ライラの湖
「マジュヌーン・ライラ」は中東地域で広く親しまれている悲恋物語です。詩才豊かな主人公カイスは、恋人ライラの名前を詩の中にうたってしまったため、先方の家柄を傷つけたとして求婚を拒否されてしまいました。
ライラは他人に嫁ぎ、癒されぬ心の傷を抱いたカイスはやがて精神に異常を来します。マジュヌーン(気がふれた)と呼ばれ、砂漠をさまよい恋人の幻影を追い求めるカイスでしたが、ライラもまた恋人への想いと夫への忠節のはざまに苦しみ、やがては衰弱して死んでしまったそうです。
この恋物語はアラビアの砂漠的環境に生まれ、その純愛と悲恋、詩のすばらしさなどから広く中東文化圏に伝えられ、時代時代で作品化されています。いわば、中東版ロミオとジュリエットなのです (ロミオとジュリエットがライラの物語を引用したという説も)。
ライラは「夜」という意味で、中東の女性にはよくある名前です。リヤドから約350km南下したところにライラという小さな町がありますが、だからといってここがマジュヌーン・ライラ由来の地というわけではないでしょう。しかし町はずれにあるライラの湖を見ると、ここで物語が生まれたとしても不思議ではないと感じました。
周りは土漠で緑もまばら、生き物の気配をまるで感じさせない静寂な世界です。平坦な土地なので、車で近づいても直前まで湖は見えません。岸に近づくと、突然、土漠にぽっかりあいた穴とそこに満々と水をたたえる湖が姿を現します。
灼熱の太陽に焼きつくされた大地に、そこだけ青々とした水が静かに波音をたてています。この非現実的な世界。時空を飛び越え、マジュヌーン・ライラが姿を現してもおかしくありません。それほど見る者の心をゆさぶる何かがありました。
グラフィティロック
リヤドから車で1時間ほど南下して、土漠のダートロードを右に入ってしばらく進むと、小高い岩山が現れます。もうほとんど崩れかけていて、てっぺんの岩の固まりもいつ崩れるかと心配になるほど。
足下に気を付けながら上っていくと、古代人のロックアート (落書き?) が残されています。我々がグラフィティロックと呼んでいたそれに関する情報は何も残されていませんが、アラビア半島が砂漠化していったこの1万年の間に描かれたものだと考えられています。
この絵にはカモシカやダチョウなど、今はこの地域ではまったく見られない動物が描かれています。アラビア半島内陸部がこのような多様な生態系を持っていたのははるか以前のことであり、またそもそもイスラムが興って以降はこのような像を描くことは禁止されています。少なくとも、イスラム以前のものであることは間違いないでしょう。
この地域には、分かっている範囲では紀元前4000年頃、古代セム族が姿を現しました。紀元前1000年頃には、ミネア王国が紅海沿岸のアシール地方や南部ヒジャーズ地方に建国され、北部ヒジャーズ地方を通じて香料の主要な貿易商人となっていきました。
その後、ナバティア人が北部ヒジャーズ地方のマダーイン・サーレに北方貿易の根拠地をきずくなど、断片的ではあるもののアラビア半島西部については歴史的資料が残されています。
しかし、アラビア半島内陸部ナジュド地方については、紀元前のことはほとんど分かっていません。土漠の真ん中にこのような芸術作品を残したのはいったい誰なのか、真相の究明が待たれるところですが、逆にすべて謎なところが、かえってロマンを感じるのかもしれません。
砂漠で化石拾い
サウジアラビアの生活は予想外に楽しいことがたくさんありました。その中のひとつが砂漠へのハイキングです。砂漠と言うよりはむしろ土漠ですが、車で2時間も走れば、いろいろな地域で化石を拾うことができました。
「化石は掘るものでしょ?」と思われるかし知れませんが、サウジの場合は土漠にぽろぽろと化石が落ちているのです。どこからか化石が飛んでくるわけはないので、イメージとしては地中からちょっとずつわき上がってくる感じでしょうか。あるいは、表土が削られて地中の化石が露出する、と言った方が正しいのかな。
