(カタール 1980年代後半)
ペルシャ湾の天然真珠
1973年の第四次中東戦争を機に始まった第一次オイルショックとそれに続くトイレットペーパー買い占め騒動は、今も当時のテレビニュースをYouTubeで見ることができます。
そこから原油価格が急騰し、莫大な収入を得たアラビア湾岸産油国は急激な発展を遂げるわけですが、それ以前は、カタールの首都ドーハであっても、ひなびた漁村のような風情であったと言います。
20世紀初頭まで、カタールには産業と呼べるようなものはほとんどありませんでした。人々は遊牧を行う者と漁業に携わる者とに分かれ、そしてペルシャ湾 (アラビア語ではアラビア湾ですが) から得られる最大の産物が天然真珠でした。
ペルシャ湾はクウェートの海岸からホルムズ海峡まで約970kmありますが、最大深度はせいぜい100m、ほとんどは20~30mのとても浅い海です。そのため、海底まで太陽光が届き、特にバハレンからカタールにかけては真珠貝の大きな生息地 (真珠堆) がありました。
ドーハにある国立博物館では、当時の真珠産業についていろいろな資料が展示されています。当時のカタールはとことん娯楽がなかったので、この小さな博物館にも足しげく通い、よく時間をつぶしていました。
ある日、いつものように博物館でぶらぶらしていると、顔なじみの館長がこちらによって来ました。ちょうど真珠の展示室にいて、館長に「こんなのがあったんだねぇ」などと話しかけると、館長は目をキラリと光らせ、やおら声を荒げ始めました。
曰く、「カタールの天然真珠産業を壊滅させたのは日本の養殖真珠だ」「カタール人の年輩者の中には日本が大嫌いな人がいる」というようなことをガンガンまくし立ててきたのです。
言葉につまってひと言「アースィフ (ごめんね)」と返しましたが、「ま、石油が出たから良かったけどさ」という館長の顔がそれほど怒っていなかったので、半分は冗談だったのかなと思うことにしました。
それにしても、我々が全然知らないところで、日本という国はけっこう恨まれていたんですね。後年、サウジアラビアにいたとき、あちこちの宝石屋でペルシャ湾の天然真珠があるか調べましたが、あっても形の悪い小粒の寄せ集めネックレスで、指輪にできそうな大粒のものはまったく見つけられませんでした。
「そういう逸品は直接金持ちのところに行くから、市場にはめったに出回らないよ」とどの店でも言われました。湾岸産油国に行くと、日本人なんて全然金持ちに見てくれないからなぁ。
カタール大学女子キャンパス
ある時、カタール大学で日本の写真展をやることになり、その準備のため、初めて大学の構内に入りました。キャンパスは広々としていて、徒歩での移動も容易ではありません。
それを察してか、案内してくれた大学の職員が「ここを通ると近道だから」と言って、ひとつの高い塀に作られたゲートを開けてくれました。そこに足を踏み入れた瞬間、目の前の景色が一変しました。そこは女子学生用のキャンパスだったのです。
通常、家から外に出るときカタール人女性は黒い外套 (アバーヤ) を着用します。中には顔だけは出している女性もいますが、少なくとも髪の毛はスカーフで隠すので、それまで普段着のカタール人女性を見たことがありませんでした。
カラフルな衣装に身を包んだ何十人もの女子学生たちが突然目に飛び込んできたため、露骨にドギマギしあせっていると、そういう人を見慣れているのか、案内の人が「ここは最高だろ」と目配せしてきました。「でもあんまりジロジロ見るなよ」というひと言も付け加えられましたが。
変な汗をかきつつようやく女子キャンパスを通り過ぎ、会場の下見などを行った後、最後に学長に挨拶しに行きました。カタールは小国のせいか、役所でも大学でも偉ぶるような人はまったくおらず、みんな気さくに話をしてくれます。
学長とも少し世間話をして、そのうち、ふと学長が「カタールはサウジアラビアより進んでいるんだぞ」と言ってきました。どういうことかとたずねると、それは女子学生への講義の方法についてでした。
