだそうです。

このユニークな郵便に付加価値を見いだしたのは、当時ニウアフォオーに住んでいたウォルター・ジョージ・クエンセルなる人物です。彼は ”TIN CAN MAIL” のゴム印を作ると島から出す郵便にもれなく押すようにしました。また、ティンカンメールの受け渡しも、外国人にとっては大変興味深いものでした。島民が泳いでくる姿を、船の客は争って見ていたといいます。

噂が噂を呼び、ほどなくニウアフォオーは “Tin Can Mail Island” として広く知られるようになりました。封筒に自分宛の返信手紙と登録料1ポンドを同封しニウアフォオーに郵便を出すと、 “TIN CAN MAIL” のスタンプや、缶を投げ入れた海の緯度経度が記され戻ってきます。これが世界中の郵便ファンから大変な人気を博しました。

これらを仕切っていたのはクエンセルでしたが、ティンカンメールは島民にも益をもたらしました。それまでこのへんぴな島には、年に1回、コプラ貿易のために大型船が近づくだけでしたが、ティンカンメールが有名になるにつれ、多いときは週に2回も沖合に船が立ち寄りました。新鮮な食料や新聞が頻繁に届くようになり、島民の暮らしも良くなっていったのです。

1946年、ニウアフォオーで大きな噴火がありました。この時、島の半分が溶岩で覆われたといいます。幸い島民から死者は出ませんでしたが、わずか20分の間に、建てられたばかりのラジオ局は倒壊、クエンセルの家も彼の郵便コレクションとともに消失してしまいした。

島民1330名はやむなくエウア島に移住、郵便サービスもなくなります。その12年後、政府の許可を得て200名がニウアフォオー再建のため帰島しますが、クエンセルは疎開先で他界していました。1962年1月、再び国際船舶がニウアフォオーに航路をとるようになり、ティンカンメールも復活しました。この時はクエンセルの子息が招待され、郵便再開の記念式典が行われたそうです。

生前、クエンセルが友人に宛てた手紙の中には、彼が20年の間に、148ヶ国に向けて150万通のティンカンメールを送ったことが記されていました。時には船1隻で、4万通の手紙が(主にアメリカから)運ばれてきたこともあったそうです。

こうして100年続いたティンカンメールでしたが、1983年、島に空港が完成すると、ついにその歴史的使命に幕を下ろすことになりました。今でも世界中のコレクターから人気の高いティンカンメール。ぜひ実物を見てみたいものです。

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トンガ、もうひとつの言語

トンガ最北の島、ニウアフォオーには独自の言語があります。しかし島民はわずか数百人、もちろんトンガ国民としてみんなトンガ語を話せますから、いずれ言語が廃れてしまう可能性もあります。

先週、南太平洋大学トンガキャンパスで、ニウアフォオー語による詩のコンテストがありました。事前にアナウンスして多くの参加者を募ったのですが、残念ながら当日の参加者はあまり多くはなかったそうです。

トンガ政府としては、なんとかニウアフォオー語を次世代に継承しようと、キャンパスのカリキュラムにも言語の授業を組み入れる予定とのこと。ニウアフォオーの学生は無料で首都のキャンパスで学ぶことができるよう決定したそうです。

ニウアフォオー語は、もちろん同じポリネシア語ですから、トンガ語と似た単語もたくさんありますが、一方言ではなく、やはり独立した言語のひとつとみなされています。まだ詳細な研究は少ないようですが、東ウベア語、トケラウ語に近いと言われています。

トンガ人に言わせると、彼の地は文化的にウォリス&フトゥナに近く、ニウアフォオー貴族の親戚もあちらにいるのだとか。きっと向こうからやってきた居住者が、土地に根付き文化を形成していったのかもしれません。

「ティンカンメール」に書いたように、ニウアフォオーは昔火山の噴火で島民がエウア島に移住したことがあります。一部はそのままエウアに定住したこともあって、今でもエウアにはニウアフォオーと同じ村の名前が散在しており、またニウアフォオー語も残っているのだそうです。

飛行機は2週間に一度しかありませんが、トンガ滞在中に一度くらいはニウアフォオーに行ってみたいものです。ドーナツ島の内側の湖で魚釣りがしてみたい。