リヤド近郊で何ヶ所か知っていた化石が拾える地域は、何年通ってもいつでも拾うことができました。アラビア半島は遙か古代、海の底だったのでしょう。貝やウニ、サンゴの化石がたくさんありました。
どれもきれいな1個の形で落ちていたのがなんとなく不思議でしたが、拾う方にとってはこんなに楽しいことはありません。2時間もうろうろしていれば、貝やウニの化石が両手一杯集まりました。中にはサメの歯の化石を拾った人もいますが、さすがに魚の化石を拾った人はいませんでした。
他にも、巨大な珪化木 (木の化石) が横たわっているポイント、形はあまり良くないものの、手のひら大のアンモナイトがたくさん落ちているポイントなど、いくつも化石ポイントがありました。サウジに住んでいた外国人の家をたずねると、大抵玄関に化石が飾ってあったものです。
砂漠の塩田
リヤド北西部、250kmくらいのところにある小さな町、アルカサブ。民家もまばらで、町を貫く道路を車で走っていたら誰もその「お宝」には気づかないでしょう。その日は、サウジ人の友人から「アルカサブに行こう」と言われついてきたものの、そこに何があるのかは何も聞いていませんでした。
町を少し過ぎてから道路をはずれ、土漠の中を走ること約10分。相変わらず真っ平らな土漠が広がるばかりです。しばらくして、少し土が盛り上がっているところが見えてきました。「あの裏に何かあるのかな」と思いながらその場にたどり着くと、盛り土の手前で車から降り、その先には徒歩で進みました。
盛り上がった土の上に上がると、目の前に突然、純白の光景が広がりました。しかし太陽の光を受けギラギラと反射するそれが何なのか、最初はよくわかりませんでした。辺りを見渡してみると、ようやくそれが塩田だということに気がつきました。しかし「なぜこんな砂漠の真ん中に塩田が?」という疑問が大きくて、しばらくぽかんと口を開けていました。
友人はそんな自分の顔を見て、ニコニコしながら説明してくれました。彼によれば、ここは太古の昔海の底であったため、地中深くに当時の海水が封じ込められているのだそうです。今はそれをくみ上げ、塩田を作り、商品として出荷しているとのことでした。
確かに、リヤド近郊ではよく貝の化石が拾えますから、アラビア半島が海に沈んでいた時代があったことがわかります。しかし住民はいつこのことに気がついたのでしょう。もしかしたらどこか自然に塩が吹き出している場所があったのかもしれません。
周りには、塩田からすでにかき集められた塩の山がたくさんありました。大きめの塩の結晶をひとつまみ取ってぽいと口に放り込むと、強烈なしょっぱさが口中に広がりました。しかししょっぱいだけではなく、ほのかに旨味と感じるような後味が残って、「良い塩だなぁ」と感心してしまいました。
何キロか日本に持ち帰って母親に渡しましたが、「漬け物に使うと味が良くなる」と言っていました。建物の写真は、アルカサブの町で撮ったものです。昔の豪族の家ということですが、きっと塩で大もうけしたんでしょうね。
砂漠のダイヤモンド
誰が名付けたか、その名も「砂漠のダイヤモンド」。サウジアラビアに住む日本人には「サウジダイヤ」として知られていたその鉱物は、始めに言っておくともちろん本物のダイヤモンドではありません。しかしその硬度と輝きから、なかなか馬鹿にできない美しさを持っているのも事実です。
サウジダイヤ拾いに最初に誘われたときは、さすがにちょっと胡散臭いものを感じ、お付き合い程度でついて行きました。リヤドから230kmほど南下して、さらに車で土漠の中を進むこと数分。ワジ (涸れ川) の横に車を止めると、辺り一面、金魚鉢の底に敷くような、丸くて白っぽい石が広がっていました。
そこで、「じゃ、どうぞ」と言われましたが、どんな石を拾って良いのかさっぱりわかりません。まず、同行した人がわりと良い石、つまりできるだけ透明な石を (その時はカケラでしたが) 拾って見せてくれ、ようやく「これくらいならサウジダイヤと呼べる」という基準がわかりました。