サウジアラビアの大学も、カタールと同じように当然女子と男子は別々ですが、サウジでは男性教授がテレビカメラを通じて女子に講義をするのだそうです。それにくらべてカタールは、男性教授が女子の教室に入って行うのでその分進歩的なのだ、とのことでした。
カタールもサウジも、小学生高学年くらいから (中には小1からのところも)、女子と男子のスクールバスや教室を分けます。現地の人は「みんなそうだから」と思っていて案外平気なのかもしれませんね。
ちなみにネットで検索すると、今はカタールも男女共学の学校がたくさんあるようです。
初めての断食
■第一日目
イラクやシリア問題など中東情勢が日本でも日常的に報道されるようになって、「ラマダンが始まる前に」とか「ラマダン中のバグダッド空爆はない」など、「ラマダン」という単語を聞く機会が日本でもかなり増えました。
中には「ラマダン」がイスラム教徒の「断食」を示す単語として認知されていることもあるようですが、実際には、ラマダン (ラマダーン) は月の名前で、断食そのものは「サウム (スーム)」と言います。イスラム教徒は、毎年ヒジュラ暦第9月 (ラマダン) の1ヶ月間、日の出から日没まで飲食を断ちます。
「なんだ、結局夜は食べてんじゃん」と言う人もいるかと思いますが、だから全然辛くないかと言えば、これがけっこうしんどいところもあります。初めての任地カタールで、「最初くらいはやってみよう」と1年目にさっそく断食にチャレンジしてみました。
その年のラマダンは5月。カタールの5月といえばもう日中は40度以上になります。その上ペルシャ湾の湿気で湿度は毎日ほぼ100%。クーラーの効いた建物や車から一歩外に出れば、たちまちメガネが白く曇るほど、天然のサウナ状態です。
オフィスワークならまだしも、外回りは正直かなり辛い。「逆に断食1日目からガンガン外に出ていこう」と勇んでいた気持ちはあっという間に萎え、心も体もできるだけ静かに過ごしていこうという穏健派路線に、早くも方向転換を余儀なくされました。
記念すべき第1日目なので、イフタール (日没後に食べる食事) は普段よりちょっと豪華なものにしました。といってもインド料理屋からテイクアウトしたカレーですが。帰宅後、日没までしばらく時間があったので、カレーをテーブルにセッティングして日没の合図を待ちました。カレーの香ばしい匂いに悩まされつつ。
午後6時過ぎ、テレビから日没を知らせるアザーン (礼拝の呼びかけ) が流れてきました。まずは水をコップ1杯。「くぅー、うまい!」こんなに水がおいしいと思ったのは久しぶりです。あとはカレーを無我夢中でガツガツとお腹に流し込んでいきました。
カレーを一気に食べ終え、ひとしきり満足感にひたっていると、今度は急にお腹が痛くなりました。空腹のところに辛いものを一気に食べたせいか、お腹がキリキリと痛みます。その後は小一時間「う~」とうなるはめになりました。
後で聞いたら、日没後は食事の前に甘いジュースを飲んだりデーツ (ナツメヤシ) を食べて、まずお腹を整えるのだそう。よく考えたら当たり前ですね。反省。
■日没の号砲
カタール滞在1年目に挑戦した断食は、最初は何日続くか自分でも心配でしたが、どうにかその後も順調に続けることができました。断食を初めて10日もすると、日没後すぐにでもご飯を食べたい、という欲求がだんだん薄れてきます。
「とりあえず水が飲めればいいや」というくらいの余裕が生まれたある日、噂に聞いていた「日没の号砲」を聞きに行くことにしました。そこはドーハの中心部、あるモスクの前の広めの空き地でした。
すでに100人くらいの人垣ができています。といってもカタール人ではなく、ほとんどが出稼ぎのインド人やフィリピン人でした。いわゆるヒマ人たち。人が多すぎて広場の真ん中に設置された大砲が見えにくかったのですが、カタールでは珍しい東洋人の姿を見て、みんなが場所をゆずってくれました。