しかしなかなか良い石は見つかりません。化石拾いなら2時間もあれば十分成果が得られるのに、この日は4時間うろうろして、結局小指の先ほどの透明な石をたった1つだけ拾うことができました。念のため「やや透明」くらいのものもたくさん持って帰りましたが、家で冷静に見てみると、「なんでこんなのを持ってきたんだろう」と思うものばかり。俄然、次に向けてやる気が出てきました。
その後いろいろな人から、「日本で調べたら輝きの周波数がジルコン以上でダイヤに近かった」とか「あまりにダイヤモンドに似ているため一時期スーク (市場) でサウジダイヤの売買が中止された」などと聞かされる度、弥が上にも期待は高まり、そのうち自分一人でもサウジダイヤ拾いに行くようになりました。
見つけやすい時間帯とか場所の特徴とか、自分なりにノウハウが蓄積されてきた頃、ようやく自分でも納得のいく石を拾うことができました。ただ、後で拾った石とくらべると、実は一番最初に拾った石が小粒ながらも一番きれいだということに気がついて、それを日本で磨くことにしました。
宝石商に預けるとき、何の石かとたずねられたので、「よくわからないがたぶんクリスタル」と答えました。「みんなダイヤとか言うけどフタを開けてみれば何のことはない、単なるクリスタルでしょ」と若干見くびっていた部分があったのでそう答えたのですが、実際には硬度がクリスタル (硬度7) 以上あって、宝石屋としてはあまり納得いくような研磨はできなかったそうです。
そのため代金はかなり安くしてもらいましたが、「結局何の石なのか」という改めての質問には、ついに答えられませんでした。
サウジアラビア東部旅行
サウジアラビア東部ダンマンの町には、隣国バハレンに延びる海上ハイウェーがあります。バハレンはペルシャ湾に浮かぶ島で、小1時間もあれば車で島を1周できるほど小さな国です。
近隣諸国とちがって天然資源に恵まれているわけでもなく、人口も数万人規模なので、国としての生き残りのため、地域の金融センターになって欧米諸国に門戸を開く道を選びました。
アラビア湾岸産油国といえば、一般的に外国人受け入れに対してきわめて閉鎖的です。1980年代、バハレンはこの地域では唯一外国人が (比較的) 自由に入国できる国でした。
ちなみに、カタール滞在中「なるほど ザ・ワールド」の取材が入ることになりましたが、レポーターの水沢アキさんはなかなか入国ビザが取れず、最後はバハレンまで来てビザ待ちをしましたが、ついに叶わなかったことがありました。
1度、バハレンに出張に行きましたが、ホテルの内部でならお酒も飲めたし、バハレン人女性がわりと普通の格好で、つまり黒いベールをかぶらず外に出ているのを見て、サウジとは随分ちがうなぁと感心したことを覚えています。
1枚目の写真は海上ハイウェーです。手軽にバハレンに行けるようになったので、週末はサウジアラビア人が車で出かけるようになりました。みんなバハレンでこっそりお酒を飲んでいるんだと揶揄されていました。当時、バハレンから帰ってきた車は、相当厳しく荷物チェックされていたそうです。
ダンマンから南に行くと、ホフーフという小さな町があります。湿地帯があるため、昔から農地として知られており、デーツ (ナツメヤシ) の一大生産地となっています。なんでも、デーツのお酒 (ワインと同じように自然発酵する) が密かに製造されているのだとか。
ホフーフの町から少し車で走ったところに「ガーラ山」があります。それなりに有名な観光地のようで、出稼ぎの外国人らしき人たち (インド人とか) も少なからずいました。ガーラ山は自然の岩石層が浸食によって不思議な形になっているもので、内部は迷路のようになっています。
「トルコのカッパドキアってこんな感じ?」と思っていましたが、翌年、実際にカッパドキアに行ってみたら、規模から何からすべてが桁違いでした。
アブハー旅行
アブハーはサウジアラビア西部の高山地帯にある保養地です。標高は3000メートルを超えており、眼下に眺める山脈や、切り立つ岩壁に作られた町で雲がわき起こる様など、観光地としては見応え抜群です。
少し近郊に足をのばすと、昔ながらの工芸品を売っているバスケットスーク、ハンギングロックにかかるロープウェー、イエメンの影響も見て取れる段々畑、山肌に群れを作るバブーンなど、見所がたくさんあります。