こっちに来いと言われたその場所は、どうやら「特等席」のようで、大砲のほぼ正面です。大砲の横には点火する係りの人がいて、時計をにらみながら日没を今か今かと待っています。ふと、係りの人がこちらを向き、なにやら「どけどけ」という仕草をしてきました。
さすがに空砲でしょうけど、万が一のためにどけと言っているのかなと思って立ち位置を少しずらすと、係りの人は「うんうん」と満足そうにうなずきました。そうこうしているうちに、どうやら日没の時間が来たようです。
やおら大砲は轟音を鳴らし、その瞬間、巨大な空気の圧が襲いかかりました。爆風で身体は1メートル以上後ろに押され、耳がキーンとして頭の芯がくらくらしました。周りにいた人も一緒に身体をよろめかせていて、他の仲間に笑われていました。確かに「特等席」でした。しかし火薬の量が多すぎるのでは…。
■無事完遂
生まれて初めての断食は、無事に30日間終えることができました。しかし一度だけ、かなりのピンチに陥ったことがあります。ある週末、カタール人に雇われているインド人の船長に招待され、みんなで海に遊びに行くことになりました。
家にいてもご飯がほしくなるだけなので、その日は参加することにしましたが、よく考えたらバーベキューとかいろいろ誘惑に駆られる行事が盛りだくさんです。海に行く途中、「大丈夫かなぁ」と急に心配になってきましたが、1人だけ引き返すわけにもいきませんでした。
断食中は、異教徒であっても日中は外で目立つように飲食をすることは避けなければなりません。この日はドーハからだいぶ離れ、船長を雇っているカタール人オーナーの所有するプライベートビーチに行きました。もちろんオーナーはいません。
まずは小型ボートを遠浅の海に出し、インド人船長の子分が昨晩仕掛けておいた網のチェックです。網を引き上げていくと、早速何か小ぶりの魚がかかっていました。「いるいる!」船上はにわかに活気づいてきました。
南洋のカラフルな魚があっという間に10匹ほど引き上げられ、大喜びの我々を尻目に、船長はクールに「次の網」と言ってボートの進路を変えました。
次の網を引き上げると、突然、網の一番前をたぐっていた人が「ギャッ」と叫びました。何かと思って見てみると、50cmくらいの小さなサメがかかっていました。まだビクビク動いています。舟にあげる前に捨てたかったのですが、思いっきり網にからんでいるので、どうしても一度舟の上に上げなければなりません。
サメの体を押さえようとしたその時、船長が「危ないぞ」とするどいひと言を発しました。確かに、いわゆる「サメ肌」なので、触ろうとすると紙ヤスリでこすられたように皮膚が傷ついてしまいます。可愛そうですが足で押さえつけ、やっとの思いで網からはずし、海に帰ってもらいました。
船長いわく、サメがかかる時は他の魚は期待できないそうです。その通り、次の網、さらに次の網にも食べられる魚はかかっておらず、かわりに小さなサメが3~4匹ずつかかっていました。我々があきらめかけた頃、最後の網で、小ぶりながらもハムールという極上の魚をとることができました。そうしてようやく船長の顔にも笑顔が戻ったのでした。
漁を終えて戻ってくると、ビーチでは火おこし班がもう準備万端でした。わいわい言いながら、あっという間にバーベキューがスタート。気温は40度。さらにたき火を囲んでいます。焼き網の上からはこの世のものとは思われぬほど良いにおいが立ち上ってきます。
みんなは冷たいビールやジュースで乾杯しているし、船長もたぶんムスリムだと思うのですが、やっぱり缶ジュースを片手に上機嫌です。こんなに和やかな雰囲気の中で、1人だけ手持ちぶさたでいる自分を見て、みんな口々に「断食なんてやめれば?」と言い寄ってきました。
「今日食べてもあとで1日追加すればいいんでしょ」などと言われると、「う~ん、それもありかも」と思わず弱気になってしまう自分。しかし結論から言うと、この日はなんとか耐え抜くことができました。そして、30日間の断食を全うすることができたのです。この時船長がかけてくれた、「今日の1日は普段の断食1000日の価値がある」という言葉を今も忘れません。