個人的に、一番心にグッとくるものがあったのは、オスマントルコ軍の墓地でした。第1次世界大戦中、オスマントルコがサウジアラビア西部のヒジャーズ王国に勢力を伸ばしていたことは「アラビアのロレンス」でも描かれていますが、当時、この地で命を落としたトルコ軍人達の墓地がアブハー郊外にあるのです。
その後、世界は第2次世界大戦によって混迷を極め、この墓地のことも忘れられてしまったのでしょう。異国の地にひっそりと埋葬された彼らの望郷の念を考えると、思わず心がふるえました。もっとも、トルコ軍人の場合、むしろイスラムの聖地に眠っていることは誇りなのかもしれませんが。
ラクダレース
サウジアラビアでは年に1回、国際ラクダレースが開催されます。アラビア湾岸諸国ではどの国もそれなりにラクダレースが盛んですが、この時は近隣諸国からラクダが数百頭も集まり、賞金もかなりの額がかけられます。
優勝者には賞金と名誉だけでなく、種馬ならぬ種ラクダとして、その後の高収入が約束されます。騎手は体重が軽い子供。ラクダを飛行機に乗せるわけにもいきませんから、調整がてら、カタールやクウェートから遠路はるばる子供がラクダにまたがってやって来るのだそうです。
ラクダレースは競馬と違って、何十キロかの直線コースを走るものです。走っている様子は一応テレビ中継されるようですが、基本的には見物人はリヤドにあるゴールの会場でその瞬間を待つことになります。
長距離戦なのでゴール間際の接戦があるわけでもなく、実際のゴールにあたってはただパラパラとラクダがやって来るくらいで、あまり緊迫感はありません。それでもラクダがゴールするたびに拍手喝采がわき起こります。
相当に過酷なレースなのか、ゴール後に騎手の子供がその場に崩れ落ちることも少なくありません。レース前の練習場も何回か見ましたが、子供達がやる気満々で、真剣勝負なんだなとつくづく感心しました。(後年、騎手はロボットに代わったそうです)
ハルジの地底湖
リヤドから車で1時間半ほど走ると、ハルジの町に着きます。そこに地底湖があるという噂は以前から聞いていたのですが、なかなか行くチャンスがなく、もうこのまま見れないのかとあきらめかけていたときです。
毎週土漠でマラソンをする「ハッシュ」というグループのイギリス人が、日本人を誘ってくれました。次のマラソンコースを確保するため、常にリヤド近郊の荒れ地を車で走り回っているため、彼らは本当に良く土地のことを知っています。
ハルジの町からしばらくガタガタ道を走ると、急に、岩の裂け目が現れました。車をそこに止めると、懐中電灯を手に、この裂け目を歩いて降りていくことになりました。もともと暗くて狭いところは苦手な方なので、降りていくときはとても息苦しく、途中、体をかがませて通り抜けなければならないほど狭い裂け目のところでは、よほどギブアップしようかと思いました。
ゆうに数十メートルは降りた後、ようやく、懐中電灯の明かりの先に、キラリと輝くものが見えてきました。水です。しかも青く澄んだとびきり透明な水でした。土漠の地底によもやこんなに美しいプール (10m×20mくらい) があるとは誰が想像できたでしょう。
誰からともなく、「電気を消して静かにしてみよう」という声があがりました。一瞬にして真っ暗闇の静寂な世界となりましたが、背筋がゾッとしたのは自分だけではなかったはず。小さな悲鳴とともに、すぐに誰かが電気をつけました。ああ怖かった。
水深は2m以上あって、じゃぼんと水に飛び込んでもまったく足がつくことはありませんでした。30分ほど水泳を楽しんだでしょうか。夜のプールで泳ぐようなドキドキ感がたまらなかったです。その後地表まで上るのが、メチャメチャしんどかったですけど。
砂漠のダイヤモンド再び
サウジアラビアに再赴任して、久しぶりに行ってきました、"ダイヤモンド拾い" に。デザートダイヤモンド、あるいはサウジダイヤと呼ばれるこの石は、写真のような平原で拾うことができます。
早朝、あるいは午後3時過ぎの、斜めから差し込む太陽光線によって、透明な石はキラリと光り、その存在を主張します。この時間帯以外は、探し出すのにかなり骨が折れるかもしれません。
この日は石を拾った後にスーク (市場) に出かけ、宝石屋で目の保養をしてきました。サウジダイヤも他の宝石と一緒に並べられていましたが、ほんのわずかに青みがかった、これまで見たことのないタイプのサウジダイヤを見つけたので、即、2粒購入 (写真)。家で眺めながら悦に入っています。
マリアテレジア銀貨
オーストリア・ハプスブルグ家の女王、マリア・テレジア (在位1740-1780)。彼女の横顔を刻んだ銀貨を称して「マリアテレジア銀貨」と言いますが、なぜかこの銀貨がアラビア半島と東アフリカで大きな価値を持つようになりました。とくにエチオピアでは、長い間コーヒーの売買にはこの銀貨だけが使われたそうです。
もともとこの銀貨は、オスマントルコなど東方諸国 (レバント) との貿易を目的に発行されたものでしたが、銀貨それ自体に人気が集中したため、女王の没後もこれ以外の貨幣が通用しないという現象が起きました。そのため、オーストリア政府はその後も1780年銘のマリアテレジア銀貨を発行し続けることになったわけです。
なぜこれらの地域でマリアテレジア銀貨だけが異常な人気を呼んだのでしょう。ひとつの仮説があります。まずヨーロッパで鋳造された銀貨が、イエメンのアデンに着き、エチオピア・カファ地方のコーヒーと交換されます。カファ地方からは銀貨が税金としてアジスアベバに納められ、アラビア半島から穀物などを買うため再びアデンに戻ります。このように、当時のアラビア半島と東アフリカでは、マリアテレジア銀貨を基盤とした大きな経済流通圏があったというのです。
さらに、アラビア半島の遊牧民の間では、マリアテレジア銀貨をペンダントに加工して、財産として大切に身につけるということが盛んに行われました。リヤドのアンティーク市場でも、ヒモを通すフックが付けられた銀貨がたくさん見られます。流通の過程で人々が貯蓄する銀貨もたくさんあったため、ヨーロッパから大量の銀貨が供給されたのだそうです。
1935年、オーストリア政府は貨幣の鋳造権をイタリアに譲り渡しますが、この年から、イギリス、フランス、ベルギーも、この1780年銘のマリアテレジア銀貨を便乗して発行するようになりました。そうして、1965年頃までに各国で発行された銀貨は、全部で数億枚とも言われています。マリー・アントワネットをはじめ16人の子宝に恵まれた女王の銀貨は、今でも各地で安産のお守りとして使われているそうです。
さて、以前リヤドに住んでいたときに何枚かこの銀貨を買ったのですが、去年日本の家でお土産を整理していたときは、ついに最後まで見つかりませんでした。当時1枚30リヤル(900円)で買ったものです。
「そんなに高くないし、またリヤドで買おう」という軽い気持ちで再赴任してきたわけですが、いざスークに行ってみると、これがなかなか見つかりません。前は何店か回ればすぐに見つかりましたが、今回はあちこちでたずねても「ない」という返答ばかり。
実はサウジ人にはアンティーク熱がけっこうあるようで、スークでは常に骨董品の競売をやっていたりします。スークに何回か足を運んで、いよいよ「もうないかも」とあせってきた頃でした。一軒のお店で「マリアテレジア銀貨はないか」とたずねると、店主はおもむろに机の下から空き缶を取り出したのです。
「好きなのを選べ」 店主は自信たっぷりに言うと、空き缶から30枚ほどのコインをジャラジャラとガラスケースの上に広げました。広げられたコインは、ピカピカのものと薄汚れたものが半々くらいでした。当然、ピカピカのものは最近作られた模造品、薄汚れた方が本物です (いや、店主の話を信じるのならですが)。
「本物のアンティークでできるだけきれいなもの」という注文に、店主も「それは難しいな」と言いつつ、数枚のコインを選んでくれました (写真)。値段は、1枚50リヤル(1500円)でした。「銀の価格が上がっているから」と言われましたが、関係あるのかな…?