ダウ船
中東と聞くとまず砂漠、そしてベドウィンを想像しますが、カタールにはペルシャ湾があり、もともと海の恵みを受けながら暮らしてきた民族です。
ドーハ湾には昔ながらの舟である「ダウ船」がたくさん停泊していました。カタール人はダウ船に乗り、その昔は天然真珠を、近代になってからは主に漁業で生計を立てていました。
しかし、1974年のオイルショック以降、原油価格が何倍にも高騰し、カタール人は飛躍的にお金持ちになりました。人々は自ら働く必要がなくなり、漁業に携わる人の数も年々減って、そうしてダウ船もだんだんとすたれていきました。
自分がいた当時でも、同じお金を出すならダウ船よりもヨーロッパ製ボートの方がよほど安く買え、また維持も楽だったそうです。その頃でもダウ船を所有することは、すでにお金持ちのステータスとしての意味合いになっていました。
ある日、ドーハ湾をぶらぶらしていると「For Sale」の看板を付けた小型のダウ船を見つけました。確か180万円くらいだったと記憶していますが、きちんと維持していくためには専門家 (船長) を雇う必要があるとのこと。やはり高嶺の花でした。
ちなみに、「船乗りシンドバッド」は実はオマーン人だそうです。アラビア湾岸諸国とインドは、海のシルクロードを通して交易があったんですね。
不思議な形の給水塔
ドーハの町で印象的なモニュメントといえば、あちこちにそびえ立つ給水塔です。赴任してしばらくの間は、「一体あれは何だろう」とずっと不思議に思っていたものです。
それはキノコのような花のような、なんとも優美な形。効率を求めるなら、もっとシンプルな形でも良かったと思うのですが、このあたりはカタール人の余裕のあるところでしょうか。
ドーハは当時、かなり殺風景な町でしたが、車を運転しながら給水塔が目に飛び込んでくるたび、いつも「うんうん」とうなずいていました。ひそかに心のオアシスになっていたようです。
一度、ある日系新聞の記者が「ガソリンよりも高い水」というテーマで取材に来た際そのお手伝いをしたのですが、結局家庭の水道代は政府がかなり補助していることもあって、だいぶ安く抑えられていました。
ミネラルウォーターとくらべたら、ガソリン1リットル (30円) に対し水も同じくらいの値段だったのですが、「それじゃぁ記事にならねぇなぁ」とその記者はぼやいていました。
ガルフ航空ファーストクラスでもめた話
ある時、「国会議員団がドーハ空港でトランジットをする」という連絡が入りました。給油のためせいぜい1時間いるだけで飛行機の外にも出ないのですが、上司が機内まで挨拶に出向くことになりました。
問題は、バハレンを出るときは全員ファーストクラスだったのが、ドーハからカイロは満席のため一部の人がビジネスクラスに移動になってしまうということでした。
誰がファーストを予約しているのかガルフ航空に行って確かめると、それは王族のグループでした。相手が王族では、いくら日本の国会議員であってもどうしようもありません。
ガルフ航空のマネージャー (レバノン人) を通していろいろ働きかけはしたのですが、最終的に何人か分は確保できませんでした。議員団が来る当日、空港に向かう車中で気が重かったこと。
上司と一緒に飛行機に乗り込むと、早速上司は団長と話を始めました。ファーストの1番前の席です。それを見て軽くため息をつく自分。いきなり、後ろから秘書の方が「君!どうなっているの!」と猛烈な抗議をしてきました。
こちらはもう頭を下げるしかありません。「リクエストはしたのですが相手が王族なのでどうしようも…」と必死に説明し、「申し訳ありません」を連発しました。(その秘書の方の先生がビジネスに移った)
しばらくの間「まったくなっとらん!」「すみません…」を繰り返していると、前の席から団長が「まあしょうがないじゃない」と優しく声をかけてくれました。
ようやく秘書の方も落ち着いてくれたなと思ったとき、王族が何人か乗り込んできました。彼らは悠然とファーストクラスの席に座っていきます。横並び2席に1人ずつ。
…って、あれ? 2席の片側は鷹? (1席に鷹の台座が固定されその上に目隠しされた鷹がとまっていた)。そう、彼らはこれからエジプトに避暑に行って、砂漠で鷹狩りをエンジョイする予定の王族たちなのでした。
2席買って1席は自分、1席は鷹。「アッチャー・・・」もしかしてそうやって声がもれていたかもしれません。「き、君ッ!私たちはタカよりも○×△※◇☆… (以下延々続く)」
ふぅ、、本当にこの時は腰が折れるかと思うくらい頭を下げました。今となっては良い思い出、、ってことは全然ありませんが、でもこれ以上辛い (理不尽な) 思いをしたことってこの後ないですから、糧にはなったようです。
お酒はこっそりと
イスラムの戒律が厳しく、当時は空港でもお酒の持ち込は禁止されていたカタール。しかし、外国人なら許可さえ取れば、月に約2万円までお酒を買うことができました。酒屋はもちろん現地人の目につかないところ、郊外の土漠の中にぽつんと建っていました。
自分は体質的にお酒が飲めないので全然必要ないのですが、ある時「もったいないからその権利をくれ」と言われ、お店に連れて行かれ2万円分のお酒を自分の名前で買うことに。なんだか悪いことをしているみたいで罪悪感にかられましたが、その人も飲んべえというわけではなく、料理に使いたかったそうです。
ワイン中心に買い、その甲斐あって、白ワインを使ったアサリの酒蒸しをご馳走になりました。あれは本当に美味しかった。ちなみにカタールは浜に行けばたくさんアサリがとれたので、在留邦人の間ではアサリは定番メニューでした。
一度、隣国から来た出張者がお酒を持っていて、空港の税関でもめました。完全に没収されると思ったら、「出国までの預かり証」を書かされ、また出国の時に返してもらったそうです。「カタールって良い国だ」とその人はしみじみ言っていました。
なお、ドーハ空港で入国審査や税関検査をしている係官はほぼ100%外国人でした。国籍によって職種の区別があるのか、空港や警察はソマリア人、軍人はスーダン人、軍の教官はパレスチナ人、タクシー運転手はパキスタン人、スーパーの売り子はインド人、電話交換機や写真現像などはフィリピン人でした。
空港ではソマリア人スタッフとよく話をしました。「この前豚肉を床にたたきつけられた人がいた」とか「インド人がスーツケースに奥さんを入れて連れてきたが税関で開けたら死んでいた」など、驚くような話を良く聞きました。
ドラえもんが検閲?
カタールは、女性は黒いベールをかぶっているし、輸入物のファッション雑誌も露出が高いとマジックで黒く塗りつぶされているしで (腕とか足ですが)、本当にまじめな国なんだなと思いました。
そんなことを職場のレバノン人スタッフに話していたら、「俺は10年前からカタールにいるけど、5~6年前まではけっこう自由だったんだぞ」と言われました。
どういうことかたずねると、「そもそもカタールは海洋国家であり、海があれば人々はオープンマインドになる。カタールもレバノンと同じで、もともとはわりと自由な雰囲気の国だった。原因は5年前にサウジアラビアがイスラム原理主義回帰を提唱したことで、隣国で小国のカタールは追従せざるを得なかった」とのことでした。
ではなぜサウジアラビアが突然原理主義を唱えだしたかというと、それは1979年のイラン・イスラム革命が原因なのだそうです。もともとサウジアラビアはイスラム勃興の故地ですし、特に首都のリヤドは原理主義が濃厚な土地柄でしたが、少なくとも外国人の異教徒にはそれほど厳しくイスラムの教義を強要することはなかったそうです。
それが、イラン革命によりホメイニ師が原理主義の復興を唱えると、一躍イランがイスラム世界の盟主のようになってしまったことで、それを良しとしないサウジアラビアが急遽風紀の引き締めを図ったということです。