ちなみに、銀貨を親指第一関節の背に乗せ、もう1枚の銀貨でコツンと叩くと、「キイィーーンン…」というとても澄んだ音が響きます。「こんなにきれいな音色はなかなかないぞ」 とまたまた悦に入った夜でした。
砂漠で化石拾い再び
リヤドから150kmほど北上し、砂漠 (土漠) で化石拾いをしてきました。10年以上前の記憶をたよりになんとか目的地にたどり着くと、30分ほどで写真の通りけっこうな収穫が。地面の中から沸いて出てくるようなので、拾っても拾ってもなくなることはないようです。今日は下見でしたが、次はもっと時間をかけてじっくり探そう。
ジェッダ旧市街のバルコニー
ジェッダ旧市街、歴史地区に残る瀟洒なたたずまいの木製バルコニー付き建物を見上げていると、まるで古き良き時代にタイムスリップしたような感覚におそわれます。
balcony という英単語はイタリア語の balcone から来ているそうですが、もともとはペルシャ語のバールカーネ (パールカーネ) が語源なのだとか (ギリシャ語のバレオーという説も聞きました)。
アラビア語ではシャリファ、あるいはそのままバルクーン。マルタ島にも同じような木製のバルコニーがあるそうです。イタリア、ベローナにあるロミオとジュリエットのバルコニーのようなツタの絡まる石造りのバルコニーも悪くありませんが、細木で格子が組まれたジェッダの木製バルコニーも個人的には好きです。
残念ながらこういった建物は老朽化が進んでおり、傾きかけたものもたくさんあります。ジェッダ市当局はこれらの取り壊し作業を進めていますが、どのような形で歴史地区を保存していくのかが注目されます。
土漠でピクニック
ラクダの横断には要注意
インディアンヘッド
ラクダの砂浴び
荒涼とした大地
意外に花も咲いています
侵食の妙
ダンマン鉄道
サウジアラビアの首都リヤドと東部州のダンマンを結ぶ、その名も「ダンマン鉄道」に乗ってきました。昔は治安上の問題から在留邦人は乗るのが禁止されていたので、今回が初乗車です。
選んだ席は1等車よりもさらにゆったりと快適に座れる「リハーブクラス」。小さなカバンを片手に、約5時間かけてダンマンに向かう小旅行の始まりです。
鉄道の旅は独特の雰囲気に満ちています。列車がホームをゆっくりとすべるように発車したときの、わくわくするような、それでいてちょっと切なくなるような気持ちは、何にも代え難い趣があります。
だからこそ、発車のベルは鳴ってほしかった。もうこれでお別れだよと非情に告げる悲しげなベルの音が聞きたかった。日差しがきつくてみんなカーテンを閉じていたので、動き出す瞬間を見逃してしまったじゃないですか。
時折聞こえる 「ファァァン…」 という警笛の音は情緒たっぷりでなかなか良かったのですが、なにしろ外の景色はひたすら土漠が続くばかり。ずっと窓の外を眺めていたら、途中からすっかり飽きてしまいました。
先頭車両にあるリハーブクラスの半分は女性客で、男性は前、女性 (と家族) は後ろという風に分けられていました。本当は2両目以降の1等車と2等車も確認したかったのですが、この女性の群れを通過していくことに気後れしてしまって、結局最後まで自分の席でじっとしていました。
さすがに駅弁までは期待しなくても、何か少しでもダンマン鉄道ならではというものにお目にかかりたかったのですが、特別なものは何もなし。こうしてまったく何のドラマもなく、最後まで淡々と走りきったダンマン鉄道4号でした。
ジャナードリーヤ・フェスティバル
■働くラクダ
■木工
■アスィール州の伝統的建物
石を積み上げた家が有名。高地なので雨が多く、建物の上の方には雨水が壁を垂れないよう小さなひさしのような出っ張りもあります。機能と美観に秀でた伝統工法。
■カスィーム州の伝統的建物
建物の内部に中庭があるのは暑い地方では定番のつくり。風がよく抜けます。外観のいかつさにくらべ、内部はなんともエレガント。つり下げられたずだ袋のようなものは、伝統製法のヨーグルト。酸っぱい匂いの水がポタポタ落ちていました。
■バーハ州の伝統的建物
岩づくりの家。この地方は岩山が広がっているので、生活道具にもいろいろと石が使われています。石焼きビビンバの器のような石の丼もありました。家の内部は柱の装飾が印象的でした。
■ハーイル州の伝統的建物
泥づくりの家。アラビア半島内陸部はみんなこんな感じでしょうか。建材としては石でも木でもなくやはり泥 (土)。まぁ泥なんですがカラカラに乾いているので汚いとも思わないし、ぶ厚い壁のおかげで内部はいつもひんやりしています。
■ジザン州の伝統的建物
1枚目はファラサン島の純白の建物。外壁に彫り込まれた精緻な装飾が圧倒的。白と焦げ茶っていいですね。好きです。2枚目の足の長い幅広の椅子は、この地方の暑さ (地面の輻射熱) を避けるためのデザイン。3枚目はティハーマの家。外壁が荒縄で覆われています。なんだかアフリカっぽいですが、それにしても手がこんでいます。
リヤドの眺め
リヤドで一番高い建物キングダムタワーは99階建て、高さ300メートル。最上階の展望台 (入場料25リヤル/700円) からの眺め。
こちらはファイサリーヤタワー展望台からの夜景。夜11時半だというのに車の列が絶えません。夜はまだまだこれから、といったところでしょうか。