「風紀が乱れている」といっても外国人女性が黒いベールをつけずに普通の格好で外を歩いていた程度のことなのですが、それまでわりと煙たい存在であった原理主義者たちが「宗教警察=ムタウワ (ボランティアの意)」として支持を受け、町を闊歩するようになったのだそう。
この時ドーハにはまだ普通の格好で歩いている女性がちらほらいたし、それを注意する宗教警察も普段はいなかったので、リヤドにくらべたらかなり自由な雰囲気だったと言えるかもしれませんが、空港でお酒や豚肉は没収されたし、郵便小包の検閲も厳しいものでした。
ある日本人の家族が、日本からドラえもんのテレビ番組をビデオで送ってもらいました。しかし送ったという連絡はあったものの、いつまでたっても物が届きません。ビデオが検閲されることは知っていましたが、ドラえもんが没収されるわけはないのになと思っていたそうです。
ある時、同じ番組を録画して手荷物で持ってきた人がいたので、それを貸してもらいようやく観ることができたそうですが、テレビ画面の中であるシーンが目に飛び込んできて、その方はハッと驚きました。
それは、しずかちゃんのお風呂シーンでした。「これのせいか、ビデオテープが届かなかったのは…」 ため息をつきながら納得したそうです。
アラブボイコット
第二次世界大戦後、イスラエル建国とともに始まったアラブとユダヤの対決。戦争、国交の断絶、経済活動のボイコットなど、両者の関係は今日までぎくしゃくしたままです。では、イスラエルおよびユダヤ資本との経済活動を禁止した「アラブボイコット」とは具体的にはどんなことなのでしょう。
まず思い出されるのが、カタールの空港で見た可愛そうなインド人です。カタールも12月になればそれなりに冷え込み、厚手の服がほしくなるときがあります。そのインド人は、おそらくこの出稼ぎのために新調したであろうきれいなセーターを着ていました。
彼は入国審査の荷物チェックのカウンターで、空港の税関職員から「服を脱げ」と言われていました。しかし彼自身はアラビア語がわからないのか、「なんで?」という困惑した顔をするばかりです。そのうち他のインド人仲間が「セーターを脱げって言ってるぞ」と教えてあげたのですが、それを聞いてさらに「どうして!?」という顔つきになりました。
私も最初は意味がわからなかったのですが、横で見ていると、そのセーターには大きな星マークがついていて、それが「ユダヤの六芒星」に似ているため、国内への持ち込みは禁止だというのが理由でした。その場にいた人で「えぇーっ!」と一番驚いたのは誰よりも私でした。
しぶしぶセーターを脱ぐインド人。その後も「New (新品)…、New (新品)…」とつぶやきながら入国していきました。万年筆の大手「モンブラン」が中東にはほとんど入っていなかったのも、キャップについている冠雪のマークが同じく六芒星に似ているためとのことでした。
その他、カタールになかったもの。三菱の自動車。早くからイスラエルに輸出をしていたため、アラブボイコットにあったとか。コカコーラ。言わずと知れた大ユダヤ資本。当時アラビア湾岸諸国でコーラといえばペプシコーラのことでした。日本に帰ってきてからお店で「ペプシください」と言ったら怪訝な顔をされました。
しかし、政治と経済はまた別物のようで、1994年、GCC (湾岸協力会議) 6ヶ国が対イスラエル経済ボイコット停止を決めると、すぐにコカコーラが市場に出回るようになりました。その頃はサウジアラビアにいたのですが、マクドナルドのアラビア半島第1号店がリヤドにできると、サウジアラビア人の家族連れでいつもかなりのにぎわいを見せていました。きっと物珍しかったんでしょうね。
カタール(首都ドーハ)の風景
■王宮
■シェラトンホテル
■近代的なモスク
■伝統的なモスク
■町中のモニュメント
■ドーハ湾
■郊外の旧跡 (?)
■ラクダ
■アラビアオリックス
■ウムサイドの砂丘
■ドーハ湾に浮かぶダウ船
■郊外の夕日
■シェラトンホテル夜景